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わかりたいという気持ち

「あなたにはわからないでしょう」という言葉にはやはりどこか冷たくて上からの非難めいた響きがある。お前にはまだわからないだろうと、そう思ったことが無い訳では無い。

僕はそもそも人は分かり合えないと思っているし、相手の気持ちを分かったと感じるのは幻想だとも思っている。何となくわかったような気になって連帯感を持っていることがあるだけだ。(でも、大方のことはそれでいい。幸せな誤解の上に連帯感は組み立てられており、それで問題は無いのだ。)

「わからないでしょう」と非難するとき、実は自分も「わからない人の気持ちがわからない人」であることを表明しているのだ。もし、わからない人の気持ちが分かるなら、分かるように伝えてあげればいいのだから。その想像力も謙遜さもないから―あるいはその努力を諦めてしまっているから―無遠慮に非難してしまえるのだ。

どちらが偉いということではない。わかってしまった人と、わかる必要なく生きている人がいるだけ。ただ違うだけ。

みんな目がふたつで鼻がひとつで口がひとつだから、「考えたらわかるでしょう」と思ってしまうのだけれども、どっこいそうではない。同じ世界に生きていながら、全く異なる景色を見ているのだ。我々は。考えてもわからないことは割と沢山ある。

「あなたの気持ちは私にはわからないけど、わからない私の気持ちを、あなたも本当にはわかっていないのですよ?」そう言われたら、その通りだ。

全ての人には、それぞれ抱えてきた人生の重みがあるのであって、分かってないのはお互い様なのだ。

〇〇〇

「わかるよ」と言うのは不正確で、正確には「わからないけど、あなたの感じたことを理解したいと思っている」という気持ちがあるだけだ。わかるよとか、簡単に言わなくていい。「そうだったんだね」で充分だ。

いや、それもいらない。
ただ黙って話を聞いてくれて、純粋な関心を抱いてくれて、あなたの真心がゆらゆら揺れたならそれでもう有難いことだ。わかりたいという気持ちだけで充分だし、それだけが必要だ。




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