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認知の歪みという概念について

※専門的知識に基づいた情報ではありません。一般人の勝手な雑感としてお読みください。

認知の歪みという概念が興味深い。何らかの生きづらさの原因としての歪みという表現があるのだろう。

例えば、他人から失礼な態度を取られた時に、状況を判断して相手に反論するのは当然のことである。しかし、どういうわけか失礼な態度を取られた私の側に責任があるのだといつも感じて苦しくなっているとしたら、それは認知が歪んでいると表現される。あるいは、どういうわけかいつも悪いのは相手の側に責任があると考えているのも、歪みとも言えるだろう。

認知とは、出来事や人間関係の認識・理解の仕方のことだ。それが歪んでいる。だから、事実を見ていても、そこに自分に対して理不尽な意味づけをしてしまい、勝手に苦しくなってしまう。

ただ、歪みの無い認知というのもないだろうなとは思う。そんなものは、確固たる普通とでもいうようなものであって、普通は時代によって変わる。十人いれば十通りの歪みがある。ただ、生きづらいほどの歪みがある場合にそれを認知の歪みと表現するのだろう。辛くなければそれは個性の範疇として扱えばよいのだろう。

認知が歪んでいたために、おかしな人間関係や不条理に巻き込まれてきたという場合、認知の歪みが直れば状況は改善すると思われるが、そう簡単ではないようだ。認知とは、それそのものが一人の人が生きて来た人生の積み重ねでもあるからだ。頭でわかっても、心や体の反応・症状はすぐには変わらない。

だから、すぐに変わることと、ゆっくり変わることと、なかなか変わらないことがあるだろうと想定しておくと良いかもしれない。

例えば、生まれた時からサングラスをかけて生きて来た人がいるとする。この世界はそういう色だと思って生きて来た。サングラスをかけていたせいで、周囲の人と色の話をすると意見が一致しなかった。サングラスのせいで頭痛がした。なにか違うことはわかっていたが、何がどう違うのかはわからなかった。
しかし、ある時それは自分がサングラスをかけて生きて来たからだと自覚する。つまり認知が歪んでいたということを自覚する。このサングラスを取ることが出来れば、きっと今まで私が抱えて来た違和感や生きづらさは全て解消するはずだという期待と、どうして私はサングラスをかけさせられて生きて来たのだという怒りや悲しみが湧きあがってくる。

では、サングラスを取るとどうなるのか。当然、見える世界が変わり、感じ方が変わる。刺激は鮮やかになり、明るさを感じ、色に関する周りの意見とのずれがなくなる。すぐに変わる良い変化がある。
しかし一方で、サングラスを掛けることで見えていた世界に馴染んでいた彼は、自分が明るいところよりも少し暗いところの方が落ち着くことを見出す。サングラスで締め付けられていた耳の後ろには、今もあざが消えずに残っている。サングラスをかけていないのに、まるでかけ続けているかのような感覚がふと湧き上がってきたり、それに懐かしさを感じたりすることさえある。サングラスを取ったのに、未だにサングラスの効果が自分の中に色濃く残っているのを感じる時、サングラスを通した世界の中で生きている自分こそ長年苦しみながらも慣れ親しんで生きて来た自分の姿でもあるということを知る。

そのような工程を経て、サングラスをかけていた時の自分と、外した後の自分とをゆっくり比較しながら、自分の生き方を選び取っていく、ということになるのだろう。

歪んだサングラスは取り外せるといい。だが、歪みを持っている自分を否定することはない。歪んでいる部分があるなぁと見つめながら、湧き上がってくる感情を受け止めてあげれば、いい。歪みの無い生き方はない。歪みこそ個性でもあるから。歪みと個性の線引きは曖昧である。


そういう感じ方や考え方をする自分を知り、その長所も短所も知ったうえで、「思った通りではないけれども、まぁまぁ悪くはないこの自分の心と身体で、楽しくやって行こう」となれば上々である。すぐに変わるものもあれば、ゆっくり変わるものも、そしてなかなか変わらないものもある。それは言ってみれば、ごくごく普通のことである。

歪みを取るというよりも、こういう見方をしているとこんな感情や行動を取るようになるという仕組みを理解して、自分の生き方を自分でかじ取りするという認識が良いのではないか。

ちなみに認知の歪みの代表例は以下のものなのだが、要は極端になると苦しくなるということであって、どれもほどほどであれば個性とも才能とも魅力ともなる部分ではある。歪みは歪みで、人間らしいなぁとも思われる。


【認知のゆがみの代表的なパターン】


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