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僕が誰かに話を聞いてもらいたいと思う時

僕は、普段あまり誰かに話を聞いてもらいたいとは思わない。伝えたいことや理解してもらいたいことがあるとあまり感じないのだ。逆に、知りたいことや理解したいことは常にある。だから「聞きたい」「知りたい」と思うことはあっても「聞いてほしい」「知ってほしい」と思うことはあまりない。

聞いてほしいに似てはいるのだけれど、「表現したい」という欲求は、これとは違う。どちらかというと、表現するのは思考を整理してまとまった形で提示したいという欲求なのだ。もちろん結果的に、僕がアウトプットしたものを誰かが読み、興味関心を持ってくれるのはうれしいことである。でも、誰かに理解してほしくて書いているのではない。
変な言い方になるけれども、表現することさえ、僕にとっては「知りたい」欲求なのだ。自分自身さえも興味関心の対象として、自分を知るために書いているのである。

求めているのは、自分の内側にあるもの(感情、感覚、知識、意思、意識など)とこの世界にあるもの(あらゆる現象、物、事、人、動物、植物、文化、芸術、科学、歴史、哲学、数学、音楽など)を、納得しながら繋げて整理していくことだ。自分の経験や実感と、世界の知識とを、納得して自分の中に落とし込みたいのだ。

ここでは「実感」というのが非常に重要なエネルギーになっている。自分の実感を社会の中でも適切に位置づけたいという欲求であり、また社会の知識を自分の中で実感のあるものにしたいという欲求である。

たとえば、今の僕には、あるインド人がどんな人生観をもって生きているのか、全く実感が湧かない。そして実感をもって理解する必要性もない。
でも、ある日仕事でインドに長期滞在することになったら、おそらくそれを知る必要が生まれるだろう。そして、インド人の人生観を通して、自分の人生観や、比較対象として日本人の人生観をより広く深く理解するようになるのだろう。そのような必要性から生まれた理解は、インドに行ったことのない僕が本でなんとなくインド人の情報を取り入れただけの理解とは、全く実感の異なるものになるだろう。

そのようにして、自分の中にある感情が、周囲の世界とうまく繋がっていないように感じられるとき、切実な実感を求めて知識や情報を探ることになる。そして、社会の在り方と自分の中の実感が一つになった時、僕はそこに居場所を見つけることができるのだ。
僕はいつもそういうことに取り組み続けているということになるかもしれない。

だが、そう簡単に物事が進まない時というのがある。実感を求めて知識や情報や体験をどれだけ深めても、自分の内側にあるものと世界とがうまく繋がらないように感じる。これは苦しい。
言い換えると、何かを求めて生きている自分の感覚自体に疑いが生じている時なのだと思う。おそらく、僕はそのようなときに、「聞いてほしい」と感じるのではないか。

インド人と仲良くするために、インド人の人生観を理解し始めて、それで実際に良い信頼関係が築けたとしたら自信になるだろう。しかし、何十年もインドで暮らした後、ふとこう思うのだ。「僕がインド人との間で築いてきたと思っている『信頼関係』というのは、本当に信頼関係と呼べるほどのものだったのだろうか。彼らは僕を本当に信頼しているか。そして僕は彼らのことを本当に信頼しているだろうか。そもそも、僕は人を信頼して生きてきたのだろうか。」

このような思考にはまると、思考している自分そのものに疑いを持ってしまって、知識や情報が体系的に自分の中で構築できなくなってくる。自分が歩いてきた道そのものに自信が持てなくなってくる。

そのような時、本当に頼りになるのは「僕が本当に何を感じ、何を考えているのかを、誠実な関心をもって聞いてくれる人」の存在である。その人がより高度でより広い知識を持っている人であれば尚良いが、しかし、この時の僕が求めているのは新たな情報ではないというところがポイントだ。新たな情報は、この段階においてはさらなる混乱を招くことがある。
必要なのは、余白というか空気というか、そのようなものである。混乱している自分の内的世界を鎮め、今手にしている乱雑な情報を何とかして一つの世界観に落とし込むための、酸素の供給。そういうなんとも形容しがたいものを与えてもらうことが必要なのだ。

今まで、僕が空気を必要としていた時に、それを与えてもらった経験が二回ある。一回目は、大学の時の友達。試験前に、これまでの講義のノートを紛失してしまってすごく焦っていた時(試験がノート持ち込みのものだったので)、彼に気持ちを話していたら、非常に親身になって聞いてくれて、そのおかげで心が落ち着き、冷静に記憶を辿ってノートを見つけることができた。この時は、ノートを失くしたということ自体よりも、大学生活に関わるその他の積み重なった様々な違和感があった(ような)のだが、友人に聞いてもらったことでその違和感が緩和されたのだ。

二回目は今朝、妻とモーニングを食べながら、夫婦の在り方と子育てと親子の繋がりについて、話せたことだ。
今朝は、話そうと思っていたわけでもなく、聞いてほしいと願っていたわけでもなかった。ただ、この数か月、整理できずにもやもやと溜まっていたものが、パンとコーヒーを口に運んでいたらするすると隙間からこぼれ出ていった。「妻が僕の話を聞く」というのは、あんまり起こらない状況なのだが(僕が聞いてほしい話というものを持っておらず、僕の方から尋ねることが多いから)、今日は僕の言葉を聞く、妻の聞き方にちょっと感動してしまった。
こういうのはタイミングもあるかもしれないし、日ごろの積み重ねもあるのかもしれない。よくわからないが、とても感謝しているし、救われたような気がしている。感じ方も考え方もかなり違う妻だけれども、重要なところはなぜか共有しているような信頼があるので、ありがたい。

「知りたい」という気持ちが常にあるので、僕は聞き上手だと言われることが多いのだけれど、妻はまったく別の種類の聞き上手だった。たまたま機嫌が良かっただけかもしれないけれど、ふわふわのクッションみたいな聞き方だった。
妻の中に働いている力学は僕にはよくわからないけれど、まぁすべてがわからなくてもいいや。助け合えたら、それでいい。

妻からわかってほしいと言われれば、出来うる限り、わかるように取り組みたい。

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