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#50 函館のおもいで

 青森県青森市で育った筆者にとって、北海道函館市は身近な街であった。とは言っても、実際に訪ねたのは小学校6年生の修学旅行、高校のラグビー部の合宿で2回、30歳過ぎて地元で数年間働いていたときに1回、再び上京して結婚してから1回の計5回しか行っていない。天気のいい日には、陸奥湾の先、津軽半島と下北半島の間に津軽海峡を挟んで北海道が見える。函館そのものではなかろうが、あのあたりが函館かと遠望していたものだった。現在は知らないが、筆者が小学生の頃は、青森市の小学生は函館に1泊旅行をして、函館市の小学生は青森市に旅行をする交流事業があったようだ。青森の人間にとって函館は最も身近な都会であり、観光地の多さもさることながら「棒二(ぼうに)デパート」と呼ばれた百貨店、棒二森屋(2019年閉店)など憧れのような存在であった。
 青函連絡船に乗ったのもこれが最初で最後であったが、青函トンネルの開業とともに青函連絡船は姿を消した。凪の陸奥湾内は大丈夫だったが、津軽海峡の荒波はなかなかに揺れがひどく、船酔いには閉口したが、船の周りについてくるイルカの姿に歓声を上げたりした。函館郊外のトラピスト修道院、トラピスチヌ修道院の有名なバター飴は、函館土産の定番であり、筆者も大好きだったが、現在ではかつての売り上げはないという。もっとも、厳格なカトリック修道会の一派である厳律シトー会(トラピスト会)のモットーは、「祈り、働け」であるから、そういう問題ではないのだろう。明治29年(1896)創立の由緒ある修道院である。筆者は他にも酒好きの父親のために烏賊徳利を土産に買ったのを憶えている。
 高校生のときはラグビー部に所属していたが、夏合宿として函館に一泊することが定番であった。函館有斗高校というラグビーの強豪校があり、一緒に練習したり、練習試合を重ねたりした。筆者が高校1年生の際は、札幌藻岩高校のラグビー部も来ていて、洗濯機の前で向こうの女子マネージャーたちと戯れたのもいい思い出である。ちなみに、藻岩(モイワ)も以前書いた雲谷(モヤ)と同源のアイヌ語地名である。
 大人になってからは各種教会や中華街の跡地、五稜郭や函館(津軽)要塞陸軍標柱などを見学したが、弁天台場跡にはまだ行けていない。結婚後は朝市で朝ビールを楽しんだり、自分史上もっとも美味いイカ料理を食べたり、より観光寄りで歩いた気がする。とにかく坂道が多い街だが、路面電車も走っており、明治以来の歴史を感じさせる街並みは独特の雰囲気を持っている。函館山の夜景はもちろん世界一の美しさであるのだが、10年近く前に行った際も外国人観光客の多さは異常であり、オーバーツーリズムはすでに始まっていたようだ。

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