#38 運命の疫癘

 疫癘(えきれい)とは、疫病の流行のことである。今夜のNHK大河ドラマ「光る君へ」で関白藤原道隆の後を継いだ実弟道兼は、後世「七日関白」と呼ばれたように、関白就任の日に倒れ、そのまま還らぬ人となった。以前も書いたように、当時、長徳元年(995)は疱瘡(天然痘)が大流行しており、道隆を除く7人の公卿が同時期に死んでいる。
 すなわち、関白藤原道兼(関白藤原兼家三男)、左大臣源重信(宇多天皇第八皇子敦実親王四男にして左大臣源雅信実弟)、大納言藤原済時(左大臣藤原師尹次男)、大納言藤原朝光(関白藤原兼通四男)、大納言藤原道頼(関白藤原道隆長男)、中納言源保光(醍醐天皇第三皇子代明親王次男)、中納言源伊陟(醍醐天皇第十一皇子兼明親王の子)である。ちなみに、藤原道頼は道隆の長男であったが、生母(藤原守仁娘)の家格から庶長子とされ、嫡男は高階貴子所生の三男伊周とされた。
 議政官たる公卿の定数は16人程度であり、半数が一気に病没したことは権力の空白を生むこととなった。道隆嫡男の藤原伊周は、内大臣ではあったが弱冠22歳と若すぎたため、関白はもちろん内覧になることもできず、やがて権大納言藤原道長に権力が集中していく。身内贔屓が過ぎた道隆の強引な手法に対する朝野の不満もあり、何よりも一条天皇生母(国母)にして我が国史上初の女院となった皇太后東三条院(藤原詮子)の強い支持により、道兼の後継は道長に決したのである。一条天皇は、中宮定子や伊周に親しみを感じてはいたが、道隆亡き今、朝野の反発を抑え込むことはできなかったものと考えられている。詮子は道長の権力継承を見越して、道隆後継を道兼にしたともいうが、実際のところは分からない。関白以下の左大臣も病没しているため、次席は右大臣道兼となるのは自然な流れでもあった。
 なお、天下の権力を握る者にとって健康第一とは歴史の教えるところである。道隆ら兄弟の父である藤原兼家が最終的に摂政関白となれたのは、その健壮ゆえであり、本来、藤原北家九条流の嫡流であった藤原伊尹や兼通ではなく、兼家の系統が藤氏長者となれたのも同様である。有力な兄であった道隆・道兼が病没し、道長が権力者となったのは運命と人望の賜物であり、いまだ30歳の若さながら内覧に任じられ、すぐに右大臣に上っている。病弱と言われながらも長きに亘って権力を掌握し続けたのは、やはり健壮ゆえであろう。
 また、道長は優秀な実務官僚でもあり、名ばかりの称号を嫌い、実力を好んだ。後世「御堂関白」と称されるが、実際には関白には就任しておらず、摂政も一年間程度しかなっていない。長く陣定の一上である左大臣に留まり、政策実現に注力した。天皇の外戚となることが権力基盤であると同時に、歴代天皇との距離感を保っており、政策は公卿の合議である陣定で決定し、天皇の個人意思を極力排除している。天皇と対立することもあったが、政策に間違いがなければ朝野の不満は高まらない。さらには、東三条院を含む母后(天皇の母)の力を見通していた節もある。

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