見出し画像

#44 町田久成のこと

 前回少し触れた東京国立博物館本館裏手の庭園は、隠れた名所としても知られるが、そこにひと際大きな石碑が建っている。上部の篆書には「町田石谷君碑」とあり、東京帝室博物館(東京国立博物館)初代博物局長(博物館長)町田久成の顕彰碑である。明治43年(1911)建立であるから、久成の十三回忌に関わる建碑と推定されている。
 町田久成は天保9年(1838)生まれの薩摩藩士であり、町田家は代々薩摩国日置郡伊集院郷町田(土橋)村を領した島津家庶流の家柄である。同じく領地であった日置郡伊集院郷石谷村から、後に石谷を号することになる。若くして江戸の昌平坂学問所に就学し、帰藩後は御小姓組番頭、大目付と順調に出世する。家老小松帯刀、側役大久保一蔵(利通)と連名で薩摩藩開成所を設立した。薩英戦争や禁門の変にも数百の兵を率いて参戦している。
 慶応元年(1865)、薩摩藩英国留学生を率いて英国留学を果たし、このときの欧州視察から文化財保護や博物館建設を思い立ったとされる。明治維新後は、五代友厚、寺島宗則、伊藤博文、井上馨らとともに参与職外国事務掛となるが、特に同僚であった井上馨とは親交が篤く、井上は前述の顕彰碑建立に深く関わり、篆書の題を書いている。その後、大学大丞に移り、ここで「日本博物館の父」とも称される田中芳男(幕臣出身)と博物館創設に動いていく。文部省博物局を設置し、博物館建設を建議する。明治5年(1872)、湯島聖堂博覧会を開催し、東京国立博物館ではこれをもって創設日としている。翌年には現在の帝国ホテル一帯に内山下町博物館を開館し、明治14年(1881)の第二回内国勧業博覧会に伴い上野寛永寺本坊跡地に美術館を建設し、その翌年には東京帝室博物館に改称されて初代館長となった。
 ところが、博物館建設の目的を果たした久成は、就任一年にも満たずに退職し、三井寺法明院の桜井敬徳師より受戒し、僧侶となる。久成の墓所が寛永寺塔頭の津梁院(弘前藩津軽氏建立)と三井寺法明院に分かれているのはこのためである。岡倉天心やフェノロサが町田久成邸で受戒していることは、あまり知られていない。元老院議官を辞職後、三井寺光浄院住職となる。明治30年(1897)逝去。冒頭の「町田石谷君碑」は、井上馨らの提案で建碑され、撰文は重野安繹、謹書は杉孫七郎である。碑文の末尾には、「龍に攀じ鳳に附く、雲台麟閣は我願に非ず、我何くにか適わん、兜率天こそ安宅」と書かれており、攀龍附鳳、すなわち門閥におもねり立身出世を望まず、三井寺本尊である弥勒仏の浄土、兜率天に往生することこそ本願の意であろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?