見出し画像

この木なんの木あなたが気にする木

 あなたが森の中にいるとしよう。突然隣の木が動いたらどうするか。驚いて逃げる? その場で呆けている? それとも観察を始める? では、さらにその木が話しかけてきたらどうする。逃げる人が大半だろう。

 しかし、よく見てみればその木はあなたに何もしない。枝を揺らし日当たりのいい場所に動こうとしているだけだ。遠くから離れてみている分に害はない。その葉が落ちたり陽射しが変わったり少々不快なことはあるかもしれないが充分我慢できる範囲内だろう。彼らに害意は無い。

 しかし、一部の人は言うだろう。「植物が自律移動するなんて異常だ」「害が無いというのは向こうの自己申告だ。そもそも言葉が本当に通じているのかすら分からない」「こんな木はあってはならない」「こんな森は焼いてしまえ」

 まあ乱暴なことだ。しかし、大半の人は木が動き出した時点で怖がるだろうし、いくら加害しないと分かっていても近づかないだろう、と予測できる。自分から得体の知れないものに突っ込んでいく馬鹿は研究者のみで充分だ、と。そして研究が進んで安全だと分かっても「安心できない」と言う層は残る。

 この構図は、相手が同じホモサピエンスでもよく見る光景である。

 ホモサピエンスたる人類が全て仲良しこよしでお手手つないで今まで発展してきている、なんて幻想は捨てよう。ギリシアやローマの奴隷があり、ヨーロッパに農奴がいて、コロンブスがアメリカの先住民を奴隷化しアメリカがアフリカの黒人を奴隷として輸入したように(ここでの”奴隷”はそれぞれ微妙に示しているものが異なるが)、異性愛者のみが正常で男と女の価値が不平等だった時代もあったり、天は最初から人を上下左右前後で分けている。その格差は生まれと育ちによって拡大する。

 ここで生まれた格差はそのまま人を種類の異なる木へと変える。メディアに露出する東大生が田舎のマイルドヤンキーと異なるように、バブル世代とリーマンショック世代が異なるように、創作趣味を持つ者と持たない者のように、世界は分断で満ちている。この分断の壁の向こう側は、動く木が群生している未開の地に等しい。そして、壁は世代だけではなく趣向といった内心を囲む形でも存在する。

 だが、未開の地にもルールはある。野蛮だと思う前に、そこに流れているルールを知らなければあなたの方が野蛮人だ。

 あなたは誰かの容姿を気持ち悪いと思ったことがあるだろうか。それと同じように、誰かの趣味を気持ち悪いと思ったことがあるだろうか。また、それを表明し、誰かからの賛同を得たことがあるだろうか。

 その気持ちを持つことは正しい。あなたの感情はあなたものであり、否定してはならない。ただし、その相手に直接表明するのはやめておいた方がいい。それだけのことだ。

 だが、賛同を得ると人はそれが大多数の意見と、正義と勘違いすることもある。すると、数の暴力でもって相手を襲う。そう、不快は人を分断する壁である。人が感情を理性で包む限り、これは止まらない。

 相手が動く木で、自分が人で。そう思った瞬間、自分が動く木で、相手が人であることを自覚すれば問題ない。まあ、炎上は自分が絶対のホモサピエンスだと信じて疑わないから起こっているのであるが。無限のリヴァイアスでも見て落ち着けと言いたい。

 そして、炎上の炎で壁の向こうの木々を焼き尽くそうとする行為も見受けられる。「動く木は動けない人への差別」「動く木は公共の場に相応しくない」とか、逆に「人は動く木を焼いてきたから今度は人を焼こう」「人は細胞に葉緑体を入れて謝罪するべきだ」もあり得る。

 それを煽り、自分が不快なコミュニティ=壁の内側を焼こうとした挙句、自分の壁へと延焼したら「そんなつもりじゃなかった」とか「あっちは焼かれるべきだった」とか言ってくるかもしれないが。自分に焼かれる理由が存在しないと考えているならば、自己陶酔に浸っているか周囲が見えないか、自己の絶対化しかできないのだろう。世界は相対性であると理解してほしい。

 話を戻す。人が人である以上、不快は避けられない。ただし、発生するのは自分の内心であり他者に何かしらの行動を起こすものではない、というのは理解できるだろう。不快は加害ではない。いわば自傷のようなものだ(とはいえ人の思考・内面は周囲からの影響でも作られているので自分だけの思考と言い切ることもできないが。絶対無謬の正義があり得ないのと同じように、絶対孤立の自己は存在し得ない)。

 だが、現実では壁は心の中や電脳空間にしか存在しない。木は全て同じ土の上で動き続ける木である。同じ社会に帰属している以上、いくら彼らが不快でも排除はしてはいけない。別の種の木だからと生息域が制限されてはいけない。スギ花粉がつらいなら離れればいいだけだ。

「相手を不快にさせない」には「相手が不快になる行為をしない」も含まれる。そこに不快の表明を含めてしまえば堂々巡りだが、少なくとも別の壁へと出向いてやることではない。それこそ相手が現実に実際に危害を加えているという事実が無ければ多少の不快は見過ごし、狭量な正義心を諫め、自らの壁の中で寝ていればいいものである。

 究極的に、自分以外は全て動く木だ。自分も動く木だ。クヌギ、コナラ、イチョウ、マツ、スギ等々、多種多様な木々が動いている。誰が何を考えているかなど推し量ることしかできない。内心で何を考えているか不明。一つの言葉が通じたって十の言葉が通じはしないかもしれない。隣の客が柿じゃなく客を喰う可能性だって無いわけではない。

 まあ、SNSというかTwitterは、一つの意見だけが出回りさらに自分の意思に沿うように意図を解釈してしまえるから、木というよりも藪を纏った何かが動いているようなものかもしれない。全員藪の中。

 そんな中で、社会的に絶対的に正しいものなど存在しない。社会の中でも壁に区切られたいくつもの社会があるし、1つの社会で正しくても別の社会で間違っていることなど無数にある。全体を包括する壁を広義の社会としても矛盾があるのは当然だ。

 社会的責任という言葉が生み出されているが、日本国にいる以上、法律上はいかなる権利も義務や努力や責任と引き換えに手にするものではない。それは先人が成し遂げたことだ。しかし社会的には違うかもしれない、人を不快にする少数派は権利を求めるため義務や努力が必要で怠れば迫害されても仕方がない、その責任がある、という主張も存在する。

 これは加害的な性質を内包するがゆえ、と言われる。確かに臭気や容貌等の不快さ、特に不潔さは忌み嫌われる。カードゲーマーは風呂に入れ、服を洗濯しろという表現を見たことがあるのではないか。周囲への配慮が足りず不快をもたらす存在からは、人が離れるだけでなく社会の方から突き放される。昨今マスク未着用お断りの店が増えているように。

 これはフィクションでも顕著か。フィクションでの犯罪、それに類する行為に注釈をつけるべきだとか、絶対に許されない行為だとメッセージ性を込めるべきだとか、彼らの絶対なる正義を以って判断する動きがある。

 フィクションの役割は犯罪全てを悪として描くことではなく、とある社会で殺人は悪だが別の社会では善である、ということを伝えることである。……んなわけない。フィクションの役割なんて後付けで、伝える内容も決めず好きなように表現すればいい。レーティングに引っ掛かった時はその時だ。ボンドルドのように素直に+15とかR-18に分類されよう。

 そんなことを言っても、現実では正当な理由による迫害はある程度社会的に許されている。中年の男性は「おじさん」とレッテルを貼られ"気持ち悪い加害者"として攻撃の対象になる(それゆえ最大の弱者なのだが、他の全ての壁の中からキモいと思われているため見過ごされる)。権力者と判断されればいかなる攻撃も耐えるべきとなる(これに関しては派閥で攻撃と防御が生まれるから少しはマシか)。

 自分の身体が資本だとすれば、それを磨かなければ落ちこぼれるのは資本主義の理論としては正しい。ここには思考や内心、表現、外見などあらゆるものが含まれる。ただし、磨くための砥石には「社会的通年」と刻まれている。しかし、その落伍者を社会の側から突き放すことがあれば、それらは泥やヘドロのように溜まり、いつか復讐される時が来るかもしれない。そこには都合のいいゴジラは存在しないだろう。もし存在したとしても、放射能でヘドラ以上の汚染を撒き散らすに違いない。

 とはいえ法律が社会的圧力のせいで変わることもある。さすがに内心の自由・表現の自由が変わることは永劫ないと思うが、表現に関して青少年への悪影響として色々変わることはある。話が逸れたが、社会的に制限される表現は確かに存在するが、それを拡大解釈したりあまつさえ絶対的正義と勘違いしてはいけない。隣の木が動いても、自分の常識が違っていたというだけなのだから(なお、実際に自分から(?)場所を移動する植物は存在する)。

 自分としては、現実で木が動き出しても害が無いなら鷹揚に構えて居たい。たとえ怖くても逃げないように、それを表に出さないように、できれば樹液の採取とか枝の採取とか根のサンプル取ったりCTスキャンしたりして調べたい。

 それではまたどこかでヘボットとムシキングを見ながらお会いしましょう

 面白いと思ったらお布施お願いします

ここから先は

0字

¥ 300

駄文を書くカボチャ。体験を徒然と