見出し画像

病か飢か、命の選択

 中々衝撃的な事が起こる最近。香港だったりタリバンだったり国際情勢は踊る会議よりも加速して、日本にも火の粉は降りかかっている。だが、covid-19、俗に新型コロナウイルス(以後、新型コロナウイルスと呼称)と呼ばれる病については国内からも同等の衝撃が飛び出してくる。

 医療従事者による私権制限、ロックダウンの肯定。最近一番の驚きはこれだろう。新型コロナウイルスによる死者を減らすためと言えば聞こえはいいが、人権の制限はそんな簡単に言いだしていいものではないだろう。有事のために準備しておくのはいい。しかし、命を救うためなら人権を制限していいとは噴飯物ではないか。心臓を動かすために脳を止めては意味が無い。

 そう、最初は「病院では命の選別が始まっています」だった。今になってそんなことを言い出したのは、病床が満杯なのだろうな、と判断はできる。しかし命の選別などとうに始まっていた。それも医療が関係している中で。

 最初の緊急事態宣言。そして批判され中止されたGOTOキャンペーン。これが一番わかりやすい。

 人流を減らせば人同士の接触は減り、ウイルスが感染する機会も少なくなる。理屈は分かる。だが、人流が減れば経済に影響を及ぼすのも分かるだろうし、観光業がかなりの痛手を負うことも分かるだろう。

 特に痛手を負った観光業の救済のため、お金の余っている人がお金を使う機会を増やすように提唱されたのが、GOTOキャンペーンだ。しかし人流が増えること、さらには一部業界へしか補償がされないと批判された。そのため中止された。

 これが命の選別である。感染を減らし病気的死を減らすために経済的死を増やす。法的拘束力は無いが気分を変える緊急事態宣言でさえこれなのだから、私権制限を行うロックダウンでは更なる被害がもたらされることは想像に難くない。

 ならば直接金を配れ、と言われるかもしれない。しかし観光業はホテルや観光地のみで成り立つわけではない。その地の飲食店やコンビニスーパー、タクシーやバス、電車、その他諸々の寄せ集めでできている。それら全てへの補償などいつになったら終わるのか。下手なことをすればこれも命の選別と言われるだろう。

 そして、金だけあったところで縁は消えるだけだ。食材の仕入れに消耗品の購入、顧客の繋がり。物流と人流が結んでいた縁は金銭のやり取りで結ばれていることもある。長逗留する客も一度脚を向けなくなれば再び訪れなくなるかもしれない。

 人流を制限することは経済を壊死させる。体内にウイルスが入ったとして、血栓や弁を作ってウイルスの侵攻を抑えようとすれば身体は末端から壊死していく。脳や肺、心臓や肝臓、脳が無事だったとして、それで腕や脚が壊死していたら身体は無事とは言えない。

 病床数が不足して平時なら救える命が消えていく、その歯がゆさがあるのは理解できる。しかし、病気以外を原因として自宅で死んでいく命が増えることを考えないのは正しく命の選別である。無意識で行っている命の選別を今さら病院でどうのと言われても、視野の狭さに困惑するだけである。

 ロックダウンについて言う。あれはそんな気楽に口に出せるものではない。世が世なら治安維持法だの戒厳令だの呼ばれている代物だ。人の自由を奪い国家による監視が発生する。時間を奪い経験を奪う。

 本格的に実施されれば、軍隊や警察がそこかしこで人々を見張り、許可が無ければ外出もままならず、コンビニが開くか通販が許されるかは不明、金銭的補償すら満足になるかも分からない。エンターテインメントなんてもってのほかだ。

 それでも食料生産、物流、工事、公務員、俗にエッセンシャルワーカーと呼ばれる人々は働くしかない。そこを止めれば人が飢え死ぬからだ。病院にとっては製薬や機器の生産からベッドのシーツや注射針等の消耗品交換まで、決して止めてはいけないものもある。物流も人流も感染に影響しない最低限だけ残す、なんて基準でラインを作ることは無理な話である。

 だからこそ、マスク着用と手洗いうがい水分補給といった個々での対策方法、またワクチン接種が大事なのでもあるが。

 また、ロックダウンには他にも致命的なデメリットがある。それは、筆者のように1年以上引きこもった上に年に数回しか外出しなくても平気な狂人には関係の無いことでもある。

 簡単に言えば、外出できないことによって発生する精神的抑圧、そこから発生する精神的疾病だ。緊急事態宣言はまだお願いでしかなく、法的拘束力は無く、外出しても法的に問題はない。それでも人と会えないこと、変わらぬ日常が続くこと、ロクな楽しみが無いことによるストレスは溜まっていく。

 現に、筆者の友人なんかは年明けから社会人交流会に参加していたりバーベキューを企画・実行していたりする(きちんとバーベキューのマナーは守っていると思いたい)。また、別の友人は登山やキャンプもしている。それらは彼らにとっては生きるために必要な手段で、健全な生活を送るために急を要する手段である。

 そして、いくら感染の危険性があったとしても精神的な死、あるいは労働を行わないことによる金銭的な死よりもマシと判断して外に出ている。つまり自身の命の選択をしている。それは医療従事者からすれば病床を埋める危険な行動であり患者の命を奪う行動だろう。それでも、彼らにすれば命を救う行動である。

 しかしロックダウンでは事情が異なる。それ以上に悪化する。行動は監視され満足に外出もできず、金はあっても仕事があるかは分からない。期限を切っても緊急事態宣言のように延長されれば未来が見えない状況が続いていく。その圧迫感に慣れる人と慣れない人がいたとして、ここにも命の選別が発生しているのは分かるだろう。

 「若者は考えなしに外に出ている」と言われることもあるが、考えたうえで外に出ている者もいる。それはもう、彼らの自由意志として尊重するしかないものだ。自分の行動が死を意味するものだとしても判断はした上で行動する。その覚悟は否定できない。そして、私権制限はそうした意志を抑圧する。だからこそ気軽に訴えていいものではない。

 ついでに言うと、他の国のロックダウンと比較するのはあまり意味が無いと考えている。まず国土の広さや人口、人口密集度等によって感染の度合いも重症者・死者の度合いも変わってくる。ロックダウンで感染者が2桁に抑えられる国もあればエッセンシャルワーカーの間だけで感染者が3桁になる国もあるかもしれない。

 ついでに、国によって人権も異なる。元から私権に大きく制限をかけていた、あるいはかけられる法律があった国はロックダウンもスムーズに行えていたはずだ。日本は人権が自由になる幅が大きいため、それを制限することについて言及するだけでも非難が集まる。

 人権は、それを定めている国・文化による一つのコードのようなものだ。プログラミング言語で名前が似ていてもCとC#とC++が異なるように、国によって人権と名がついていても内実は異なる(例えば、日本と中国の人権が同じと考える者はいないだろう)。

 そのため、日本のロックダウンは、たとえ施行されるとしても他の国とは異なるものになるだろう。

 それを踏まえた上で、1人の犠牲者も出したくないと考える医療従事者にとっては業腹だろうが、ある程度の犠牲者を生みつつもそれ以上の死者を出さないラインを探るしかないと考える。というか医療従事者や政治家や経済関係者を集めた有識者会議は、決して外に出ることは無いにせよ、そういったことを話しているはずだ。

 現代人類未曽有の疫病なのだからある程度の死者は出る、しかし経済的な死者が予想される病死者よりも多くなっていけない。その線引きをしていると考えるのが当然だ。

 こう述べると「人の命は数ではない」とか「家族が死んでも同じことが言えるのか」とか「自分はどうなのだ」とか言われそうだが、「数として見る必要もある」「当たり前だ」と答える以外ない。いかなる死者だろうと数えれば数で、親しい人でもその1つだ。それがエンタメ業界に功績を残したタレントだろうが親だろうが好きな作品の作者だろうが自分だろうが、悲しみお悔やみ申し上げるこそすれ特別扱いはできない。

 まあ、人が減るということは社会を構成する人員が減るということで、死者数が増えれば国力低下にも繋がる。望ましいものではないし感情的になるのも理解できる。なるたけリアルヒューマンの接触を減らしたいだろう。テレワークもできるところとできないところがある。

 接触回避にも限度はあるし、その分だけ感染者も重症者も死者も出る。だからそれらを最低限にするようマスク着用と手洗いうがい水分補給にワクチン接種をしていくべきだろう。

 有事に備えて頭が冷えている平時に私権制限が伴う法律を考えておくのは必要だ。有事真っただ中でも次に活かすためには必要だ。しかし、いくら医学的脅威な現状だからといって、経済や法律の素人の医療従事者が自分の言動を棚に上げて(あるいは自覚無しに)他の人々にさらなる負担を強いるのは厚顔無恥と呼んでも差し支えない。

 ただ、医療従事者も現場で大変な状況、冷静な判断もできなくなっているかもしれない。医療従事者でなくとも常時開催中の緊急事態宣言デイリーに疲弊している人も多いだろう。そこに私権制限イベントまで加わったら噴き上がる人も多くなるのは想像に難くない。申請制の補償はあれども運営の詫び定額給付金は気配すら見せない。オリンピックは確かに気分を変えるイベントだったしパラリンピックも待っている。それでも、閉塞を打ち破るには足りない(国際情勢はそれ以上にイベント満載だが)。

 それでももう少し視野を広げ、医療の逼迫と同じかそれ以上に逼迫している業界があることも考えてほしい。人権についても考えてほしい。金銭的補償程度では時間の対価にはならない。外出で得られたはずの経験は戻らない。

 だから、基準線を設定して元の生活、もしくはもう少し衛生的で人との接触を減らす方向に伸びた生活が到来するようにと祈る。英国のようにワクチンパスポート(以下チンスポと呼称)があれば大多数が集まってもいいようにするなど、ある程度の感染者を考慮に入れて経済を動かす方向に変えていく未来があるといい。

 自分の好きなアニメに[C] the money of soul and possibility controlというものがある。経済アニメだが非常に面白いぞ。Dアニメストアにも置いてある。未来を担保に現在を維持する(現在が破綻すれば未来も消える)か未来が無ければ現在も破綻するか、といった大枠の争いがある(詳しくはネタバレなので本編を見てほしい)。

 自粛で消えた時間は未来への担保であり現在を維持するために必要、しかし未来を食い潰し現在の破綻を招く結果でもある。ロックダウンはこれをさらに加速させる。両方は共存し、バランスの上で釣り合いを取る必要がある。アニメのように白黒つけるわけにはいかない([C]本編でもあんまり白黒はっきりついたとは言えないけど)。

 医療も経済もバランスを取って、双方の死者が最も少なくなる点(0とは言ってない)を求めて動いてもいいのではないか。

 願わくば、ワクチン接種が加速しますように。そして感染者数が増えたとしても死者数や重症者数が減って自由に出歩ける世の中になりますように。

駄文を書くカボチャ。体験を徒然と