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たのしむことしかできない

年が明けて2021年。

2020年は例にもれず家で過ごす日々が続いて、それは別にいつもどおりだったからいいのだけど、旅とかはできないし行くつもりだったライブはおじゃんになったりした。

運動しようと抽選を乗り越えてリングフィット買ったり、YouTubeで芸人さんのネタを見たり、radikoに課金してラジオ聞いてみようと試みたり、めちゃくちゃ料理してみたり、新しいことする雰囲気に後押しされて普段そんなに熱心にやってなかったことをはじめた。頭でぐるぐるしてることを記録しておくためにnoteもはじめた。

こういうことは年末に振り返っておいてサッパリするものなんだろうけど、思いっきりもやもやなまま年越しをしたので新年さあやるぞという気持ちになれていない。

しかもこんなに家にいるというのに大掃除せず新しい年になった。何も変わらないし自分以外が変わった。結局2020年を持ち越してしまった。
でもねずみ年よりうし年のほうが縁起よさそうなのでうし年の2020年みたいな気分でしばらく過ごして、アハ体験くらいゆっくりした速度で2021年を迎えていたい。

大晦日になったばかりの夜、
じんわり、かつ急激に限界がきて、2020年を終わらせるためのSpotifyのプレイリストをこしらえはじめていた。
今年といえば、これかなと工藤大発見の「エンドオブコメディ」も入れていた。
お笑いがテーマの曲。
素敵な曲なんだけれど、この世のユーモアにはものすごく種類があることを思い出して、これを聞くとかなり悩みこんでしまう。

ユーモアこそ素晴らしいし、嫌なことを昇華できる方法なのだけど、なぜか対立とか批判とかそういう羽目になってしまう。

M-1グランプリもあって、年末特にいろんな方向に盛り上がっていたけど、本編は楽しく見ていた。
熱心に見てきているわけでもなかったけど、今年はいつもより興味持って見ていたので楽しみ方の選択肢が増えた。敗者復活も楽しくて、自分の好きになりやすいお笑いの傾向がより見えてきた気もした。

家にいなきゃだめ真っ盛りの頃から、動画やテレビやラジオやらネットやらで情報集めて見るようになって、目につくもの試してこれ好きだなと思えるものをどんどん深く追うようになった。
久しぶりに心地よいと思うものが増えた。生きる希望がちょっとでた。

でも、どこへ行ってもそうだけど、良いなと思って情報得れば得るほど、自分の好きなものが批判されてたりなぜか槍玉に挙げられてたりするのを見かける。
感性はそりゃ違うよなあとも思うから十人十色でいい。

だた楽しみかたがわからなかっただけなら、頭の中の「今はわからないな」の棚に置いておけばいいのになと思う。いつかわかるかもしれないので。

それで済めばいいのだけど、そうじゃないことがある。お笑いは芸人内での立ち振る舞いでその人自身の評価が下されがちだ。飛び抜けて天性で狂えないのならひたすら努力して心血注いで、あるべき自己像を作りあげようとする。

ネタを作る・演じる努力とも違うように見える。話術だけでなく、いかに周りの人間を巻き込んで、どれだけ目立つか、どれだけエンタメにできるかを求めたり求められたりしているように見える時がある。

だから真っ直ぐお笑いやってるように見える人は尊敬されるし、反対に、道を逸れるような振る舞いは笑いに不真面目だとみなされ、内外問わず批判の的になりやすいように思う。印象上そう見えているというのみで、立ってる側によっても変わるから難しすぎる。

芸能、音楽、エンタメなんでもそうだけどイメージ主義なところもあって、キャラの印象や客層で方向性が固められてしまうこともあるし、思った方向にいかないことも沢山あるから、人間みんながみんなそれに耐えられるとも思えない。それに弾かれた人間が進む方向を絶たれるのは、ほんっとにもったいない。器用じゃなくても報われてほしい。どうにかならないものか。

各所からつけられたイメージ通りに動いていても嘲笑されるものでもない。ずっと彼らが持っている信念を見逃すからそう思うのだ。投げ出さないで面白いところを探しだしてほしいのに。私はそれでもそれが面白いと思っているのだから。

演じる側見る側双方にちょうどいいユーモアがあれば平和だけど、笑いに付属している欲望や目的は人それぞれ違う。面白いと思うかの価値観だけではなくて、なぜか生き方や性質とかのほかの部分も試されるので、誰かと笑いの価値観で対立すれば、人間として背負ってるものまで戦わされてしまうようにすら錯覚しかねない。

そういう時、見る側として自分は無力。ただ楽しんで画面の向こうで笑うことしかできない。

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