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走るということ〜初のマラソン大会③〜

ゴールラインを駆け抜けた。

結局前を走っていた人には追いつくことはできなかった。
だが走り終えたばかりの僕に不思議と悲壮的な敗北感はない。
そもそも向こうも勝負をしていたつもりかも分からないが、とにかく心身ともに充足感に満ちていた。

荒れる息に、ガチガチに張っている脚。出し切った証拠だ。
最初の目標とは違う結果になったが、これもまた悪くないような気がする。

僕は競争心に欠けている性格だ。
元々はもっと勝ちたいって気持ちが強かった気がする。
サッカーをやっていた時は試合に負ければ泣いていたし、常にもっと上手くなりたいと思っていた。
でもいつからかそんな気持ちは薄れていた。
きっかけは何となく分かる。

僕は中学生の頃に怪我を経験した。
謎の膝の痛みに襲われたのだ。酷い時だと歩くだけで強い痛みだった。
原因はお医者さん曰く、オーバーワークとのこと。これについては半分当たっていて半分は別のところにあるような気もするけど、これはまた書く機会があったらここに整理のために書いてみようと思う。

閑話休題。
サッカーができない日々が続くと上を目指したいという前向きな気持ちから、何で自分だけ…?という後ろ向きなことを考えることが増えていた。
サッカーを嫌いになったこともあった。
ようやく少し良くなったかと思ったらまた痛くなって休むというのを何回繰り返したことか。

そうすると自分に期待することをいつからか止めてしまっていた。

“サッカーが上手くなりたい”から“サッカーをやりたい”と、自分の欲求のレベルが下がっていた。

それに釣られてか、僕の中で何かを目指したり、競争に打ち勝とうとか、ベストを目指そうみたいな野心のようなものはなくなっていった。

そんな僕は今日自分の意思で自分の限界以上の力を絞り出した。

フワフワとした浮遊感に包まれていると、僕より先行してゴールした勝手にライバル視してた人がこちらを振り返った。

「お疲れ様です。来てるのわかりましたよ」

なんという爽やかな笑顔だ。おまけに身長も高い。
メンタル、フィジカル、ルックス全てにおいて負けた。
……でもなんかこういうの良いな。

好意的な言葉であるのだろうけど、フワフワしていたこともあって更に言語化に手間取る。

「お疲れ様です…! 抜けませんでした…」
アタフタしながら何とかこんな感じの言葉を絞り出していた。

そんな簡単なやり取りだけでお腹いっぱいになってしまった僕はフラフラした足取りで何とか運営の人達のところに向かうと記録証が発行されていて、労いの言葉をいただきながらそれを受け取った。
気になるタイムはなんと努力目標である60分より全然早く走れていた。

何というかこれにもまた震えた。
確かに今までいっぱい走ってきた。それはタイムとかのためではなく、あくまで心身の健康のため。でも自分のやってきたことがこうして目に見える形で得られたことに心が震えた。

10kmという距離自体は多くの人が経験しているだろう。
部活の練習なんかのフィジカルトレーニングではザラだろうし、僕の母校ではマラソン大会で男子はその距離を走らされた気がする(7.5kmだったような気もするが)
でも自分の意思で、自分でどういうふうに練習を積むかとかそこまで考えて走り抜いたこの10kmの価値は計り知れなかった。

僕の中でポッと小さな焔が灯った。そんな気がした。

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