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水彩のハルモニアと《彼岸の楽園》


シンデレラガールズには、それはもう数知れず、たくさんのユニットがあります。そんな中でも記憶に残りやすいのは、やはり文章量の多いイベントに登場したユニットである――ということになりがちかとも思うのですが、かといって我々は台詞の長い短いだけで「むっ、これは…!」と目を瞠るわけではないというのも、また確かなことではないかと思われます。

たとえば、水彩のハルモニアなどは、2014年春のドリームフェスティバルにたった一度だけ登場したユニットであり、台詞も5つしかありません。にもかかわらず、その統一された世界観で発揮される圧倒的なビジュアルは、私個人の心に深く引っ掛かり(というか爪痕というか)を残したのでした。

このユニットの由来やコンセプト・表現などを追いかける準備が、ようやく私にも整った気がするので、ひとつ腰を据えて挑んでみようかと思います。

主に扱う点としては、(A)ユニット・水彩のハルモニアはどのような意図のもとにギリシア神話の女神ハルモニアを引用しているのか、そして(B)このユニットはどういう表現を目指しているのかという二点について、ささやかながら私見を述べていくつもりです。

水彩といえば普通、絵画の一手法を指すものでしょう。そして絵画に通じているアイドルなら、由愛ちゃんや頼子さん、吉岡さんがいます。この三人をあえて外して、星花さん・肇ちゃん・マツクミさんがこのユニット名を背負った積極的理由が、なにかあるはずです。その正体をつきとめることができれば――というのが、考察のおおまかな目標になります。

なお、考察の手がかりとしては、(1)メンバー(2)衣装(3)台詞の三点を重視してみました。
とりわけ台詞を参照するにあたっては、藤原肇情報wiki~はじめディア~を参考にさせていただいたことを、感謝とともにあらかじめ記しておきたいと思います。

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1)メンバー

まず重要なのは、ユニットの顔ぶれです。

・涼宮星花
・藤原肇
・松山久美子

この三人の共通点の第一としては、それぞれが家族の手解きを受けて、物心ついた頃から身近にあった表現手法を大事にしている点が挙げられます。

星花さんはバイオリン、肇ちゃんは陶芸、マツクミさんはピアノ。これらは一見とりとめがないようにもみえますが、家族が手に手をとって教えてくれた素晴らしいものとしてみるなら、根は同じといえるでしょう。

星花さんのバイオリンは「お父様から授かり、お母様から教わった」もの。マツクミさんのピアノと美意識は、彼女の母親からの薫陶を受けたもの。そして肇ちゃんに陶芸の技を伝えたのは彼女のお爺ちゃんです。この方については、デレステで登場を果たしたことも記憶に新しいですね。

三人は、その表現手法を上の世代から単に受け継ぐだけではなく、自分のものにしようとしています。「師である祖父/母を越えたい」という感情も全くないわけではないけれども、それはそれとして、彼女たちは自分の表現を組み立てていくことを楽しみとしているのです。

梅雨の京都アイプロでマツクミさんは「子供の頃は、ただひたすら雨の音をピアノで表現することに夢中になっていた」というエピソードを披露してくれました。そして今でもふとした瞬間にその頃の熱がもどってくると、ついつい好きな雨の曲を弾いてしまうということなのでしょう。

以上のように、水彩のハルモニアには極め付けに凝り性なメンバーが揃っており、その姿勢はアイドルとしてのレッスンにも活かされています。


そして共通点の第二は、みんなプレーンな美人顔なところ(美形には違いないけれども、記号的な意味での顔立ちは濃くない)ではないかと思います。

シンデレラガールズに登場するアイドルを見ていると、眉毛ひとつとってもかなりの表現幅があって、それはたとえば「恥じらいの太眉乙女」こと神谷奈緒はもちろん、奥山さんの特訓前・特訓後などを見比べても明らかです。「ほたるちゃんの眉もいいぞ!」という方も、無論いらっしゃるでしょう。そういった幅の広さは、Pそれぞれが誰を担当しているかといった枠を越えて、好意的に受け取られているものと私は感じます。

その一方で「水彩のハルモニア」のメンバーには眉毛や前歯などディフォルメしやすい外見的要素が薄いといえそうです。裏返せばこのことは、彼女たちが髪型やメイク・衣装次第で印象をガラリと操作しやすいアイドルであることにも繋がると思われます。

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2)衣装

したがって、次に重要になってくるのは、ユニットの中で用いられていた衣装がどんな演出的意図をもって選ばれたかという点です。

[お嬢様の一幕]+については既に『ノーブルセレブリティとギリシア神話』で述べましたが、ここでもう一度要約しておくと、古代ギリシアには世界の果ての理想郷のイメージが数種類存在しています。

エリダヌス川(川床には琥珀がきらめいているという架空の河川で、星座にもなっています)のほとりにあるという白夜の国もそのひとつであり、そこに住まう祝福された人々はヒュペルボレオイと呼ばれました。

[お嬢様の一幕]涼宮星花+は、北風ボレアスの妃となった古代アテナイの姫君オーレイテュイアとして、琴歌さんのフローラ、ゆかりのイピゲネイアと並んで、この北の果てにある楽園の住民を代表することがあります。


続いて、[夢の使者]藤原肇+について述べてみることにしましょう。

まず、[夢の使者]+の衣装に散りばめられた八芒の輝きは、ギルガメシュ伝説に登場するシャマシュ以来、夢占いのシンボルとされるものだそうです。星のようにも見えるのですが、意味としては太陽の輝きを表わすといいます。

ただ、オーロラを伴って現れた[夢の使者]+を、アッシリアやメソポタミアの太陽神シャマシュであるとみなすことには、多少の違和感があります。なによりユニット名に冠せられたハルモニアがギリシア神話の女神である以上、このユニット内で彼女が扮したのはやはり、ギリシアの夢の神オネイロスではなかったかと思われるのです。

このオネイロスは、ホメロスの頃には「夢占いにうってつけな夢を、王や貴族に届ける神々」という感じでした。それが時代の変遷によって詳しく定義されて(まあ、占い師が王から理屈を尋ねられることもあったのでしょう)人に化けるモルペウス・動物に化けるイケロス・物に化けるパンタソスといった数種類の名前でも語られるようになります。

オネイロスが、普段どこで暮らしているのかという点については、叙事詩『オデュッセイア』の中に手がかりがありました。

オケアノスの流れを過ぎてレウカスの岩も過ぎ、陽の神の門を過ぎ、夢の住む国も過ぎると程もなく、世を去った者たちの影――すなわち霊魂の住む、彼岸の花(アスポデロス)の咲く野辺に着いた。(第24歌)

「夢(=オネイロス)の住む国」と「陽の神の門」と冥府がセットで近くにあるところは、どうもシャマシュやエジプトの太陽船信仰の影響を思わせるようなところがあります。[夢の使者]+がシャマシュのようにも思えるのは、それゆえでしょうか。相葉ちゃんと琴歌さんのユニット・フィオレンティナに出てくる「地下にも太陽はある」という台詞の元ネタはこういうところにあるのですが、とりあえず確かめたいのは「夢の住む国」の方ですから、もう少しオケアノス河近辺の描写を集めてみることにしましょう。

船はやがて、深く流れるオケアノス河の涯てに着いた。
ここではキンメリオイ族が国土と町を構え、霧と雲に包まれて住んでいる。
輝く陽の神も、星をちりばめる天空に昇る時と、天空から再び地上に向かう時とを問わず、彼らには光明の矢を注ぐことが絶えてなく、憐れな人間どもの頭上には、呪わしい闇が広がっている。(第11歌)

史実におけるキンメリア人は黒海周辺の部族で、紀元前7世紀頃にはスキタイ人と居住地の奪い合いをしつつ小アジアになだれこみ、アッシリアやリュディアと事を構えたり、エフェソスのアルテミス大神殿を破壊(後にリュディア王クロイソスが再建)したりしていたのですが、ギリシア・ローマ神話ではもっと得体のしれない伝説上の部族のように扱われることがあります。その場合、彼らは陽光の届かない極夜の国に住むものと考えられました。ちなみに、肇ちゃんもかつてオーロラアイプロの時に、極夜の町トロムソを訪れたことがあります。

[夢の使者]+の背景にオーロラが出ているところは、こういった極夜の国の近くにオネイロスが住んでいるという説を汲んだものでしょう。ゴンドラに乗っているのも「オネイロスは船でオケアノス河を渡って人々に夢を届ける」という話に基づいているようです。

背後に浮かぶ巨大な星々については、肇ちゃん本人がアイドルの世界に抱く期待である以上に、(Pも含めた)周囲から寄せられている期待として解釈した方があたっている気がします。人によっては圧倒されてしまうような大きさだと思うのですが、彼女の存在感はそれに負けず劣らず、太陽のように輝いている――という表現かもしれません。私が[夢の使者]+から読み取った事柄は、およそ以上のようなものになります。

これらの表現は「無意識下の記憶」を土に、「夢」を陶器に見立てた上で、「藤原肇なら、ファンに夢を届けるアイドルのお仕事を立派に果たしてくれるはずだ」というPの期待と、それに応えようとする肇ちゃんの決意を示すものでしょう。



さて、これらふたつの衣装[お嬢様の一幕]+と[夢の使者]+の共通点は、オリュンポスの宮殿に暮らす神々ではないこと――より正確にいうならば、架空の大河によって現実世界から隔てられた、異界の神的存在をイメージしていることではないでしょうか。

そういえばユニット名の由来である女神ハルモニアが夫カドモスと暮らしているエリュシオンも、やはり世界の果てを流れるオケアノス河によって現実から隔てられた異界に他なりません。

――つまり水彩のハルモニアは、水によって現世から隔てられた異界の女神たちが集う光景をイメージしたユニットである可能性が高いといえます。この時期のSRには同じく水彩という形容を施された[水彩の乙姫]栗原ネネがありますが、これと同じ言葉の用い方をしていると見てよいでしょう。乙姫もやはり海底(竜宮城)にあって、水で現世から隔てられています。このような事例を鑑みると、『水彩』という言葉は必ずしも水彩画を意味しているのではなくて、我々と女神の間にあるヴェールとしての水を「彩」と讃えることによって、女神の美や幸を言祝ぐ一種のレトリックであると解釈できるようにも思われます。

このような発想に基づいて、[南国の舞姫]松山久美子+の表現を読み解こうとすると、どんな解釈が可能になるでしょうか?

[南国の舞姫]松山久美子+は、モバゲー版の招待SR、およびデレステの新春ガチャSRで登場しました。こちらは台詞の中に「南の島の女神」という表現があり、プルメリアの髪飾りを右側に飾ると未婚女性を示すという作法に則っているところをみても、ギリシア神話と直接的な関わりがありません。ただ、枯山水の庭園を宇宙になぞらえたり、推理小説が事件の状況設定をマザーグースになぞらえたりするような手並みで、見立てを成立させることはできる(シンデレラガールズ内における他の実例にも事欠かない)わけです。

私がこの衣装をあえてギリシア神話の世界観の中に置くとするなら、それはヘスペリデス(黄昏の娘たち)を表現しうるものと考えます。
[南国の舞姫]+は「夕焼け空を背景に立つ美女」という印象的な要素を備えていますし、加えてマツクミさんはサンセットノスタルジーの一員でもあるからです。

一般的に知られているヘスペリデスは、天を支える巨人アトラスの娘たちで、日が沈む場所――すなわち西の果ての黄昏の国に住まい、ラドンと呼ばれる一匹の竜とともに黄金の林檎を護っているとされています。

ヘラクレスやペルセウスが目指したという彼女たちの楽園は、あるいは「リビア(アフリカ)にある」といわれ、またあるいは「スペインにあって、黄金の林檎はオレンジのことだ」という説もあったようです。どちらも南国っぽいといえば南国っぽいでしょうか。しかしアポロドーロスの『ギリシア神話』には、以下のような記述もありました。

(エウリュステウス王は、ヘラクレスの)第十一番目の仕事としてヘスペリスたちから黄金の林檎を持ってくるように命じた。これは一部の人々のいうようにリビアにあるのではなく、ヒュペルボレオス人の国の中のアトラースの上にあったのである。

ヒュペルボレオイの国は白夜だけあって太陽と縁が深く、さまざまなエピソードが残されています。たとえば太陽神の子パエトンは、親を真似て太陽を運ぶ戦車を操縦しようとして失敗し、リビアはもちろん全地をあやうく砂漠にしてしまうところだったというお話があります。ゼウスはやむを得ずパエトンを雷で撃ち落とすのですが、彼の落下地点は、エリダヌス川とされているのです。それゆえアポロドーロスは、黄昏の国=日の沈む地はエリダヌス川に近く、従ってヒュペルボレオイの国にあると考えたのかもしれません。

しかし、アポロドーロスというのは「紀元前5世紀以前のギリシア古典文学に載っていた話なら、正しかろうが間違っていようが、なんでも載せてやらあ!(ただしローマ神話は却下)」みたいな方針をもって、矛盾もなんのその、諸説併記のマニアックなギリシア神話本を書いた人です。それが突然「リビア説は間違いで、黄金の林檎はヒュペルボレオイの国にある」と主張しはじめるのですから、はるか後世に読む側になった身としては「何事かな?」と多少の困惑を禁じえなかったというのも正直な感想です。

ところが、今になってよく考えると、似たような騒ぎは日本にもあったようなのです。「常世の国から非時香菓(ときじくのかくのこのみ)を持ち帰るにはどうすればよいか」という難題がそれにあたります。常世の国とは海の向こうの異界で、非時香菓は時を選ばず芳香を漂わせる果物――すなわち不老不死の霊薬なのだとか。本邦ではそれが今でいうところのだというのですが、ここから「黄金の林檎は今でいうスペインのオレンジである」という先ほどの話を連想するのは難しいことではありません。洋の東西を問わず、この種の議論となると、人々は冷静ではいられなかったようです。

これをシンデレラガールズの世界観に合う形で要約すると「アンチエイジングとか大事よね、わかるわ」という話になります。…いや大丈夫、私は正気です。なにしろマツクミさんはそういう分野において川島さんに一目置かれているお方なのですから。

……話を一旦、元の路線に戻しましょう。

手短にまとめると、「水彩のハルモニア」が奏でたハーモニーは

・キュート/白夜/ヒュペルボレオイ(風)
・クール/極夜/オネイロス(夢)
・パッション/黄昏/ヘスペリデス(光)

という、三人それぞれが三種類ずつ持ち寄った要素を、巧みに調和させたものだったでしょう。風も夢も光も、水彩画の題材にはうってつけです。

さらにもうひとつ付け加えるなら、『光と風と夢』は、中島敦の小説のタイトルでもあります。その内容は、気管支の病に苦しみ南洋パラオに赴任経験もある中島敦が、自身を南洋サモアで転地療養中の作家・スティーヴンスン(『宝島』とか『ジーキル博士とハイド氏』の作者ですね)と重ねて綴ったと思われるものです。この作品の中盤あたりに、キリスト教的な光景としてのヤコブの梯子(雲の切れ間から光のカーテンが差し込んでるような感じのアレです)と対置するかのように、雲の巨柱群の威容が描写してあります。前者が天の父とそのしもべたちの光景であるとすれば、後者は南の島の神々を思わせるところがあるのですが、私はそこから、このユニットが目指す先を想像してしまったわけなのです。ちょっと引用が長くなりますが――

はっと思わず息をのむばかりの・壮大な・明るい・雲の巨柱の林立。それ等の脚は水平線から立上り、其の頂きは天頂距離三十度以内にあった。何という崇高さだったろう! 下の方は氷河の陰翳の如く、上に行くにつれ、暗い藍から曇った乳白に至る迄の微妙な色彩変化のあらゆる段階を見せている。背後の空は、既に迫る夜のために豊かにされ又暗くされた青一色。その底に動く藍紫色の・なまめかしいばかりに深々とした艶と翳かげ。丘は、はや日没の影を漂わせているのに、巨大な雲の頂上は、白日の如き光に映え、火の如く・宝石の如き・最も華やかな柔かい明るさを以て、世界を明るくしている。――『光と風と夢』

ここで冒頭に述べた「水彩のハルモニアは、なぜ由愛・頼子・沙紀の三人ではないのか」という疑問に立ち戻るならば、私はふたつの理由が思いつきます。ひとつは「この場合の『水彩』とは、女神のヴェールとして機能する水をと讃えた造語であって、水彩画のことではない可能性がある」と捉えるもの。そしてもうひとつは「風と夢と光/白夜と極夜と黄昏/CuCoPa」という3の3乗にわたる要素を丁寧に重ねて、幻想的な光景を表現するユニットを実現するためには、厳密に[お嬢様の一幕]+/[夢の使者]+/[南国の舞姫]+が揃う必要があったのだろう――というものです。

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3)台詞

最後に、台詞を見ていきましょう。

その前に一つだけ、あらかじめ私が気付いたことを述べておきますと、「水彩のハルモニア」の台詞は、全て肇ちゃんに割り振られています。もっと大胆に指摘するなら、「水彩のハルモニア」の台詞はモバゲー版[憧憬の絵姿]藤原肇+にみられる「流れ」「芯」「色」「形」という四つのキーフレーズを核にして、三人ユニット用に再構成したもののようです。

では、そのあたりを意識して、「水彩のハルモニア」の台詞を見ていきましょう。

登場時:「陶芸の気構えは、ステージにも通じる気がするんです。多分、コツは…」
LIVE開始時「心のまま、流れるように…」

「水彩のハルモニア」が登場したのは第6回ドリームLIVEフェスティバル(2014年4月初頭)です。
個人的に今の肇ちゃんなら「通じる気がする」ではなく「通じているはず」ぐらい言えてしまうのではないかと思いますが、この時はまだ、場数を踏んでいない感じというか、ぶっつけ本番感というか、そういうものが出ているようにみえます。

「心のまま、流れるように」という表現には、陶芸だけではなくやはり川のイメージも伴っていると見ていいでしょう。
肇ちゃんは渓流釣りという趣味を持っていますし、[夢の使者]藤原肇+もまた、夢の神オネイロスが舟で川を渡るシーンを切り取ったものだからです。

流れを意識した肇ちゃんの台詞は、[憧憬の絵姿]において異様な存在感を発揮します。モバゲー版が「なるべく流れに…逆らわず」と口にするのに対して、デレステ版は「流れに逆らってでも、進みたい道。見えてきました」と宣言するという違いが、同じイラストのまま提示されたことの意味は、結構大きいのではないかと、私は考えます。川は現世と異界を隔てるものであり、その流れは運命の分岐点として彼女の前にたびたび姿を表わすのです。言い方としては大層になりましたが、私自身としては「肇ちゃんは、日常的に行われる釣りという趣味を通じて、健全に自分の進路と向き合っている」ぐらいの解釈でおります。流れに委ねるか逆らうかは、彼女の心とそれを支えるいつもの日常(恒常性。ホメオスタシス)が定めているのであって、状況に振り回されているわけではないということです。

WIN:「ゆるっと行き過ぎてしまいました…。がなかったようですね」

こちらはプレイヤー側が勝利した時の台詞、つまり水彩のハルモニアとしては敗北時の台詞です。
肇ちゃんはこのユニットを、芯がある存在にしたいと考えているようです。この場合の「芯」という表現を、ろくろの回転軸のようなイメージで捉えることができるかどうかは、もう少し台詞を見ていかないとまだはっきりとはわかりません。

DRAW:「もう少し関係を寝かせると、私たち…いい色になるかも…?」

急造ユニットゆえの経験不足を認める一方で、なんらかの手応えを感じている様子も、たしかに看て取れます。
ここ、大事です。2014年初登場で、今が2018年ですから、きっとそろそろいい色になっているのではないでしょうか。私が水彩のハルモニア再登場を期待する根拠のひとつは、この箇所にかかっています。

LOSE:「3人でうまく流れに乗れました。自然といい形になるものですね」

そして勝利時の台詞がこちらです。まず第一に、「流れ」と「いい形」という言葉に注目してみるなら、ライブ開始時の宣言通りに陶芸の要素と釣り・川の要素が両立しており、狙いがバッチリはまったことが察せられます。

第二に、DRAW時とあわせると「いい色」「いい形」という呼応表現が成立している点が目を惹きます。この肇ちゃんの評価軸(=「芯」)は、[憧憬の絵姿]でイメージされた彼女の憧れを実現するための道しるべでもありました。ここから推し量るに、水彩のハルモニアは2014年の時点で肇ちゃんが身に着けていた能力を全分野に渡って要求するハイレベルなものだったと思われます。

そして第三に、3人で流れに乗ったというところも、ユニット内のムードを示すものとして見逃せません。
水彩のハルモニアを「藤原肇のリーダーシップが発揮される/ヴィジョンが反映されたユニットである」と考えるのは正しいけれども、「藤原肇のワンマンユニット」とまで考えるのは難しく、そこにはやはりメンバーそれぞれの想いや課題が残っていたように思われます。

詳しくは別の考察(水本ゆかりと《情熱の赤》)で述べましたが、星花さんは実際に「夏音の紡ぎ手」でも、この時とは異なる「色」と「形」を表現することに挑んでいたようなのです。

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たしかに、水彩のハルモニアで目にすることのできる台詞は全て肇ちゃんのものかもしれません。しかしそれは「当時、ライバルユニットの登場人物同士の掛け合いが不可能だった」という事情も含めて考慮すべき特徴なのではないだろうか…という風に、私は考えています。

ビビッドカラーエイジも、ユニット16やAge16であった時代は、加奈ちゃんの台詞オンリーでした。それが最近の再登場で三人の掛け合いを披露したことは、往時の否定ではなく、その存在をさらに鮮烈に印象付けることに一役買っているはずです。

私が担当する水本ゆかりもまた、星花さんやマツクミさんとユニット「クラシカル・アンサンブル」を組んでいますが、彼女たちは自身がかつて別の仕事で得た神話上のイメージとかかわりなく、ほとんど没我的に、ただひたすら演奏することの魅力や醍醐味を堪能しているように見えます。

メンバーがひとり入れ替わった「水彩のハルモニア」と「クラシカル・アンサンブル」が全く別物になってしまうということは、ユニットを組むことによって彼女たちの多面的な個性が、我々に伝わりやすくなっているということでもあるのではないでしょうか。


ロワイヤルにせよドリームフェスティバルにせよ、やはり新登場したRやSRの活躍を描写することに重きを置く以上、既存衣装のそれ以外にない組み合わせによって表現を昇華するタイプのユニットである「水彩のハルモニア」の再登場を期待するのは、やや厳しいといわざるをえません。

しかしそのような事情を承知した上で、なお「水彩のハルモニアがいつか再びイベントに登場して、いきいきとした掛け合いをみせてくれる機会があれば」と私が望んでいることもまた、事実といえば事実であるわけです。

もはや単にビジュアルが気に入ったからというだけではなく、彼女たち三人の組み合わせをもう一度見てみたい――そのような気持ちから、「流れに逆らう」新しいハルモニアの誕生を期待することで、今回のユニット考察の結びとしたいと思います。ご読了、ありがとうございました!(了)