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4/29 「一度きりの大泉の話」と同人女の感情


母親が萩尾望都の大ファンだから、私はポーの一族を読んでいた。

私の両親はともに漫画が大好きで、特に母は芸術に触れていることが多く、絵画や音楽にも詳しい。漫画というコンテンツは特に好きだったと思う。そのなかでも特別だったのが「萩尾望都」(幼い頃から聞かされ続けた彼女の名が記号としてインプットされているため敬称を略して記述することを許して欲しい)。話題になっていた著書に興味を持った。「花の24年組」「大泉サロン」どちらも母から聞いたことがあったからだ。女版トキワ荘と呼ばれた大泉サロンで何があったのか知りたかったし、竹宮恵子との確執についても知りたかった。

そして読了した。

書かれた12万字。萩尾望都は文才もあるんだと思った。たとえインタビュワーが文章に書き起こしたとしても。この表現はなかなか出てこない。

やはり、少し幻想の味わいがふりかけられたものが好きでした。――「一度きりの大泉の話」4.増山さんと「少年愛」より抜粋

この表現が、とても好きだった。

萩尾望都は天才だった。しかし天才の自覚も、自信もなかった。それでも漫画を愛していた。

そんな萩尾望都の周りを渦巻く環境とその人間関係に現在の同人界隈と通じるものを感じたのでここに記述する。


鐘を鳴らす人――増山とおけパ中島

「おけパ中島」をご存じだろうか。

真田つづる著「私のジャンルに「神」が居ます」に登場する、一時期Twitterのトレンドにその名を馳せた「おけけパワー中島」という架空のキャラクターだ。このキャラクターがなぜそんなに注目を集めたのかと言うと、今まで数多くの同人女(二次創作をする女性の総称)が抱く感情をここまで適切に表現した単語がなかったからだ。たぶん。

解釈するに、おけけパワー中島…通称「おけパ中島」は、「神」と呼ばれる絵師や字書きの周りに存在する「自身は力は持っていない(もしくはそのように見える)がコミュニケーション能力の高さで界隈で神絵師、神字書きと呼ばれる人とちょっと喧しい感じの交流をしている人」「第三者から『なぜあのように平凡に見える者が神絵師や神字書きと交流をしているのにも関わらず、自分は相手にされていないのか?』『なんでいつもリプ欄にいるんだよ……』『フォローするのは癪だが、なぜか一日に数回はホーム画面を確認しに行ってしまう』との巨大感情を抱かせ、時には負のスパイラルに陥れるもの」である。(個人の解釈です)

だが、おけパ中島は力を持っていた。自分が創作する力ももちろんであるが、「布教する力」、そして「愛を素直に伝える力」を持っていたのである。実際に「私のジャンルに神がいます」では神字書きの綾城にKTGというジャンルを布教することに成功しているし、人とあまり付き合わない綾城と関係を持ち続けている。

私はこの力を、本作の増山という人物も持ち合わせているのではないか…と感じた。増山自身は漫画を描くことはない。しかし、増山が萩尾曰く「おまじないのように」唱えていた少年愛は、萩尾は夢中になることはなかったが14歳の少年を描き続けるきっかけにもなり、周囲の人間に影響を与えている。そしてこれは竹宮の心に響き、後の少女漫画革命のシナリオを描くことに繋がった(残念ながらそれは不本意な結果に終わったが)。

周囲の人々の感性を刺激する情報を持っていて、情報を開示し(現代の言い方で言えば沼に浸からせ)、話をする。竹宮のようにスケッチをするものがいれば感銘しはちきれんばかりに褒める。

『同じ話題で盛り上がり、共感し、自身の作品を絶賛してもらえる』

創作者にとってこれほど嬉しいことは無いと思う。愛を伝えるという行為を惜しげもなくしてみせて、共感し、創作者と一緒に高まっていくスキルが、おけパ中島にも、増山にもあった。

萩尾望都は増山のことを「鐘を鳴らす人」と表現していた。

あの時は創作の意欲にマッチを擦って熱い火をかけられた、そんな感じがあります。
世の中には時々、そういう役割の人がいるのではないかと思います。本人は表立って有名な創作はしないかもしれないけれど、創作の意欲の火をつけて回る人。あの時期、増山さんは大泉で、そういう役割を担っていたのではないかと思います。――「一度きりの大泉の話」23.「鐘を鳴らす人」より抜粋

鐘を鳴らす人。今の同人界隈にもいると思う。

個人的には、「少年愛、少年愛」と唱える増山の姿は、現代のTwitterで推しカプの名前をひたすらに呟く腐女子と通じるものを感じて笑ってしまった。やってることあんま変わらん。私はこれを「副流煙」と呼んでいます。


排他的独占愛

これは私だけのもので、他の人が触れることを許さない、という気持ちになる。愛とは排他的なものです。そうか、排他的独占愛と言えばいいのかな?――「一度きりの大泉の話」22.「排他的独占愛」より抜粋

これは萩尾の造語である。要するに、踏み込んではいけない領域が個人にはあって、自分はそれに踏み込んでしまったからこそ竹宮と絶縁に至ったのではないか……と萩尾自身が考察している。

萩尾は、作品のジャンルにはこだわらずに様々なものを描いた。同じジャンルが被る……というだけで逆鱗に触れたとは私は思わない。私が考えるのは、描くジャンルが被ったことよりも、被った上に自分より面白いものを描かれた!という絶望嫉妬が竹宮を駆り立てたということだ。自分が信頼している者とずっと構想を重ねてきた自信作――それこそ「少女漫画の革命」よりも面白いものを自分たちが主だと思っていたジャンルで何の気なしにさらっと出されたら……。「盗作」だと難癖つけたくなる気持ちも分からなくはない。

ここで、萩尾は同人創作、いわゆる二次創作についても触れている。若干捉え方が違うかもしれないが、実際に存在する「新選組」を題材に漫画に描き起こしたときのことを本作で話しており、イコール二次創作であると私は捉え、考えてみた。

新選組に思い入れを持っている一部の人の中には、自分の考えた新選組とは違うものがあると、自分の聖域を侵略されるように感じるのかもしれません。それで、私の認めるもの以外はダメという、排他的独占愛が表れてしまいます。――「一度きりの大泉の話」22.「排他的独占愛」より抜粋

作品に思い入れがあるからこそ、自分の考えたものと違うと、自分の聖域を侵略されたように感じる……

そう、解釈違いである。

「私の認めるもの以外はダメ」。好きであるからこそそういう思考になるとの記述がある。身に覚えがある人も多いのではないだろうか。耳が痛い。

これを踏まえて、萩尾は、それでも各々の創作が素晴らしいことを述べている。「吸血鬼もの」でも「学園もの」でも、個人が好きなように描けば良いと書いている。

実際に創作はそうあるべきなのだ。

みんなそう頭では理解しているはずだ。しかし心は厄介なものなので、どうしても難しい。現に、二次創作をおこなう腐女子の中では解釈違いやカップリング論争なるものが存在しており、争いは絶えない。

また、竹宮が抱いた嫉妬という感情も創作においてよく争いの一種になる。

創作活動というものはとても長い間、労力と時間がかかる。いくら好きで行っていることでも評価は気になる。※評価が気にならないのは萩尾のような天才タイプだけだ。そういう人種は必ずといっていいほど「自分の好きに描けば/書けばいいじゃん~!好きでやってるのに評価を気にしちゃうの?」と無神経に、そしてまっっったく悪気なく言ってくるタイプだ。

恐らく竹宮は完璧主義で、本作で記述があった通りナルシズムが入っていて、自分の作品に対しての愛が強く、萩尾が頭角を現す前までは少女漫画家のなかではかなり高嶺の花のような存在であったのだろう。努力を人に見せないプライドがあるタイプと思われる。そんな竹宮にとって、自分が積み上げてきたことをそつなくこなす天才の萩尾はさぞ恐怖だったことだろう。漫画がわずか3日で飛ぶように売れ、評価をどんどん受けている萩尾を身近で見てどう感じただろうか。あるいは欧州への旅行の最中で、更に経験を重ねて成長をする萩尾を間近で見てしまったら。嫉妬の念が湧くことは当然であるし、「萩尾が怖い」と呟いていた……ということにも頷ける。

後に萩尾はこう述べている。

「竹宮先生は苦しんでいた。私が苦しめていた。無自覚に。無神経に。」

私は竹宮タイプである。自分は天才ではないが、天才をたくさん知っている。萩尾タイプには絶対になれない。こう書くと竹宮先生にとても失礼に値するかもしれないが……。相反するふたりであったからこそ、大泉サロンは解散し、ふたりは絶縁したと思うので、あえてこう記述させていただきたい。天才はいい意味でも悪い意味でも自分以外のことに鈍麻だ。我が道しか見ておらず、そして悪気がまったくない。だから責めることもできない。凡人はそれについていけず、完成された作品を見て感嘆することしかできない。

読者の立場だったのならどんなに良かっただろうか。創作をしていなくて、ただ純粋に作品を楽しむことが出来たらどんなに。

それでも、創作活動というのはそれぞれが素晴らしいし、考え方や方法が違っても創作自体に価値がある。

排他的独占愛を持っているのは当然であるが、相手に強制することは絶対にやめよう(自戒)。


BLの時代

「きのうなに食べた?」のよしながふみ先生が、作品に「ジルベール」の名前を出していた、とは、熱心にドラマを観ていた母から聞いていた。この作品を読んだことも観たことも無いが料理を作る男の人同士のカップルのボーイズ・ラブ作品だということをなんとなく知っている。

最近はボーイズ・ラブに関して大分フランクな世の中になってきていると私も思う。

萩尾が未だに少年愛について、よくわかっていないと記述していたことには驚いた。私は記憶しているのは「ポーの一族」「残酷な神が支配する」で、どちらもその色が強い作品だと思っていたからだ。そして、「少年愛の正当な作家は竹宮先生たちです」の文章にう~んと唸ってしまった。なんか、そういうとこやぞ、萩尾望都……という感じがする……。立てるスタンスはわかるけど、わかるけど、そういうところやぞ……。これも、私のような卑屈な人間にしか分からない捉え方なんだろうな。

とは言え、昨今のBL時代があるのは先駆者のお陰である。

同人活動をしている身として、今の幸せを噛みしめたい。


確執は決して解けない

封印していた冷凍庫の鍵を探しだして、開けて、記憶を解氷いたしましたが、その間は睡眠がうまく取れず、体調が思わしくありませんでした。なので、執筆が終わりましたら、もう一度この記憶は永久凍土に封じ込めるつもりです。ちゃんとお墓を作り、墓碑銘も書きましょう。――「一度きりの大泉の話」29.「お付き合いがありません」より抜粋

記憶と言うのは、まったくもって甘美なもので、生きていく都合で形を変えてしまうもの。竹宮にとっても苦しんだ記憶であるはずなのに、竹宮自身は「萩尾さえよければ」対談に応じる、と言っているのはなぜなのか。

それは恐らく、竹宮は『絶縁を言い渡した側』であり、自分が許すのなら関係は修復できると思っているからであろうと思う。

私自身は、確執というものは解けないと思う。経験がある。特定の人の作品は目に入れることが出来ないし、これからも関わることはきっと一生ない。

恐らく萩尾望都も、彼女が彼女らしくいられるために、竹宮と対談をする日は来ないであろう。


結びに

オリジナルであろうと、原作ものであろうと、面白ければいい。どんな表現が見られるのか、いつも楽しみです。

萩尾望都の根本にあるのはこれだけ。きっと、ずっと面白いものを見ていたいし、生み出したい。それだけなんだろう。一生涯をかけて全力で漫画や芸術を楽しんでいて、自身も作品を創り、とても羨ましい。ただ、天才は天才なりに悩むことがある……ということを本作で知ることが出来た。

本作は現代の同人活動、一時創作、二次創作に通じるものがかなりあったのではないかと私は思う。読んだ時の状況や経験によって思うことが左右されそうだ、とも思った。きっとこれから何度も読み返すんだろうな。

私は本作のなかの、池田いくみと萩尾が、北海道にて会話をするシーンがいちばん印象に残っている。病気で描けなくなった池田いくみの作品を「あれ面白いから私が描いていい?あのシーンとあのシーンが好き。描きたい」とあっけらかんと言う。

創作というのはそういうものだと思う。創作者同士の付き合いは、こういう風でいいと思う。あなたの作品のここが好きだよ、だけで良い。

後に萩尾は「薄情かと思われるかもしれないけど、私は池田いくみさんが病気で描けなくなったから描いたのではなく、ただ面白いと思ったから描きたかった」と記述しており、非常に萩尾望都らしいなと思った。

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