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否定派の人こそこの物語の真髄を味わっている!~THE LAST OF US PARTⅡ~

やらなければならなかったこと

 発売からもう2ヶ月が経とうとしているTHE LAST OF US PARTⅡ。開始から1週間足らずで多くの反響が巻き起こり、称賛も炎上も起こり、挙げ句は関係者への誹謗中傷すら公になってしまうほど影響は広がりました。
 誹謗中傷は別として、これだけ期待された作品なので、プレイ人工が増えればこういった現象が起こるのも仕方がないと思います。
 今でこそ自分は否定派の否定をしようとは思わないのですが、個人的に満足だった自分としては、1回目のエンディング後に他の人の感想を見ていて時やるせない思いもありました。

 少なくとも、賛否両論あるなら「賛」で受け取れる可能性もあるはず。ゲーム・遊びである本作に適切な表現なのかは分かりませんが、「人生の教訓としてこれをプレイしてもいいんじゃないか」みたいな思いが、自分の考察を整理するなかで生まれたので語らせてもらおうかと思います。この物語は、称賛派よりも否定派のほうがその真髄を深く味わっているのです。

 本稿は、THE LAST OF US PARTⅡをプレイした自分のネタバレ込みレビューとなります。
 他の考察もあるので、時間があればお読みいただけると嬉しいです。

1.復讐の旅を自分がどんな目線で見たか

 個人の感想としては、先に書いたように自分は肯定的な感想でした。確かに物語は暗く、鬱々としていてどの登場人物にも救いがない。1に人を殺し、2に敵から逃げて、3に感染者を殺して4にまた人殺し……エリーも雑談より「そんなことより(仇のいる)病院……」とか盲目だし、そりゃ救いも見えねえわ……。
 それでもどうしてか、自分はプレイ後、すぐに2周目を始めました。暴力的な表現や排他的な展開への忌避の感情を凌駕する求心力を、理屈を飛び越えたどこかで感じたのです。

※この求心力の正体については、ネタバレ考察として別の記事をあげているので、そちらもお読みいただけると幸いです。

エリーが罪を許した3人目の人物~THE LAST OF US PARTⅡ~

 問題の人物ともいえる、二人目の主人公アビー。自分は幸か不幸か、彼女に怒りや否定的な感情を持つことはほとんどありませんでした。ジョエルが死亡したことは彼のお墓が画面に映っても理解できなかった(受け入れられなかったのではなく)ものの、この物語が「復讐の旅」であることは把握していたため、アビーを自分が動かした時点ですぐに「彼女がエリーの復讐対象だな」と感づき、彼女の一挙手一投足を冷静に観察しようと努めたからかもしれません。
 それでもアビーの「シアトル1日目」が始まった時は、「やべえジェシーが撃たれたトミーもエリーも殺されるやばいやばい! え、4年前? シアトル1日目ぇ!?」といった感じで心は追いついていませんでしたが。

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2.前作・今作を含めたラスアスを象徴するもの

 THE LAST OF USつまり前作はパンデミック世界を舞台にしつつ、けれど劇的な世界の真実などよりも現実的な親子の愛、「人間の物語」が描かれました。ジョエルとエリーを中心に登場した人物たちが生きていく様は強烈な彩に満ちていて、周知のとおり世界中で反響が起こっています。
 テスとジョエルのパンデミック世界での絆。ビルの孤独と愛情。サム・ヘンリーとの邂逅と残り香、デビットが表す人間性の本質。
 描かれる光と闇は、どれも人の感情を突き動かすものに違いありません。
 THE LAST OF US PARTⅡの物語もその旅の過程で多くのドラマがありますが、しかし人間模様の描写は復讐対象のアビーに寄せられている印象があります。エリー編は、特にシアトルでの日々は、常に「どうやってアビーを殺してやるか」でした。ラスアスらしく道中のジェシーやディーナとの会話に多くのストーリーが隠されていますが、大筋は言ってしまえばドラマもクソもない気がします。

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3.エリーの復讐の旅に憑依する

 やはりエリー編はエリーの復讐に対する認識や決断と、ジョエルとの関係に焦点を極振りしていると思うのです。それはエリーやジョエルの物語を楽しみにしていた人にとっては裏切りかもしれませんが、どう評価されるにせよ、必要な措置だったのではないかと思います。なぜなら死んだ人の弔いのために本当に復讐しようなんて思ったら、他の生きている人のことなんてどうでもよくなりますから。
 エリーにとってジョエルは恐らく父親のような存在で、彼の代わりとなる存在はいません。ジャクソンもディーナもJJも大切ですけど、彼らは隣で生きているし触れ合える。心をぶつけ合うことができる。エリーと同じ世界線で、エリーは彼女たちの一挙手一投足を見て考えることができる。
 だから触れ合えなくて想像と無意識の中でどんどん存在が大きくなり、比重が増していくジョエルと比べれば、彼らの存在は圧倒的に軽くなってしまったのではないでしょうか。

 そして父親を失いPTSDすら発症したエリーには、冷静に物事は見えないでしょうし、見ようともしないでしょう。
 ジョエルと絆を培った喜び、彼を殺された怒り、失った哀しみ、ジョエルとの楽しかった日々の思い出。喜怒哀楽をはじめとする多くの感情が、ジョエルへの復讐に関わる出来事と結びついてしまった、心理学的な意味でのコンプレックスです。
 ※現在、コンプレックスというと「背が低いのがコンプレックス」というような「劣等感」を表す単語として使われていると思いますが、筆者が最近学んだコンプレックスとは次のようなものでした。

……このようにして、多くの心的内容横溢の感情によって一つのまとまりをかたちづくり、これに関係する外的な刺激が与えられると、その心的内容の一群が意識の制御を超えて活動する現象を認め、無意識内に存在して、何らかの感情によって結ばれている心的内容の集まりを、ユングはコンプレックスと名づけた。(河合隼雄著 ユング心理学入門より)

 無意識に存在する強い感情と体験刺激が結びついたもの、と言えばいいのでしょうか……確かなのは、劣等感に対するコンプレックスだけでなく、優越感に対するコンプレックスもあるということです。プラスの感情と出来事すらトラウマに引きずり込まれるなら、生活のあらゆる状況に支障が出てもおかしくはない。

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4.苦しさと怒りに共感する物語

 プレーヤーにエリーの復讐体験を憑依させるには、エリー編はどうしても苦しく辛く、一見して何の希望もない仮初めの欲求のために無惨な道を歩ませる他なかったのです。
 そして、対してアビー編は、まるで前作のジョエルのような彩りに満ちたストーリーでした。セラファイトとの抗争があり、古巣(WLF:ボストン)から飛び出し、旧知の仲間との複雑な人間模様があり(オーウェン・メル:テス・ビル)、大切な存在(レブ:エリー)のために奔走し、そして最後にはエリーやトミーへの復讐に走る。
 このまるで「いいキャラができたぜ!」みたいなアビーへの物語配置に関しても、エリーの復讐に焦点を当てるには必要な措置だったと思います。(くどいですが)なぜなら、復讐相手にも人生があるから、プレーヤーにエリーの復讐体験を憑依させるには、アビー編をこんなにも鮮やかにしなければならなかったのです。エリーが復讐相手にも人生があることを知るという経験を、プレーヤーに憑依させるために。エリーだって、復讐相手に人生があることなんて考えたくないでしょう。でも知性ある人間だから、どうしても知ってしまうのです。知ってしまえば意識で考えないようにしたって、無意識で葛藤してしまうことは十分にあり得るのではないでしょうか。
 エリーがPARTⅡで歩いた道は勧善懲悪や白黒がつかない地獄の道ですが、「アビー編なんてやりたくないわ!」というプレーヤーの人たちの感想は、エリーが抱いた「(人殺しなんてしたくなくても)やらなければならなかったこと」に近い感情ではないかと思うのです。

 改めて、自分はこの物語を肯定しました。ただ、エリーが乗り越えた心の苦しみを共に乗り越え、エンディング時にはすべてが自分の元を去っていき、何も残らない。けれどエリーの中には葛藤を乗り越えた体験が残り、それを新たな糧として生きていく。
 この壮絶な体験は、恐らく否定意見のプレーヤーの方がより近い感覚を味わっているのではないでしょうか。
 この物語は、否定派こそその真髄を味わえている。ノーティードックは、とてつもない作品をこの世に生み出したのです。

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