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読書録「地球の長い午後」ブライアン・オールディス

SF小説といえば、物語の中に何かしらのテーマや元になった対象、社会問題への問いなどが含まれることが多いが、この小説の場合、時間的尺度が余りにも長く伸びきっていて最早人類に依存しているような社会問題等は排斥されてしまうようだ。

例えば、ジョージオーウェル「1984年」や、レイブラッドベリ「華氏451度」などは明らかに政治や文化とのつながりを感じるが、この小説では物語と何が繋がるのだろうか?

巻末に書かれる、あとがきというか、解説の欄に「内容については特にいうべきことはない」と書かれていたのが印象に残っている。確かに、この小説の内容から何かの含意を読み取るようなものではないように思える。

月と地球が蜘蛛の糸で繋がり、そこを巨大な蜘蛛が往来するという時点で人間が太刀打ちできる世界観設定ではないことが分かるしね。

この本読むという経験は、生態系を眺めているような感じだった。退化してはいるものの話し多少の文化を残す人間は登場し、人間が確かに主人公なのだけれど、別に人間がどうこうという訳でもないと思う。

この小説は物語を読むのではなく、物語が展開する世界そのものを味わうものなのかもしれない。作者は特殊な設定の中で物語を書くことに挑戦したのではなく、物語を道具としてどれだけの奇妙な(私にはそう見える)世界を創り出すことが出来るのかという限界に挑戦したのだろう。これは解説の受け売りである。

広大で興味深い世界観を持つSFは沢山あるが、その多くは既に存在している人間世界に束縛されがちである。SFであっても現実世界の延長にある。

この小説の地球は、現実の地球の未来の姿と考えても問題ないが、あまりにも長い時間的分断によってもはやそこには人間文明との関わりはほとんどなく、小説の冒頭から世界を1から作り上げることになる。

読者にとっても、世界観を一から築き上げなければいけないこの小説を読むのは苦労することだろう。

実際、私が読み進めながら頭の中に出来上がったジオラマがどれほど作者の意図に沿ったものなのかかなり怪しいところだと思う。


この小説から学ぶならば、知性はあくまで適応であって、絶対的な防衛策ではないということかもしれない。

作中に出てくる生物個体は総じて賢いとは言えないが、それらは種全体としては生存を続けている。

そう考えると、知性って生物にとってかなり異質な性質なんじゃなかろうか。

知性があると、個体が強調される


しかし、個体が強調されるのは知性によってではなく、思想の発展によるものかも?昔は多くの場合、個人は冷遇された。

しかし、思想の発展も生物的発展の一要素であるから、生物の進化はその種の個体を強調するという流れは自然と言えるのかもしれない。

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