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歌呼吸 KAKOKYU(冒頭部先行公開)

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 点線に沿って千切られると、グレーのチケットが真っ赤に染まった。心なしか世界が色づいた気がする。
「やっと生き返ったね」
 黒ずくめの服を着た女性スタッフが微笑みかける。笑うと頬に出来る皺が、彼女がこれまで生きてきた証を刻んでいる。
「これでもう、マスクを外しても大丈夫」
「ありがとう、シスター」
 わたしはマスクを外し、彩度の上がった風景をめいっぱい吸い込んで吐き出した。向かいにあったファッションビルは取り壊され、広告型自然公園になってしまった。園内は樹木や遊具とともに液晶パネルで埋め尽くされている。すべり台とジャングルジムの隙間で、誰も観ていない女の子の顔が七秒ごとに切り替わる。いっときメイク動画で話題になったインフルエンサーが、時間が経つにつれ七色に変わる口紅を宣伝している映像だ。CMが変わるのに合わせて深呼吸を繰り返していると、心臓も俄かに息を吹き返し始めた。草いきれがする。何処からか焦げた砂糖の匂いがする。今なら味も感じるだろうか。舌がびりびりするほど甘いものを食べてみたい。

 赤く光る半券と青く点滅するドリンクチケットを受け取り、地下に向かって階段を降りていった。地上から奥深く、死者の国と生者の国の真ん中にその空間は広がっている。本来の目的を果たすことのなかった核シェルターみたいに。
 二階ほど降りたところにあるロビーで、男たちが瓶ビールを片手に話し込んでいた。
「まさかまた此処に来れることがあるなんてな」
「ライヴハウス?」
「そう、LIVE HOUSE。生きている家。すっかり意味が変わっちゃったな」
「生きてる家なのに、生者の奴らは立ち入り禁止だってな」
「そう、俺たちのような人間のために此処はある。生きてる人は近づきもしないよ」
 あの病が流行ってから、ライヴハウスは恐れられ、悪者にされて、最後は聖域になった。爆音が鳴り響く、新時代における教会。病に倒れた死者たちのために「ハコ」は開放され、いよいよ今夜、正式に「ライヴ」が行われることになったのだ。全国各地からあのバンドみたさに、死者たちがこの防空壕に集まった。
「『ハコ』の中は懲り懲りだからさ、最近は働いてるよ」
「リモートワーク?」
「それだってハコの中だろ。家の中のほうが、まあ棺よりゃマシだけど」
「新しい生活様式?」
「外にも出てるよ。マスクを付けてな」
 死者が出歩く際、マスクをつけることは法律で定められている。生者たちと一目で見分けをつけるためだ。私たちは必ずマスクをつけて外に出る。この布きれを身につけないと新しい日常を続けていくことが許されなかった。

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 政府も国連もWHOも、死者たちの扱いには困っていた。息が止まり、心臓だって動いていないはずなのに歩き回り思考する私たちのことを、ゾンビや幽霊呼ばわりするのは簡単だったが、生的マイノリティとして擁護する声も少なくはなかった。都内ではオリンピックのために造られ結局使われることのなかった選手村に隔離するという話もあったが、それもうやむやになった。最初は家から出ることすら禁じられていたが、結局時間が過ぎていくだけで何も解決しないので、条件として外出時はマスクを付けることになったのだ。あいにく呼吸を必要としない私たちは、猛暑日も運動時も息苦しくなることもなく、すぐにマスク生活に順応した。
 死者になって以来、父も母もわたしとは距離を置くようになっていた。毎晩帰宅すると、電気の消えたリビングを忍び足で横切り、自分の部屋に向かいドアを閉める。別の部屋にいる姉と両親は、どうやらLINEで会話しているようだ。
 わたしが病に伏せ、息を引きとるまでは父も母も姉もきちんと「家族」をこなしていた。だけどそれは死という結末がきちんと用意されていたからだ。感動の閾値に達して流された涙はもう元には戻らない。死後も世界に留まり続けるわたしと家族とは、ただ気まずさだけが残った。生と死との境界が、わたしたちの血の繋がりをも隔ててしまったというわけだ。
「キョウコ!」
 名前を呼ばれて振り返る。
「久しぶり。やっぱり来てたんだ」
 かつての親友は、あの時の姿のまま、バーカウンターの前に立っていた。真っ赤なアイシャドウも、毛先を青く染めたショートヘアーもあの時のままだ。ビルから飛び降りたあの時の。

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