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偽書・2021年1月3日の日記/蟹剥き職人 ミサジロー

夕方ごろに駅前に行った。モスバーガーがやっている獺祭甘酒シェイクを飲もうと思って行ったものの、その店舗では取り扱いがないとのことだった。すこししょんぼりして店を出たら、駅前の広場の片隅に、小さなテーブルを広げている人物がふたりいた。ひとりはお正月らしく振袖を着た背の低くてころころした女性。もうひとりは袴を着た背の高い五分刈りの精悍な男性だった。

女性が大きな蟹の脚を持ち上げると、ぽきりとたやすく折って身をズルリと引き抜いた。近くのノボリには「蟹剥き職人があなたのお家にうかがいます!」とあった。

話を訊いてみると、どうやら本当に蟹の殻を剥くことを職業にしているらしい。料亭の裏でひたすら殻を剥きつづけたり、例年であれば忘年会や新年会で一種の余興として呼ばれていたものの、コロナ禍における相次ぐ営業自粛やコスト削減、各種宴会の中止によって、こうして地道な営業活動をおこなっているらしい。

わが家の本日の晩御飯はたしかどこかから取り寄せた冷凍蟹だ。こりゃ面白いと思って、来ていただくことにした。ころころした女性が五分刈りの男性を顎でしゃくった。「この子はこのあいだ三級になったもんで、ええ、なかなかいい仕事をすると思いますよ」とのこと。かれは名刺を差し出してきた。かなりいい紙質で、表面がややざらついている。筆文字フォントで美沙次郎(MISAJIRO)とあった。「美沙さん」と自分がつぶやくと、すぐさま「押忍、ミサジローっす」とよくとおる声で返してきた。芸名なんだろうか。「ミサ・ジロー」ではなく「ミサジロー」とまとめて発音していた。

家への道すがら、ミサジローさんと軽くことばを交わす。ミサジローさんはふだん、かくかく商社に勤めていて、そこのしかじか部で働いているらしい。歳は自分と近かった。前職の忘年会でつぎつぎと蟹やロブスターの殻をぽきりぽきりと折って剥いていく職人の姿に憧れて、副業として弟子入りしたらしい。蟹剥き職人もかつては冬シーズンや年末年始の稼ぎだけで一年食っていけるほどだったらしいが、年々蟹剥き職人が呼ばれる機会は減っており、いまは副業するのが当たり前となっているらしい。たまに蟹剥き工場にいって研修をしたりもするらしい。

さて、夕飯。父と母は『ポツンと一軒家』を見ていた。卓上に並んだ蟹の剥き身をまえに、ミサジローさんはピンと背筋を伸ばして立っている。かれはバックパックから大きな壺を取り出すとキュポンと蓋をはずして器に注いだ。一門につたわる秘伝のフィンガーボウル用液らしい。ライムのほのかなにおいがした。

マスク姿のミサジローさんはフィンガーボウルに長くてゴツゴツとした指をぴちゃぴややった。消毒効果もあるらしい。

「さて御覧ください」。かれは親指をわれわれに向けた。そこには指紋があった──が、よく見てみると、凹凸が妙に際立っていた。「われわれ蟹剥き職人は絶え間ない鍛錬により、このように指紋が凸凹になっています。この凸凹を使って、このように──」

半分にスライスされている蟹脚を手に取ると、ちょっとの力でポキリと折ってみせた。

「そしてこのように──」

蟹のお腹の部分、脚の付根で身が詰まっているけれど微妙に食べづらい部位に手を伸ばすと、スーッと親指をゆっくり動かした。特殊な指先によりまっぷたつに切れ、分かれた。おお、と僕らは拍手をした。マスクをしていても、ミサジローさんが満面の笑みを浮かべているのがわかった。

………
……

蟹剥き職人はすべての身を引きずり出すことができるが、もちろんそこまではしない。蟹をふくめた甲殻類を食べる際には、殻を剥くこともまた楽しみだからだ。しかし殻を剥くのは面倒だし、手間がかかる。そんな殻剥きという行為をより楽しく、より剥きやすいようにレクチャーをし、一種のエンターテインメントに仕上げるのが、かれら蟹剥き職人なのだという。

お代は一時間二千円、そして剥き終わったあとの蟹の殻だった。殻もですか、ゴミですよと軒先でたずねると、ミサジローさんは折られたり潰されたりばらばらになった殻を手のひらの上で寄せ集め、そしてふんと力を込めた。殻はもとに戻っていた。もちろん身はない。きれいなものだった。鍛錬によって発達した手は、甲殻類の殻を復元させる特殊な液体を分泌するらしい。

「秘密ですよ」とかれははにかんで言った。

僕はうなずいた。

どこからかひどく冷えた風がびゅうっと吹く。潮風のようなかおりのするそれは、とても開けていられないほどに目をしょぼしょぼさせた。風が去る。目をこすりつつなんとか開けると、そこにミサジローさんの姿はなかった。あとには茹でた蟹のにおいのみがあった。

名刺に記載されていた職人組合の住所をグーグルマップで調べると、そこはただの空き地だった。そういうこともあるんだなと思った。

あとはテレ朝で放送されていた『天気の子』を見たりしてました。東京のビルが一種の殻だとして、かれら蟹剥き職人はそれをいとも簡単にずるりと剥いたりすることもできるんだろうか……建物だけじゃない、この地上にあるものは地中深くのプレートの上に乗ってるものなんだから、ゆくゆくはそれを丸ごとずるりとやれたりもするんだろうか……そんなことをぼんやりと思ったりもした。

そんな感じでした。

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