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【23-12-03】本と、音楽。意識の流れ。:AlexGから白石と李箱まで。

◼️11月27日
AlexGのことも記録しておかないと。JAPAN TOUR 2023 11/27 Spotify O-EAST 。言うまでもなくめっちゃよかった。じつは、聴き始めたのは昨年の『God Save the Animals』からで、でもこれが個人の年間ベストに入るぐらいよい音楽だったので、旧譜をどんどん遡っていった。そのどれもが、それまで聴いていた音楽のなんというかシステムがまったく異なるもので一気にはまってしまった。そういう意味では俄かであることは間違いなく、今回のライブも多少の逡巡はあった。長年来日を待ち望んでいたコアなファンの人たちに申し訳ないという気持ち、そして1-2年だけ浸った程度で果たして楽しめるのか。なんて流れだと続く言葉は言わなくていいな。
まず驚かされたのはバンド。一曲目「S.D.O.S」。イントロに続くドラム、Tom Kelly、ベース、John Heywood。予想しなかった、耳そして胆にくる重低音。重量級のリズム隊。これまったく別の曲になってるやん!Alex G、アレックス・ジャンナスコリは、宅録、いわゆるベッドルームポップ、ローファイだけのアーティストではなかった。じっさいには『God Save the Animals』の曲も、たとえば「Blessing」はバンドが参加しているしライブできわ立つプレイヤーでもあるのだ。この重量級の音は最後まで続く。が、いっぽうで全体としてはさまざまな音を繰り出し、声を絞り出している音楽オタクの兄ちゃんが宅録やってるようなシーンが目に浮かぶような時間でもあった。アルバム通りのヴォコーダーやサンプラー、アレックスだけじゃなくギターのSam Acchioneのファルセット、そのギターを抱えてのキーボード、観客を背にかき鳴らすAlexのギター、デスメタル(Brick)、そして(リクエストという体の)アンコール7曲(あっさり終わると思っていたのでこれも予想外)……。なんだろう。音楽を創っていく生まれてくる楽しみも同時に味わうことができた。ライブの威力とライブの脱力。そんな印象。かくなる上は限定ライブLPのデジタル化を願うばかり。
以下は、東京公演のセットリスト。大阪のアンコールはまったく違っていた。

◼️11月28日
新しいテレビが届く。壊れた古いTVは2015のものなので進化はしてる。「ああFire TV Stickですね。もういらないですよ」ってな感じだ。有機ELにしてみたがサイズは同じなので変わった感はあまりない。ともあれこれでドラマの心配をする必要はなくなった。というより、NHKプラスやTVerが格段に使いやすくなったので、わが家におけるドラマ見逃し心配がパラダイムシフトされた。

◼️11月29日
わけあって大阪へ。出張ではない。このところ新幹線は混んでいる。乗りたい列車では三日前の時点で二人並びの席がワンペアしか残ってなかった。一方で今年から予約システムが変わった年末年始については、いったんは30日の遅い時間の列車の権利しか抑えられなかったもののフタを開けてみれば従来の一カ月前予約で29日に変更できたりもする。EX予約の進化が喧伝され続けているが個人的には進化しなくていいっす。

◼️11月30日
午前中の用事を終えて千里中央へ。イオンのSENRITOというショッピングモールへ。できてからずいぶんたつが初めて入った。ユニクロもできたようだしピーコックの代わりですね。すでに書いたように田村書店で『大阪の生活史』。紀伊國屋ほか大きな書店ではすでに山積みで発売が始められているという情報がフィルターバブルに流れていたので期待していくも最初は見つけられず。一方でこれはたぶん入ってないやろなと思っていた、『脱成長がもたらす働き方の改革』(セルジュ・ラトゥーシュ、中野佳裕訳、白水社) が発見できた。「ブルシット・ジョブからの脱却に必要なのは、「より少なく働くか、働き方を変えるか、あるいはまったく働かない」こと」というような惹句ではあるが、読み始めてみると(もとより実用書ではないとして)、労働についての最近の研究成果や議論をまとめた、より高いレベルの働き方改革の提言という印象。で、この本をもってレジに向かったところ横にビニルで個包装された『大阪の生活史』が予約品のように積まれていたので、思わず予約してないけけど買えますか的に尋ねてしまう。同時に、ああ千里でも買う人おんねんや、これもしかしたら大阪の一家に一冊になったりするんちゃう的なことも少し思った。

◼️12月1日
久しぶりに大阪の事務所に出社。コロナもあってたぶん2年ぶりぐらい?たまさか、なんとか式のような会合があって本来的には東京からzoomで訓話する予定だったけれど、せっかくなので生出演。すべての知は仕事の自由につながる。だから知をもっとカジュアルに考えよう。今クールのテレビドラマの話でも、プロ野球の話でも、ダンスの話でも、虎ノ門にできたご飯屋さんの話でも、小説の話でも、世の中に存在するすべての事象に、批評的な視点が持てれば、それが知です。みたいな何の役にも立たないような話。時間オーバーしてまで喋る話ではない。
退社して新大阪に向かう途中で梅田の紀伊國屋に寄る。まじで入口に『大阪の生活史』あと東京も沖縄も積まれとった。で、ここではコルソン・ホワイトヘッドのエンターテインメント小説と謳われている『ハーレム・シャッフル』(藤井光訳、早川書房) を(『地下鉄道』のような小説とエンタメの差がよくわからないが)。じつはもう一冊、ルリユール叢書のセリーヌの『戦争』も探したがこちらはタイムオーバーで発見できなかった。あとでネット検索したら僅少だが在庫はあったようなのでまじめに探せばよかった。でも荷物も重くへとへとだったしなあ。ごはんも食べてなかったし。ということで新大阪で黄金のパッケージのかにめし弁当を買って帰京。

◼️12月2日
久しぶりにTVのある土曜日。ですが軽く業務をこなしてティップネスルーティーン。業務の目星をつけたので、夕方に所用で青葉台へ。ブックファーストがあるのでセリーヌの『戦争』を探すも見つからず。一方でこれも探すの大変かもと思われていた『七年の最後』(キム・ヨンス、橋本智保訳、新泉社)が発掘できた。素晴らしい。それならこの機会に、ということで、『翼 李箱作品集』 (斎藤真理子訳、光文社古典新訳文庫)も購入する。「それなら」というのは、伝記小説である『七年の最後』で書かれた白石(ペク・ソク)と李箱(イ・サン)は、1911年、1910年生という同世代の詩人であり(李箱は小説も日本語の詩も書く)、置かれた立場や場所は異なるとしてもその精神が抗うものは同一であり、日本との距離間(李箱は日本で客死)、二人とも国と時代に翻弄されたという点での「それなら」ということだ。さっそくパラレルで読みはじめたところ、まあ面白いです。白石の方の最初の舞台は1957の北朝鮮とソ連。わたしはこのあたりの時代の共産圏についての知識、とりわけパワーバランスについての知識は持ちえていないがそれでもこの時代の雰囲気がかなりわかりやすく描かれていると思える。冒頭では二国間の間諜冒険譚的な側面もありシビれながら読める。李箱の方は実作である。斎藤真理子氏の解説には「早すぎたモダニスト」とあるがじっさいに書かれた散文も詩も構成・構造にアイデアがありときシュールでもある。日本の同時期の作家の誰かに似ているような気もするがこれは勘違いか斎藤真理子氏の訳業の素晴らしさに拠るところだろう。これを機会に二人を調べたいと思っているのだが、合わせて論じたテキストってないのかな。国が違ってしまってるからないか。いずれにしても、とても良い二冊なのでじっくり読もう、そして読んでみてください。
帰りの電車で、忘れていたことに気づき地元のチェーン書房で『計算する生命』(森田真生、新潮文庫) も抑えた。なにしろヴィトゲンシュタインに弱いもので。

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