見出し画像

クレディスイス破綻の余波~駅伝原監督も巻き込まれたAT1債って何?

 青山学院大学の駅伝部監督、原晋さんが「クレディスイスで大損した」と嘆いてる動画を見た。
 原さんはクレディスイスの「AT1債」を、証券会社に勧められるままに購入した。ところが、今回の経営危機に伴って、その債券が紙くずになってしまったというのである。「サラリーマンの年収の数倍」を失ったという原さん、さすがに元気がなかった。
 原さんは駅伝一筋で、投資とかにのめり込んでいる感じはしない。ご本人も証券会社の担当者に、「ローリスク・ローリターンでいい。紙きれになることだけは、避けて欲しい。」と要望した結果、AT1債を勧められたというのだ。
 この証券マン、とんでもないものを勧めたものだと思う。AT1債は、折り紙付きの「ハイリスク・ハイリターン」の金融商品なのだから。

AT1債って何?

 そもそも、AT1債という債券の名前を聞いた人は、あまりいないだろう。メディアでは、AT1債(永久劣後債)と表記されるだけ、これでは何のことか分からない。
 永久劣後債は2つの特徴を持っている。
 まず、償還期限が決められていない。だから「永久」となる。
 一方、「劣後債」とは、発行体が潰れたとき、弁済順位が低い債券のこと。 銀行が潰れた場合、残された資産から、最初に弁済を受けるのは預金者、次いで一般債権者、その次が普通の社債、その次に期限付きの劣後債、その次が期限のない永久劣後債となる。そして、もっとも弁済順位の低いのが普通株式となる。
 銀行が潰れた場合、預金を弁済ことすらままならいから、株式が紙くず化するのもちろん、永久劣後債にまで弁済資金が残されることは稀となる。永久劣後債は、株式ほどではないにせよ、紙くず化リスクがかなり高いのだ。
 その分、利息も高く付けられている。クレディスイスのAT1債利回りは、9.75%のものもあったという。それなりに高い金利が付けられていたのだ。
「1%でも2%でも金利が付くのであれば、普通預金に置いておくよりいい・・・」と考えた原さん。監督を引退した後、奥さんと年に一度くらい旅行ができるようにと、貯めてきたお金で購入していたという。
 クレディスイスは約160億スイス・フラン(約2・4兆円)のAT1債を発行し、証券会社を通じて投資家に販売されていた。ところが、今回の経営危機で、それが一瞬にして紙切れになった。日本では1400億円ほどが販売されていたとされているが、もっと増えるかもしれない。原さんもその1人だったわけだ。

AT1は”Additional Tier 1”

 さて、AT1債という言葉だが、実は永久劣後債の略ではない。永久劣後債の略は「PSD」(Perpetual Subordinated Dept」だ。
 AT1は「Additional Tier 1」の略。「Tier 1」とは自己資本のカテゴリーの1つで、株式(資本金)、法定準備金や剰余金といった中核的なものを示している。
 自己資本の充実が求められる中、株式発行などを補完する方法として登場してきたのが永久劣後債だった。償還期限のない永久劣後債は、株式に相当する安定性を持つため、Tier1に入れることが可能となったのだ。
 そこで、銀行が発行する永久劣後債を、「追加的(Additional)なTier1」という意味で、AT1債と呼ぶようになる。AT1債は永久劣後債の中でも、銀行発行のものにだけ使われる呼称。「AT1債(永久劣後債)」と、同列に並べるのはいささか正確性を欠くが、日本のメディアではこうした表現が使われているのである。

逆転した弁済順位

 自己資本を充実させる補完的な方法として、積極的に使われるようになっていったAT1債。しかし、劣後債だから、銀行が破綻した場合、弁済順位は株式に次いで低く、紙くず化するリスクが高い。
 クレディスイスの場合でも、金融当局主導による支援が行われる過程で、AT1債の全額が無価値になると発表された。
 劣後債だからそうなるのは当然だが、ここでおかしな事態が発生する。株式は紙くずにならず、AT1債が紙くずになってしまったのだ。
 なぜ、こうなったのか?実はクレディスイスのAT1債には、経営危機に陥って、金融当局の支援を受けた場合、自動的に無価値になるという特別条項が組み込まれていた。
 こうした条項を持つ債券は「CoCo債」と呼ばれている。「Contingent Convertible Bonds」(偶発転換社債)だ。
 事前に設定されていた条件、例えば「金融当局の支援を受けた」、「自己資本比率が設定されていた水準を下回った」といった事態になると、元本の一部または全部が失われたり、株式に転換されるなどの措置が、強制的に発動される「トリガー(引き金)条項」を持っているのだ。映画「ミッションインポッシブル」の、「なお、このテープは、自動的に消滅する・・」、みたいな仕掛けが組み込まれている、それがCoCo債なのだ。
 引き金が引かれて、自動的に紙くず化したAT1債。ところが、株式は紙くずにならなかった。
 クレディスイスは、UBSに買収される形で救済されたが、その方法は株式交換だった。クレディスイス株は、極めて低い交換比率になるものの、UBS株に交換される、株式保有者の資産価値はゼロにはならない。その額は約30億ドルで、これがクレディスイス株の保有者に与えられたのである。
 そもそも、クレディスイスは、UBSに吸収されただけで、経営破綻していない。株式が紙くずにならないのも、当然と言えるのだ。

銭の戦争が始まった!

 株式は紙くずにならず、AT1債は紙くずに。結果的とはいえ、弁済順位が逆転した状況であり、AT1債保有者は激怒した。
 今回の決定を下したスイスの金融当局に対して、財産権侵害だとして複数の訴訟が起こされている。金融当局が、AT1債の条項を都合のよいように解釈しているとの指摘もあり、先行きは不透明だ。AT1債の保有者の中には、世界的規模のヘッジファンドも含まれている。彼らが抱える腕利きの弁護士たちは、金融当局が下した決定の矛盾点を突き、決定を覆そうと挑んでくるだろう。
 もしかすると、紙クズ化は撤回されるのでは?という思惑から、AT1債を秘かに買い集め、一攫千金を狙っている投資家もいるのである。
 日本でも、AT1債を販売した証券会社に対して、「返金を請求できる可能性がある」として、相談窓口を設置した法律事務所が出てきている。折角貯めてきたお金を失った青学大の原さんだが、諦めるのは早いのかもしれない。
 クレディスイスの経営破綻は、金融当局の迅速な対応で、世界規模の金融危機へ発展することは回避できた。しかし、この問題は根深く広範囲だ。AT1債市場の信頼も低下していて、銀行の資本調達にも影響を与えている。 
 原さんら投資家の資産がどうなるのかも含めて、世界規模の「銭の戦争」は、始まったばかりだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?