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残念な投資家たち ⑧ あっけなく消えた虎大尽~山本唯三郎

2016年2月、韓国の市民団体が学校法人同志社を訪問し、保有しているチョウセントラの剥製を返還するように求めてきた。
日本の植民地時代に、日本からやってきた「征虎隊」が仕留めたトラだというのだ。

征虎隊を率いていたのが、山本唯三郎(たださぶろう)だった。


山本唯三郎:ウィキペディアより


立派なひげを生やし、獲物を前にして自慢げな表情の唯三郎。
船舶事業で大成功を収めた「船成金」のひとりだった。

船成金の誕生

1873(明治6)年、岡山県で生まれた山本唯三郎は、同志社や札幌農学校(現北海道大学)で学んだ後、農業や石炭販売などを手がけ、やがて船舶事業に参入する。
これが、第一次世界大戦に伴う爆発的な船舶需要を捉え、唯三郎はたちまち莫大な資産を築き上げた。
最盛期の資産は4000万円、現在の貨幣価値で1200億円ほどと試算されている。
「船成金」となった唯三郎は、ほかの船成金たちと同じく、お金の使い道に困っていた。
ます、東京の池上本門寺近くに、4万7千坪の大豪邸を構えてみた。
鎌倉時代の絵巻物「佐竹本三十六歌仙絵巻」を、破格の値段で購入したが、お金はいっこうに減らない。
やがて、理解不能の散財が始まる。
料亭に遊びに行き、帰りがけに「玄関が暗い」といって、お札に火を付けて灯り代わりにした。


特別列車を仕立て、芸妓を満載して京都に繰り出しもしてみた。
「海外で働く日本人の気を引き締めるため」という名目で、越中ふんどし1万本を持って欧米を漫遊してみたりもした。
唯三郎を巡る虚実入り交じったエピソードが、伝えられてきた唯三郎。
征虎隊もそのひとつだったのだ。

しかし、1ヶ月に及んだ虎刈では、わずか2頭しか仕留められなかった。
それでも唯三郎は、帰国後に渋沢栄一や大倉喜八郎らの重鎮を集めた報告会を開催した。
場所は帝国ホテル、メインディッシュは「咸南虎冷肉煮込み」、持ち帰った虎の肉を供したのであった。
しかし、肉はすっかり傷んでいて、ボロボロで臭く、とても食べられたものではなかったという。

報告会が開かれたのは1917年12月。
「虎大尽」と呼ばれるようになった唯三郎だが、この頃がその絶頂期だった。
まもなく襲ってきた「戦後恐慌」に巻き込まれ、唯三郎の事業はあっけなく破綻し、資産の大半が失われた。
広大な屋敷は売り払われ、佐竹本三十六歌仙絵巻も売りに出された。
しかし、あまりに高額なことから購入者が現れず、最後はひとりずつ切り離し、バラ売りせざるを得なかったという。
そして、剥製にされていたトラは、同志社に寄贈されて、今日に至るのである。

唯三郎は「成金」と呼ばれることを嫌った。
「殆んど何等の勤労もせず、計画もなく、一朝にして奇利を僥倖し、一寒児より忽ち暴富者となったもの」が成金だとすれば、「冷笑に値する」と唯三郎はいう。
しかし、全ての成功者を成金とあざ笑うことは、「玉石混交の誹りを免れない」とした上で、「勤勉力行せるがゆえにかえって社会より冷嘲を受くこととなり、ひいては社会一般に刻苦奮闘する心を遅滞せしめ、雄心壮図を阻止する基となって、国家の進運を妨げる恐れがある」というのである。
10年ほど農業に従事し、石炭の商売に20年を費やした後、船舶事業でようやく成功を掴んだ唯三郎は、ビジネスチャンスを模索し続けた苦労人であった。一夜にして「成金」になったのではない、という気概を強く持っていたのである。

1927(昭和2)年4月17日、山本唯三郎は54歳でこの世を去った。死因は胃痙攣だったという。終焉の地は吉祥寺の自宅、かつての大邸宅とは比べものにならないほど、簡素なものだったという。

第一次世界大戦に伴う船舶の価格暴騰は、いわゆる「バブル」だ。
その大波に乗った唯三郎は、船成金となった。しかし、バブルが崩壊するとき、なすすべもなく、海の藻屑となってしまったのだ。
日本のバブル期、あまたの「バブル紳士」という成金が誕生した。
世界各地でも、様々な時代、様々な分野で成金が誕生した。
しかし、その多くが結局は「歩」に戻り、はかなく消え去っていった。
成金と呼ばれることを嫌った山本唯三郎。
しかし、歩から成金、そしてまた歩へという、哀しい循環から抜け出せなかったのである。

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