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四十八文字の話『サ』 「最後の将軍」と小栗上野介3

話を「徳川慶喜公」に戻します。


徳川慶喜公、「戊辰戦争」「鳥羽伏見の戦」では総大将でありながら、                    戦場にいる部下を置き去りにして           一人(勿論、お付きの方々は一緒ですが)         江戸まで帰還してしまうその「弱腰」「無責任さ」が  かなり強調されていますよね。            


ここで、私論を。                  この時に慶喜公の命により随行した会津「松平容保」公(元々の系統は慶喜公と同じ徳川水戸家)とは、      江戸に戻るまでの間に何かしらの「秘密の打合せ」が  行われたのではないか?、と思われます。       

その結果が、戊辰戦争の中でも最も悲惨であり     「白虎隊の悲劇」に代表される「会津戦争」として現れていったのでは、と思います。 

その「秘密の打ち合わせ」も次回述べさせて      頂きます。            


東叡山寛永寺 根本中堂

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その後は徳川家菩提寺の一つ上野の東叡山寛永寺に   恭順を示すため「謹慎」し、その姿を世間から     消しました。

皆さん、ご存知の方もおられますと思いますが、    実は当時の「徳川幕府の軍事力」はかなり強力     なんですよ❗。                   

その配下の動員力、そして日本はおろか        「東洋一の艦隊‼️」海軍力を誇っておりました。    

その権威は確かに以前と比べたら小さくなっていた   のでしょうが、                   その「幕府の御意向」を日本全国に号令すれば、    その力は、薩摩長州などと比較にもなりません。    

ですから「徳川慶喜」公が(出し惜しみしていた感の有る) 持ち前の「リーダーシップ」を発揮し、        率先して薩摩長州と対峙したのならば、        まだまだ「江戸幕府」というものが          続いたかもしれません。


では、何故その戦力を駆使し全面的な対抗姿勢を    示さなかったのか?                 それについては次回に説明させて頂きます。

(続きますよ❗)

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