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四十八文字の話『ケ』 「系図」を見てみよう(続2)「足利将軍家のキーマン」

この長い日本の歴史において、「天台座主」(早い話、比叡山延暦寺の住職です)を務めた後、「征夷大将軍」に就いた方は、もう一人、同じ室町時代に「後醍醐天皇」の皇子「護良親王」(もりながしんのう)の例しか有りません。 


足利義教公像

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実際、そのまま仏教界で生きていったとしても、その名声をほしいままにした事でしょうね。          ですが、話はここで終わりません。          更にこの方の凄い点は、この方、いざ還俗し、室町第六代将軍に就くや、その「延暦寺」に対して

「断乎たる態度❗」を示し、反抗すれば  大きな処罰を加えていくのです。  

                          若い頃から仏門に入っているですから、世間一般の方々 以上に、日本仏教界における「比叡山延暦寺」の存在が何たるか❗、如何に重要であるか❗を、ご自身の骨身まで 知っている筈ですよ。                まるで、自分が子供の時に通った、恩義の有る学校や教師に向かって「処罰」を下す事に、この方、何の躊躇もないんです❗                      

当時の事情を単純に比較など出来ませんが、何やらこれはこの方の死から約130年後に起きた「織田信長」公に よる、明智光秀公などの家臣達や当時の一般の人目をも 憚らない、あの悪評の高い「比叡山焼き討ち」を彷彿  させます。

因みに、私は以前、この「四十八文字の話」シリーズ、「『エ』 叡山」のエッセイでも書せて頂きましたが、 私自身は「織田信長」公が行った「比叡山焼き討ち」は、決して「宗教弾圧」などではなく、戦国時代当時においての至極もっともな戦術だと思っていますが。


世間から「天才」と言われる方はやはり凄い業績、   エピソードを残してます。でもその方の人間性や性格に ついて、実際好きか嫌いか?と問われると、また別問題になりますので(個々の人の好みですので)、ここではその件は「スルー」させて頂きます🙇

それで改めて今回「義教」公について色々調べてみましたが、この方はひょっとしたら「織田信長」公の前世か?、「織田信長」公は「足利義教」公の生まれ変わりか?、と思う程にもなりました😅。              その件について是非述べさせて頂きたく        お二人が実施した政策等を比較してみました。     是非ご覧下さい。


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⚪当初の評判                    (義教公)                       先の将軍に跡取りがいなかったため「六代将軍」を   誰にするか?、これについて当時の幕僚達は頭を悩まし 思案してました。                  それで出した結論が

「そうだ!、『くじ引き』で決めよう!」 


それで次期将軍候補達にくじ引きをさせ、『当選』した のが「義教」公だったのです(どこまでホントかどうかは 疑わしいと思いますが)                そのため、当初は世間からは

「くじ引き将軍」と揶揄されていました。


(信長公)                       ご存知の通り、幼少の頃の振る舞いから「うつけ者」と 呼ばれます。 

⚪就任した頃の状況                 (義教公)                       先の将軍が約30年程治世してましたが、        その時代における色々な利権や賄賂などがまかり通って いた時代でした。                  当時の幕僚の中に頼りになる者など全くいません。

(信長公)                       まだまだ基盤が磐石ではなく、特に身内からの抵抗が強くありました。                    ましてや、小国「尾張」国の回りは有力勢力に囲まれて いる状況でした。

⚪では何から始めたか?               (義教公)                       

正に「力❗」を付ける事。


将軍直属の軍隊(幕府奉公衆)の育成強化を行います。   各地の守護大名の中で、跡目を嗣げない次男~以降の男子達を集め、先の将軍時代では形骸していた「幕府奉公衆」を再生させます。                  その数は数千~万単位の軍事力❗、大名クラスの軍事力 です。                       また一方、幕府事務方の「幕府奉行衆」にも過去の   シラガミ❗に関わりのない人物達を採用しました。

(信長公)                       小国ですから数では負けてしまいます。        それで、彼我の剣術における技量の差が出やすい   「接近戦」を避けるため、「長槍」を重視し、     採用しました。                   またこれは有名な話ですよね             

その「彼我の技量」に左右されない   「火縄銃」に早くから注目してました。 

 

(そしてその後、その「火縄銃」を駆使し、どちらの   大名にも与しない戦闘集団を形成した「雜賀衆」には  手こずりますが)

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