急に足が速くなった男とその妻(創作)

キッチンでコーヒーを入れている妻。
シャツにスラックス姿の男が入ってくる。手にはジャケット、ネクタイ、リュックを持っている。

妻 「おはよう。」
男 「ざいまーす。」

男、荷物をソファに置き、冷蔵庫を開ける。しばらく眺める男。

妻 「…ん?」
男 「肉、ある?」
妻 「…肉?」
男  「…肉。」
妻 「…なんで?」
男 「いや、…焼こうかなって。」
妻 「…なんで?」
男 「食べようかなって。」
妻 「…今?」
男 「今。」
妻 「…冷凍。」
男 「え?」
妻 「冷凍庫。」
男 「あぁ。」

男、冷凍庫を開け肉を取り出し、レンジに入れる。

妻  「(男の分のコーヒーを入れながら)飲むよね?」
男 「あぁ。でも肉だし。」
妻 「えぇ、入れちゃったよ?もう。」
男 「あぁ。飲む飲む。」
妻 「…なんで?」
男 「え?もう入れちゃったって。」
妻 「じゃなくて。なんで肉?朝から。」
男 「あぁ。」
妻 「そもそも食べないじゃん、朝。」
男 「うん。いや、なんかさ。」
妻 「うん。」
男 「足がね。」
妻 「うん。」
男 「足って言うか、太ももがさ。太ももの裏がさ。」
妻 「ん?」
男 「ハムストリング…ハムストリングス?がさ。」
妻 「…。」
男 「ボコって。急に。」
妻 「…何言ってんの?」
男  「だから、朝起きたら急にハムストリングスがボコっ…」

チン!とレンジが鳴る。
男、肉を取り出すがまだ溶けておらず、再びレンジに入れ、回す。

妻 「間に合うの?今から食べて。」
男 「間に合う。たぶん電車には間に合わないけど、会社には間に合う。」
妻 「…。」
男 「走れば。」
妻 「…。」

妻、マグカップを片手にソファに腰かけスマホを見るともなしに見る。
男、チン!と鳴る前にレンジを開け、肉を取り出し焼く。

男、焼いた肉に塩コショウを振りかけ、立ったまま食べる。
男、食器、フライパンを洗う。

妻 「いいよー、そのままで。」
男 「大丈夫大丈夫。走るから。」
妻 「…。」

男、換気扇の下でコーヒーを飲みながらiQOSを吸う。

妻 「太ももが何?」
男  「(換気扇の音でよく聞こえず)なんか言ったー?」
妻  「(声を張って)太もも!」
男 「あぁ。だからね、さっき起きたらー、太ももに違和感を感じてー、あ、違和感を覚えて?」
妻 「いい、どっちでも。」
男 「変なこと言うなって思うと思うんだけどさ、」
妻 「うん。」
男 「たぶん足速くなったわ、俺。」
妻 「変なこと言うな。」
男 「たぶん馬くらい。」
妻 「変なこと言うな。ゲームか。」
男 「ゲーム?」
妻 「え?」
男 「そういうゲームあんの?」
妻 「…いい。」
男 「…。」
妻 「足が痛いって話?太ももが。」
男 「いや、痛みは無いし、体調も良い。むしろ力が漲ってくる感じ。」
妻 「どうやって聞けばいいの?この話。」
男 「不思議だなーて思って聞いてくれれば。」
妻 「難しいよ。」

男、換気扇を止め、吸殻をゴミ箱に入れる。

男 「ま、行ってくるよ。」
妻 「帰りは?」
男 「昨日より早く帰って来れると思う。」
妻 「足速くなったから?」
男 (それ!)と指をさす
妻 「…。」

男、ジャケット、ネクタイをリュックに詰め、玄関へ去る。

妻 「気をつけてー。」
男(声)「行ってきます。」

妻、立ち上がり窓に近づく。
馬のようなスピードで走り去る男が見える。

妻 「…よかった、結婚して。」



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