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かなえ 第1話

可奈絵ちゃんは、いつも飲みものをちょっとだけ残す。いつも毎回100パーセントで残すもんやから、なんで最後まで飲まへんの?って訊いてみたことがあるのやけど、

「あー。

うち、家族みんなそうなの。

もれなく全員。

お母さんも。お姉ちゃんも。弟も」

とだけ言われて、もれなく全員と言いつつお父さんは含まれへんのや、とか思ってたら違う話になって、結局なんで残すのかはよくわからんかった。

今日も、可奈絵ちゃんはスパイダーマンのマグカップに入ったコーヒーを、一口だけ残してそのままシンクに置いて、私より5分早く家を出た。

可奈絵ちゃんは、半年前にうちの会社に入ってきた新人で、と言っても私より一個上の27歳で、背が高くて、けっこうな美人。たぶん会社の人たちは誰も、可奈絵ちゃんがスパイダーマンのマグカップを使っているだなんて思わないやろうな。

半年前まで赤の他人やった私たちは、3ヶ月くらい前から一緒に住んでいるのやけど、それはたまたまタイミングが合ったことと、ある事件がきっかけとなっている。まあ、事件て言うても、私らのなかでの事件なだけで、世の中的にはなんてことはない出来事なんやと思うけど。

私は、自分が使った食器と可奈絵ちゃんがシンクに置いていったスパイダーマンを洗い、黒のストレッチジーンズを履き、黒のパーカーを羽織り、黒のリュックを背負って家を出た。服装や髪型が比較的自由なことと、遅刻をしても怒られへんところがうちの会社の好きなところ。あ、こんなことを言うと私が遅刻魔みたいやけど、実際には一回も遅刻をしたことはない。意外と時間はきっちり守るね!で有名な私である。

相変わらず、駅も電車も人で溢れていて、中高でバスケットボールをやっていた私は、東京の人混みの中を歩くとき、ドリブルで敵を躱してるような気持ちになる。視野を広げ、あらゆる方向から迫ってくる敵を躱し、安全なスペースを見つけてすり抜ける。小さい頃からこういう人混みを毎日歩いてたら、もうちょっとドリブル上手くなってたかもしれんな、とか思う。関係ないか。道中、肩と肩がぶつかったらしきサラリーマン同士が言い争いしてたけど、チラッとだけ見て私はドリブルを再開した。今日も始業時間の15分前には会社に到着した。

エレベーターで3階のボタンを押して閉めようとしたとき、足音が聴こえてきたから開ボタンを押してちょっと待った。いつもならそのまま閉めるけど、この足音はたぶん。

「あ、ごめん。

ありがと」

乗り込んできたのはやっぱり可奈絵ちゃんやった。5分前に家を出たのに、私よりあとに到着するってどういうこと?と最初の頃は思ってたけど、これが可奈絵ちゃんの平常運転。でも今日は早い方で、可奈絵ちゃんはこの半年の間に既に3回遅刻している。

「今日は何があったん?」

「んとね。

子どもが泣いてて。

見てた」

「見てたんや」

「うん」

可奈絵ちゃんには、気になることがあると足を止める癖というか、習性というか、そういうのがあるみたいで、1回目と2回目の遅刻のときはまだ一緒に住んでなかったから、寝坊しましたと言ってるのを聞いて意外と朝弱いんやなーとしか思わんかったけど、3回目のときはもう一緒に住んでたから、明らかに寝坊じゃないぞとなって、何してたん?と訊いたのやけど、確かそのとき言ってたのは、駅まで歩いてる途中で、杖ついたおじいちゃんが尻もちをつくように倒れて、救急車呼びますかって訊いたら大丈夫と言うから、ベンチのあるとこまで支えて行って座らせて、自分も座ってしばらく世間話してた、とかなんとかそんな感じやった。可奈絵ちゃんのそういう話を聞くのが最近の私の楽しみになっている。

私の家は父親が厳しくて、時間は絶対に守れる大人になれと言われてたから、時間を守ることは大事なことなんや、と何の疑いもなく思って生きてきたけど、可奈絵ちゃんと一緒におると、時間を守ることより大事なことって世の中いっぱいあるんとちゃうやろか、という気になる。

今日の泣いてた子どもの話ももうちょっと聞きたかったのやけど、すぐにエレベーターは3階に着いたので、家に帰ってから詳しく聞こう、と思ってエレベーターから降りた。


可奈絵ちゃんと初めてちゃんと喋ったのもエレベーターの中やった。可奈絵ちゃんが入社してきて2週間くらい経った頃、まだ業務以外の会話をほとんどしたことなかったから、エレベーターで二人きりになってちょっと気まずいな、何か話しかけた方がええやろかとか思ってたら、可奈絵ちゃんの方から話しかけてきたのやった。

「いいですよね。

よふかしのうた」

予想外の角度から来たもんやから、え?ああ、知ってます?いいですよね、と返しただけでそのときの会話は終わったのやけど、すぐに私のLINEのプロフィールを見たんやとわかった。BGMに設定しているのがCreepy Nutsの「よふかしのうた」やったから。可奈絵ちゃんと直接LINEを交換してはいなかったけど、うちの部署のLINEグループがあるから、たぶんそこから。

その日は、仕事中ずっと私の頭の中で「どっちや?」が渦巻いていた。よふかしのうたを知ってるってことは、シンプルにCreepy Nutsのファンなのか、それとも…。

結局そのあと話せるタイミングが無くて、家に帰ってから意を決して可奈絵ちゃんにLINEを送った。違ったらどうしよ、と思いつつ。

『もしかして、リトルトゥースですか?』

画面を閉じ、スマホをテーブルに置こうとした瞬間、ブルっと振動してポップアップ画面が出た。

『リトルトゥースです』


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