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「「無粋」なAI」について

これは、なかなかに興味深い記事である。いろいろと考えさせられる。おそらく、記事には書いていないことまであれこれ考えてしまい、ひとりで勝手に考え込んでいるようなところもあるのだろうけれど。記事に書かれていることには、執筆者の思いが強く込められていてその内容自体には決して思いとして間違っているようなところはないのではないかと思う。しかし、そのスポーツやアスリートに対する強い思いはわかるのだけれど、なぜかなんとなくすんなりと飲み込めないようなところもある。その思い入れる気持ちそのものはすごくよくわかるのだが、それにスポーツのルールや採点や判定、そしてAIが絡むと間口が大きく広がることもあって、いまいち釈然としないところがでてきてしまうというか。物事の考え方は人それぞれだから、いろいろあって然るべきである。だがしかし、そのいろいろあるところをあまり許容しないようにしようとしているのが、まさにAIというものなのではないだろうか。だからこそ、それは「無粋」だと指摘されてしまうのではないか。
完全にテクノロジーの産物であるAI(アーティフィシャル・インテリジェンス=人工知能)なるものは、どんなにAIという名を名乗り知能があることを謳っていたとしても、テクノロジーの世界で制作された下地の上に人によって工作されたものであるのだから、もりゃあもう決まって無粋なものなのではなかろうか。だから、この記事のタイトル(「内村や羽生の奥深い演技を理解できない「無粋」なAI採点の限界」)を見ても、何を今さらという感想がが真っ先にくる。AIだから無粋だし、AIだから限界もある。人工知能は人工の知能であって、全知全能とイコールではない。人間が基本的にバカな生き物であるように、人間が手にしたテクノロジーによって生み出された人工知能もさらに輪をかけてバカなところがある。この記事に書かれていることは、ある意味においては大きく間違ってはいないのだろうが、すべてその通りとも思えないのがややこしい。いちいちいろいろと考えさせられるとともに、そこから浮かび上がってくる問題を考えれば考えるほどに正解という到達点が見えなくなってくる。そういう意味で、とても興味深い。
しかし、無粋ではないAIなどというものがありえるのであろうか。そのために、そもそもの話が、なぜそれを問題視しなくてはならないのかがわからない。無粋であろうが何であろうが一向に構わないのでとにかく厳密に公正に採点しておくれ、ということでスポーツの世界でAIが導入されることになっているのではないか。いろいろな「しがらみ」にまみれにまみれた人間にとっては、どうにも難しいものになってしまうこともある厳密で公正な採点を、どこまでも無粋なAIであれば躊躇なく常に一定のクオリティで公平になし続けることが可能となるであろうから。その時々の体調や機嫌や心理状態によって採点にばらつきが出ることもまずないはずだ。AIには体調も機嫌も心理もないはずだから(そうした機能を搭載したより人間に寄り添ったAIも開発されるのかもしれないが、スポーツの判定や採点に使用する際はそうした機能は完全にオフにしておくべきだろう)。テクノロジーの産物である機械なのだから、ただただ機械的に点をつける。無粋なまでにオートマティックに。
計算可能なものしか判断できない機械とは、とても無粋なものである。だが、そうしたものを諸手をあげて喜んで受け入れようとしているのが、現代の人々の営む生活なのではないだろうか。機械的に機転がきくAIはいつだって先回りをして、自分を使用してくれる人間のためになりそうなものや興味のありそうなものを(やたらに)おすすめしてくる。または、今やるべきことを教えてくれる。そんな風にAIのおすすめという形式でなされる計画的消費行動・社会行動のサポートにいろいろな面で思っている以上にお世話になりっぱなしなのが、現代人の生活なのではないだろうか。これからの時代、そうした傾向は、ますます強まってゆくであろう。
人工知能も知能をもつものであるのならば(人工知能に知る能力としての知能はあったとしても、それは実際の人間の知能の機能においてはきわめてごく一部の機能でしかない)、どこか人間に近いところがあって、人間のもつ感情の機微や情緒というものを理解できるように感じられることがあるだろう。だが、それは大きな勘違いである。蓄積したデータをもとにアルゴリズムを弾き出して、それぞれの場面場面での状況や条件に見合うと予測される最適値を提示しているだけなのだから。人工知能がどんなに膨大なデータを駆使して高速で計算しようが、人間に備わった高度な能力と第六感までをも盛り込んだ直感的な判断には追いつけない部分があるだろうし、とても忘れっぽい生き物である人間がもうあまり必要がないからと遠くに追いやって忘れ去ろうとしていた記憶や事柄を、わざわざ人工知能はファイルの奥底から取り出してきてすべてのデータと同等に計算に盛り込んでしまうこともある(おせっかい)。そういう意味では、AIは決して人間にはなりきれないし、人間がAIを完全に理解し信用することもできない。
スポーツの世界では、ひとつひとつの技の点数や得点はあらかじめルールとしてすべて決まっている。そうした厳格で厳密なルールや決まりごとがあるからこそスポーツのゲームや試合は常に同じ枠内において(世界中のどこででも、いついかなるときにも)成り立つ。その試合やゲームの中でそれぞれのプレイヤーはルールに則って得点を重ねてゆけばいい。そして、それを越えでるようなことはルール上においては何ものも求められてはいない。
奥深い演技というものがあるとして、その奥深いとされている部分というのは、スポーツのゲームや試合において何らかの得点につながるものなのであろうか。ルールに則り決められた技をこなしてゆく演技や試技において、無駄に奥深いことをしたとしても、それはちっとも得点には結びつかないはずではないだろうか。スポーツだから、そこでは簡潔に必要なことを過不足なく行えばよい。奥深さを追求しても何にもならないが、技術を究めればすべてが奥深くなるというわけでもない。何についてもいえることではあるが、その道を極めた達人ほど超絶技巧を素っ気なくやってしまうというようなことは、往々にしてあるのではないか。
スポーツにおいて美を追求することは、どれほどの美学的な意味があるであろう。スポーツすることそのものに、そもそもの話が美的な感覚というものも最初から含まれてはいる。つまり、スポーツとは、それそのものでも美なるものなのである。人間が身体を動かしてするスポーツに美しさと無縁なものがあるだろうか。スポーツで身体を鍛錬することは、とてもよいことである。そして、その鍛錬は常に美という正なる方向性を目標にしてなされている。さらに、そのスポーツを通じて向上してゆく人間の姿そのものが美しくもある。しかし、スポーツの世界で必要以上に美を追求すると、それはもう自己満足のためのものとしか受け取られかねなかったりする。
名人による銘のある一点物の器よりも、名もなき職工の手になる普段遣いの下手物の器の方が、健康で健全なる美をもつ。そのように見た柳宗悦の(そして往年の茶人たちの)目は本物の美を捉え損なっていたといえるだろうか。そこには無粋や奥深さとはまったく異なる次元の美がある。当該の記事の中にもそのひとつの例としてあげられそうな事例を見つけることができる。障害をもったサッカー部の少年が学校卒業前の最後の大会でこれが最後の最後だからと初めて公式戦への出場機会を与えられた。少年は周りの仲間たちのサポートもあり、ゴール前でパスを受け取りシュートを決める。しかし、ゴールが決まる前に少年の手がボールに触れるハンドの反則があったため得点は無効になってしまう。障害をもつ少年の奇跡のゴールは幻となって潰えてしまった。だが、この場面でルール通りに厳密に判定することは無粋だと記事の中ではいわれている。そして、これは公平でもないという。障害をもつ少年が健常者の仲間たちの間に混じってスポーツをする場合には、その障害の度合いに応じてハンディキャップをあらかじめ与えておかないと公平にはならないということだろうか。本当だろうか。
ルールで決められている反則行為を見逃さないことは決して無粋ではないし、スポーツの場で障害をもった少年を特別扱いしないことは不公平の誹りを受けるようなことでは決してない。ここでは、障害をもつ少年が障害をものともせずに与えられた少ないチャンスを最大限に活かそうと必死にゴールを狙う姿、それこそが無上なまでに美しいものなのである。こうした美とともにあることこそがスポーツのあるべき姿なのではなかろうか。スポーツにおける美の表出には、それが名のある選手の技巧を凝らした技である必要は微塵もない。スポーツの語源をたどってゆくと、それはもともと〈余暇の気晴らし〉であり、複雑で巧緻なる技術の追求とはまったく何の関係もないことがわかる。精神と身体を解放し自由に動くことそのものがスポーツであり、その躍動にこそスポーツの美が輝き出る。よって、技術や技巧を中心に考えてスポーツを無粋でないものにしようとしすぎるとき、それはもはやスポーツではなくなってしまい〈余興〉となるのではないか。これを再び記事の中で用いられている事例をもとに考える。
ふたりの四十代にほど近いプロ野球選手がシーズン終盤の消化試合で投手と打者として対戦する。九回裏二アウト、高校時代からライヴァル同士として名勝負を繰り広げてきたふたりにとって、年齢のことを考えるともしかするとこれが現役選手としては最後の対戦となるかもしれない。そこで三ボール・一ストライクのカウントから投じられた気持ちのこもった直球がほんの僅かに外角に外れた。ここで事情はどうあれルールはルールだとフォアボールを宣告してしまう審判は無粋だというのである。多くの人はほんの僅かにしかボールがゾーンを外れていないのであれば、これを敢えてストライクと判定し、もう一球分だけ好敵手たちの真剣勝負の時間を延長させるべきであると考えるというのだ。ただし、このふたりの選手のためだけにルールの幅を広げることは、このふたりの選手以外の選手たちに対して公正公平ではなくなってしまうのではないか。そうなると、これはもうスポーツとはいえない。余暇を楽しむようなものではなく、見るものを楽しませる余興になる。つまり、エンターテインメントだ。プロ・スポーツの世界では、こうした不公正不公平も許容されるものであるのかもしれないが、そこにスポーツとしての奥深い美などは生じるはずもないしルールに反して勝負をしている選手たちはちっとも粋ではない。
スポーツの世界においては、日々発展するテクノロジーは決められたルールというものを厳密に徹底させてゆくために使われている。ヴィデオ・リプレイ、チャレンジ制度、AI採点。それらは試合やゲームを盛り上げる演出効果のために使われるものではない。人間がしている作業を補足するため(だけ)にそれは使われる。ストライク・ゾーンから少しでも外れていれば判定はボールだ。その判定を百分の一ミリ単位の精度まで徹底して正しいものに向上させてゆくために用いられるのがAIというものなのである。
ルールや正確な判定とは厳密には反するが、ゲームを面白くするためのジャッジを必要とするのであれば、そこには公正公平な審判もAIもいらない。人間がたなごころを加えたり加えなかったりすることで、よくわからないドラマのある展開が演出される。そんなエンターテインメントをスポーツの試合において楽しもうという気持ちが強いのであれば、雪深い田舎で生まれて苦労して資格を獲得した人情派の名物審判を積極的に起用するなどして、どこまでも人間臭い方を選択するようにしてゆけばよいだろう。それにまた、割り切れる計算でしか解を導き出せないAIに人間臭さを求めるのは、根本的に認識がずれきっているとしかいいようがない。
機械的に計算するAIが味も素っ気もない無粋なものであるならば、人間臭いものは臭ければ臭いほど粋ということになるのだろうか。いや、どこまでも冷徹なAIの方がまるで人間のように痩せ我慢をしている風にも思えて、変に人間臭いことをするAIよりも実は数段粋なのではないだろうか。人間がいっときのよかれという思いをもってするような粋な判定というのは、実はまったく粋ではない。記事の最後に出てくる南町奉行・大岡忠相による「大岡裁き」とは粋なのだろうか。あれもやはり、粋とは少し違う。基本的に、罪人は罪人であり、善人は善人であって、その部分の選別や裁定はAI以上に冷徹無比になされている。大岡越前もまた、ただあの時代のルールや規範に則って裁いだだけなのだ。ただ、伝統的な市中の習わしや階級制度、格差社会、体制に巣食う悪きしがらみや事なかれ主義などのさまざまな高い壁に阻まれてそれまであまり炙り出されることのなかった害悪や犯罪に対して、奉行という立場を最大限に利用して正義の手を突っ込んでいったところに、ただただ泣き寝入りするしかなかった平民たちは胸のすくような思いがして「大岡裁き」に対して拍手と喝采をおくったのである。大岡裁きは劇的なエンターテインメントなどではなく、AI並みに規範は規範として徹底させたところに風通しのよいジャッジ・裁定がなされたというだけのことなのである。そこにあまりにも人間臭い人情味が加味されていたとしたら、ちょっと粋ではないだろう。そこをやせ我慢してあくまでも白州の上での裁きという形式(ルール)の中におさめてみせてこそ、大岡忠相も粋なものとなるのである。
身体動作の間を重視したり、ひとつひとつの形の美しさを追求する。スポーツにそうした日本的な芸術感覚が取り込まれ、奥深い美の源泉として尊ばれ、内村や羽生というアスリート・アーティストを誕生させる。しかし、それはあまりにも日本的な独特の感覚で、そうした部分をスポーツにおける得点や評価のポイントとしては考えない国や民族も少なからずいるのではなかろうか。〈余暇の気晴らし〉の延長線上にあるスポーツをもっと気軽で合理的なものやドライでゲーム性の高いものと考える世界の人々は多いだろう。スポーツ・ゲームの勝敗は点取り合戦の結果でしかないと考える思考から、スポーツとは芸術寄りのものではなく徹底して計算可能なものであり、機械的に判定や採点をすることも可能であるということから人工知能=AIを導入する流れが発展してきたのではないだろうか。そういった判定や採点の方法を可能とする思想と、日本的な美的感覚からくる奥深い美を見つめたり粋や無粋を評価判断の基準とするスポーツ観とは、まったくそぐわぬものである。そういうごちゃごちゃした面倒臭いものを排したところに、国際基準の国際化たるAIによる判定や採点というものがあるのではないか。内村や羽生の奥深い演技を理解できない無粋さにこそ、スポーツで世界をひとつにできる可能性が胚胎している。日本人による日本人のためのスポーツは、インターナショナルなスポーツのひとつの方言でしかない。九鬼周造も粋などという日本人独特の感覚は、他の言語にそのまま翻訳することは不可能であるといっている。つまり、日本ならではのローカルな感覚なのである。粋や無粋といったものはAIによる計算可能域の外側にも広く広がっているものなのである。よって安易にスポーツの世界にそれをもちこむべきではない。そうした局所的な限界の果てにAIによるユニヴァーサル・ランゲージはある。

(2021.01)

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