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戻らない川

二〇一九一〇一二

それはまるで生きた心地がしない一日であった。超大型で猛烈な勢力をもつ台風十九号が関東地方を直撃したこの日、ずっと気の休まらない時間が続いていた。起きた頃にはもう強い雨が延々と降り続いているような状態で、昨日までの穏やかさとは全く異なる景色が窓の外にはあった。ザーッという音ともに大量の雨粒がザンザンと降り注いでいる。台風が近づいているというのにまだほとんど強い風は吹いておらず、ただただ雨粒がほぼ垂直に地面に勢いよく落下してきていた。
ひどい雨はそのまま降り続いた。このとき台風はまだ太平洋上のはるか南西にあった。ニュースでは三重県の伊勢や奈良のあたりで災害級の大雨になっていることが伝えられていた。その遠さゆえ、ただ雨が強いだけで風もほとんどないことから、このままこの近辺では何事も起こらず、台風は向きを変えて太平洋上を東へ東へと進んでいって関東にはちらっと接近するだけで逸れていってしまうのではないかと思ったりもしていた。前もって散々脅かすようなことをいっておきながら、蓋を開けてみたらそれほど大したことなかった、なんてことになればいいのになと思っていた。接近してくる大型の台風もそれが通り過ぎてみれば意外と大したことなかったというパターンは、内陸部のこの辺り(海なし県)では結構よくあることだった(前月の九月に関東に接近した台風十五号がまさにそれであった)。
午後になっても雨脚が弱まる気配は全くなかった。とりあえず台風に関する情報をできるだけ集めてみることにした。この十九号は一般的にいう雨台風なのではないかと思うようになってきたからである。まだ台風ははるか南西の太平洋上にあり、そこから暖かく湿った空気が関東地方に流れ込むことにより、北関東や秩父や箱根などの山間部の際のあたりで際限なく分厚い雨雲を発生させていることがわかった。山に降った雨はいくつもの細い渓流に流れ込み川に合流して平地へと流れ下ってくる。平地に降った雨も張り巡らされた排水溝に流れ込み大きな河川へと合流する。朝からの強い雨で、相当に河川の水位が上昇していることが予想された。インターネットで近くの入間川の小ヶ谷の水位を調べてみた。前の晩に雨が降り始めた頃に見てみたときには、まだゼロ点高あたりで通常の値であった。そこからもう十二時間近く雨は降り続いていた。思った通り、水位は時間とともにグングン上昇していたのである。そして、午後四時頃には氾濫危険水位をすんなりと越えてしまった。あまりにも呆気なく最大級の危険が間近に迫ってきていた。
まだまだ台風の本体ではなく、その前触れの猛烈な雨雲だけで、もう川が溢れそうになっている。小ヶ谷のライヴカメラ画像を見ていると、みるみるうちに濃い茶色に濁った川の水位は上昇し、土手のすぐ下のサイクリングロードの端に引かれた白線が先ほどまでは見えていたのに、あっという間に川の水の下になってしまっていた。さらに、ほかの地点のライヴカメラ画像を確認してみても、入間川の水位は明らかに最後の頼みである土手の真下にまで迫っていてぐんぐんと上昇しているように見受けられた。激しい雨はザーッという音を立ててひたすらに降り続いている。まだ風は吹いていない。だけど、川の水位は危険なところまで上がってきている。いつ氾濫してもおかしくはない。
特別ニュース番組で台風情報を延々と放送しているテレビ。そこで何か新しい速報が流れたりしないか、リモコンを握りしめてNHKと地域のケーブルテレビ局を交互にチェックして、来たるべき最悪のときの来襲に備えた。すでに近隣の地域には避難準備や避難勧告が出ているところもあった。すぐ隣の町の新河岸川沿いの地域もそこには含まれていた。いつ自分の住む町にも避難勧告や避難指示が出たとしてもおかしくはない。最新の情報を得ようとデータ放送なども逐一チェックして自治体からのアナウンスメントに目を光らせていた。だが、なかなかそこに自分の住む町の名が上ってくることはなかった。入間川が氾濫したという情報も入ってこない。低地になっている新河岸川の下流の方では内水氾濫の危険性が高まり避難指示が出ているということだった。雨は激しく降り続いている。まんじりともしない時間だけが流れていた。
夕方になり、いつ停電になってもおかしくはない状況にあったので、とりあえず早めに夕飯の準備を始めた。前日に作ったカレーに水と具とカレー粉で炒めた玉ねぎやルーの欠片などを投入して増量する。二日目のカレーはやはりよく煮込まれていてコクも増している。前日に入れた鶏モモ肉などはもうホロホロに崩れている。調理をしていると外の雨音もほとんど聞こえなくなり、もしかするとようやく分厚い雨雲が去ったのではないかと思ってしまったりしたのだが、調理を終えて窓の外を眺めると、やはりまだ強い雨は降り続いていた。そしてもう、外はかなり暗くなっていた。
早めにカレーで夕飯を済ませた頃、速報で台風十九号が伊豆半島に上陸したことが伝えられた。強い雨は一向に収まらず、川はまさに氾濫しそうになっていて、台風本体はどんどんこちらに近づいてきている。不安は増すばかりだったが、このまま台風が速度をあげて関東地方を横切るように通り過ぎていってしまえば、そのうちに雨脚も弱まって、川の氾濫の恐怖からも解放されるのではないかという思いが、チラチラと頭の片隅を過ぎるようになってきた。一日中降り続いていた強い雨だけで、かなりの精神的な疲労を蒙ってしまっていたのだろう。少しでも早く、今のこの状況から抜け出したい気分になっていた。
ただ、一日中ずっと居座っていた雨雲が、午後九時過ぎぐらいには近づいてくる台風の勢いに押し上げられるように北の方角へと抜けてゆくという天気予測はデータ放送などを見ていると実際にあった。そして、台風が伊豆に上陸したというニュースが流れてからしばらくすると、心なしか雨脚が弱まってきているようにも感じられたのである。入間川の水位も氾濫の危険があるレヴェルまで到達したまま相当な時間が経っていたが、まだ何の悪い知らせも飛び込んでこない。このまま何事も起きないのであれば、雨が降り止んだところでササッと風呂にでも入って、もしかすると夜は思いの外ゆっくり休むことができるのではないかと思い始めたりもしていた。すると午後九時ごろ、本当に雨の降り方は小康状態といえるぐらいに静かになってきた。台風の上陸から約二時間、おそらく時間的には最も台風の中心が接近していて、すぐ目の前を猛烈な台風が通り過ぎていた時間帯であったのだろうけれど。
外の雨音はかなり静かになってきていた。だが、いくら上陸して急激に速度を上げているとはいえ大型の台風が通り過ぎてしまうには、まだあまりにも時間的に尚早であった。それでも、このまま台風をやり過ごしてしまったらゆっくり風呂にでも入ろうかと思っていたので、もうすぐにでも風呂の準備を開始できるような状態で待ち続けていた。今後の雨はどうなるのかをNHKのデータ放送やケーブルテレビで確認してみた。すると、どうもこのまま台風の雨雲は勢いよく北東へ抜けていってしまうという予測であるようだった。雨量さえ落ち着いてくれば氾濫危険水位を越えている川の水もだんだんと引いてくるであろう。ようやく、ちょっとした安堵感が広まってきた。

だが、しばらくすると閉めた雨戸が微かにカタカタと鳴り始めた。風が出てきたようだ。パラパラパラパラと雨粒が雨戸に当たる音もする。そうこうしているうちに、一気に風は強まり雨戸に強く雨粒が叩きつけられるようになる。ずっと台風だというのに風がなく、軒下にまで吹き込んでくることもなくひたすらに上から下へと降り注いでいた雨が、もはや横殴り状態で吹き荒ぶ強風と一緒になってほぼ真横から降りかかってくるようになっていたのだ。風と雨が猛烈な勢いで激突してきて、築五十年の古い家は今にも吹き飛ばされそうになってガタガタと揺さぶられていた。紛れもない台風十九号の直撃を受ける時間帯が遂に訪れていたのである。
まず第一に最も気になったのが窓ガラスだった。ちょうど階段を上ったところに雨戸のない窓がある。ここのガラスが強風や飛散物で割れてしまうのではないかと台風十五号のときからちょっと心配になっていたのだ。おそらくこの一つの窓が破られるだけで台風時にはそこらじゅうが水浸しになることは容易に想像できた。多くのレコードや本が雨と風で被害に遭うだろう。ちょっと想像するだけで陰鬱な嫌な気分になってくる。
その前日、その窓から外を眺めた際に近所の家の窓を見たのだがとても驚かされた。何軒かの家の二階の窓ガラスの内側に養生テープが、まるで英国旗のユニオン・ジャック状に貼られていたのである。これまでの台風ではそういった対策をしている家はあまり見たことが無かったのであるが。テレビのニュース・ヴァラエティ番組などで養生テープを貼る台風対策が紹介されていた影響が、こんなにも早々と露骨に現れるものなのかとちょっとした衝撃を受けた。生憎、家に養生テープは無かった。もはや台風前日の夕方であったため、買いにゆくのも時すでに遅しと思われた。あたりを見渡すと棚の上に以前に買ったネット通販の荷物に一緒に入っていた気泡緩衝材が無造作に積み重ねられていた。これを取り出してきて、何枚かをガムテープでつなぎ合わせて窓ガラスをカヴァーできるくらいの大きさの気泡緩衝材のシートを作ってみた。そして、何かあったときには、これを窓ガラスに貼り付けて被害を防ぐことにした。ガムテープで貼り合わせた気泡緩衝材でどれほどの台風被害を防ぐことができるのか、甚だ疑問ではあったが。
台風十九号の本体の雨雲が接近し雨風が強まってくると、とても心配になってきて、階段の上の窓ガラスの様子を何度か見にいった。だが、関東地方を通過する台風の西側にあたるせいか、強い風は主に北や西の方角から吹き付けていて、東側に面している窓ガラスはさほど危険な状態にはないようだった。それゆえ、そこから窓の外の雨や風の状況をじっくりと見てみることができた。バラバラと落ちてくる大粒の雨粒が電信柱に取り付けられたLEDの街灯に照らされて大量に降り注いでいるのが見えた。雨に濡れた木々が強風に煽られて引きちぎれそうなくらいに撓んで大きく揺れていた。恐怖の感情を抱かせるような猛烈な雨と風だった。これは前日から天気予報で繰り返し言われていたことなのだが、まさに大荒れの天気となっていた。
台風の猛烈な雨風の真っ只中にあって、時折その猛烈さをさらに数倍に増幅させたような強い風が囂々たる音を立ててあたり一面を吹き渡り、古い家の外壁に凄まじい圧力をかけて激突しているのが感じられた。一日中ずっと強い雨が降り続き、その後に本格的な台風の嵐が吹き荒れている。もはやあらゆる意味での許容範囲を越えてしまっているように思われた。雨も風も激烈すぎた。それでもNHKのデータ放送やケーブルテレビ局を何度見返してみても氾濫危険水位をとうの昔に越えていた入間川が氾濫したという情報は、どこにも見当たらなかった。窓の外では何度か防災警報の放送が流れていたように思うが、雨と風の音がとてもひどく雨戸を閉め切った家の中からでは何を放送しているのかほとんど聞き取ることはできなかった。
NHKのデータ放送を見ていてギョッとさせられた。気象情報では、この地域に午後十時代は一気に六十ミリ以上の雨が降ると予測されていたのである。ついさっきまでは一時間に十ミリ前後の雨量の予測がでていたと思うのだが、台風の接近に伴って数字が大幅に跳ね上がっていた。予測では十一時台は三十ミリ程度の降雨となるということであった。まだまだ高い値ではあるが、六十ミリ以上という数字と比べればほぼ半分ほどに減る。これは、もうすぐ確実に雨は弱まってくるということだろうし、猛烈な暴風雨は今がまさにピークであることを示していた。あともうしばらくの辛抱だと思えば、少しは明るい気分にもなってきた。容赦無く吹き付ける強い風に古い家は揺さぶられて風圧で軋んでいたが、ついにいつもとは全く違う一日にも終わりが見えてきたのである。
本格的な台風の雨と風は約二時間ほど間断なく続いた。まさに生きた心地がしない時間であった。だが、午後十一時近くになって、いつの間にか外の物音がほとんどしなくなっていることに気づく。雨も風も先ほどまでの荒れ狂いぶりが嘘のように静かになってしまっている。まだ少し雨はパラパラと降り続いているのかもしれないが、家の中にいて猛烈な雨音が響いてこないだけでも気分的には非常に楽で、もはやほとんど止んだも同然であった。テレビで情報収集をしてみても台風が関東地方の北東へと通過して行っていることは明白であった。そして、氾濫危険水位域に到達している入間川もそのまま変わらずにずっと危険な状態のままに止まっていた。よりピンポイントで情報を得られないかと思い約半日ぶりにインターネットを見てみたが、河川の情報などはかなりつながりにくい状態になっていて、あまり明確にリアルタイムの情報を確認することはできなかった。ただ、台風関連のニュースや定点カメラの静止画像などを見てみる限りは、まだ入間川に関しては河川の氾濫などの大ごとには至っていない様子ではあった。だがしかし、実はこの時点でもうすでに重大な何かが起き始めていたのである。そのことに気がつくのは、まだ何時間も先のことであった。
雨と風が収まって家の中も外も静かになると、全く生きた心地のしなかった一日が嘘のように、いつもと変わらぬ夜となった。時間も遅かったので風呂に入るのは諦めたが、片付けをしたり軽く掃除をしたり明日の準備をしたりと日常生活そのものな時間が戻ってきていた。そして、テレビで着実に北関東から東北地方へと猛烈な雨と風の中心が移っていっている台風十九号の情報を追い続けた。先ほどまでの恐怖を感じるような大荒れの天候をまだ鮮明に覚えている状態であったために、これからあれを経験しなくてはならない多くの人々が不憫でありとても心配でならなかった。実際に多くの河川が氾濫危険水位に達していることが報じられていた。そして、近くの入間川もまだいつ氾濫してもおかしくはない状況であった。さらに、荒川上流の二瀬ダムが緊急放流を行うという情報もあり、まだまだ河川に関してはギリギリの予断を許さぬ段階にあったといっていい(荒川の水位が上昇することは、そこに合流する入間川の氾濫の危険度もさらにアップすることを意味していた。早くも午後三時か四時ごろの段階で氾濫危険水位に達していたのだから、荒川上流のダムの放流はそれすなわち入間川の大氾濫を予感させるに十分であった。だが、結局のところ台風が通過して雨風がぱったりと止んでしまったせいなのか緊急放流は回避された)。そのまま、インターネットで最新の情報を確認しつつ、いつものようにグダグダとあれやこれやをして、窓の外では遠くから時折緊急車両のサイレンの音が遠くから聞こえてきていたりしたが、午前四時過ぎごろにはやっと横になって眠りについた。台風十九号に関しては、もう特に問題はないだろうと自分に言い聞かせるようにして。

翌日。十時ごろに起床。外は眩しいくらいに晴れている。テレビの画面には一夜明けてようやく見えてきた悲惨な台風被害の映像が次々と映し出されていた(東日本大震災の時も翌日の朝になって初めて何が起きたのかがテレビの画面を通じて見えてきたことを思い出したりした)。関東から東北にかけて非常に多くの河川が氾濫し、広範囲にわたって甚大な浸水被害が起きていた。津波で浸水した東日本大震災や豪雨で鬼怒川が氾濫した時と同じように、家屋に取り残された被災者の救出が自衛隊のヘリコプターを使用して行われていた。二階の窓やベランダから助けを求める人々のもとへ隊員がロープで降下してゆき一人ずつ吊り上げてゆく。その様子をテレビの画面を通じてただ眺め続ける。そこら中が水浸しになり家の中も押し寄せた濁流によってめちゃくちゃになっている悲惨な被災地の住宅の有り様を見ながら、近くの川が早々と氾濫危険水位を越えていたにもかかわらず、翌朝にこうしていつもと変わらずに椅子に腰掛けてテレビを見ていられることに、ほっと安堵していたり、今回は(今回も、だろうか?)たまたま何も起こらなかっただけなのだと縮み上がるような思いがしていたりと、なんとも複雑な感覚にとらわれていた。今このときに水浸しの中にいるのが自分であったとしても何もおかしくはなかったのだと思うと、不思議な運命のあやのようなものさえ感じられた。本当にたまたま水難を逃れることができただけなのだ。
そんな時に、唐突に目に飛び込んできたのが上空からのキングス・ガーデンの映像であった。キングス・ガーデンは市内北部の大字下小坂にある特別養護老人ホームであり、前日の台風十九号の豪雨によって深刻な浸水被害を受けていた。テレビの画面にはキングス・ガーデンの赤い屋根が映り、その周辺は一面が茶色い泥水だらけであった。まるで大きな沼地に浮いているかのように老人ホームの周囲は水でいっぱいになり、容易に近づくことができないのか、ぐるぐると飛び回る空からの映像は孤立し陸の孤島となったキングス・ガーデンをひたすらに映し出していた。そういえば、空にはヘリコプターがいくつも飛んでいるのか、ずっとプロペラの回る音が聞こえている。即座に米国のトランプ大統領がわざわざ霞ヶ関にまでゴルフをしにきた日のことを思い出した。あの時と同じようにいつまでもいつまでもヘリコプターが飛び回る音が聞こえていた。
キングス・ガーデンのある下小坂までの距離はそう遠くはない。歩いて行けるくらいの距離だ。ほんの二〜三キロといったところであろうか。だが、入間川との距離という点では下小坂の方が圧倒的に近い。入間川の対岸の土手のすぐそばが下小坂となる。前日の午後の早い段階でもうすでに氾濫危険水位を越えていた入間川だけに、こうしたことが起きても何もおかしくはなかったのだろう。そう思ってはいたが、実際に大きな災害が起きていたのだということを目の当たりにするとやはりショックだった。それでもやっぱり川の水があふれたのが入間川のこちら側ではなく対岸であったことに、ちょっとほっと胸を撫で下ろすような部分もあったりした。川のどちらの岸であろうとずっと心配をしていた入間川があふれたことに何も変わりはないのだけれど。
報道番組で伝えられるヘリコプターからの映像で見てもキングス・ガーデンの一階部分は、ほぼ泥水に浸かってしまっているように見えた。多くの入所者の老人たちは施設の二階に避難して、そのまま取り残され孤立してしまったようだ。近くの浸水被害を受けていない場所からボートを出して被災した入所者の救出活動が開始されているという。深夜の災害で、さぞかし恐ろしい思いをしたことであろう。情報では堤防が決壊したのは越辺川であるようだ。映像で見る限り、そこら中が一面に渡って茶色い泥水で覆われていて、付近の全ての川の水が一気にあふれ出してひとつの大きな湖になってしまっているようにも思われた。
越辺川はキングス・ガーデンのある下小坂のあたりから少し下った落合橋の先で小畔川と合流し、そこからまた少し下った釘無橋の先で入間川と合流し、この越辺川と小畔川が流れ込んだ入間川はそのまたさらに先で荒川を合流することになる。よってキングス・ガーデンは、南から流れ上がってくる入間川と南西から流れてくる小畔川、そして北西から流れ下ってくる越辺川(上流部では都幾川と高麗川が越辺川と合流している)という三本の川が合流する地点に程近い場所に位置していることになる。どの川があふれても浸水被害に遭ってしまうような場所だといってよい。
ちょうど越辺川と小畔川に挟まれた位置にある下小坂は、越辺川の堤防を乗り越えた水がすぐに小畔川の堤防にまで達し、あたり一面が水に覆われるような状態となってしまったのだろう。早い時間から入間川が氾濫危険水位位を越えていたということは、そこに隣接する川の水位も同じように危険なレヴェルまで到達していたであろうことを意味している。越辺川の水は大量に激しい雨が降っていた十二日の午後十一時ごろにはもうすでにあふれ出していたらしい。そして、その後すぐに台風の雨風はおさまってきたのだが、川の水はさらに増えて真夜中過ぎに本格的な氾濫が引き起こされたようだ。上流で都幾川と高麗川から大量の水が流れ込み、合流する入間川の水位も限界まで上昇していて、越辺川の流れは行き場を失ってしまったのだろう。そして、大規模な氾濫が起こった(増水した都幾川は越辺川と合流する以前の上流部ですでに大規模な氾濫を起こしていたようだ)。

下小坂のあたりはよく散歩で歩いていた場所であった。入間川の雁見橋を渡り、小畔川を渡り、白髭神社の大ケヤキを堪能して、木製の鎌取橋を渡って、土手の上を落合橋まで歩き、入間川の対岸の土手を平塚橋まで戻ってくるような順路がお決まりのコースであった。小畔川を渡った先の古い馬頭観音のある曲がり角のところの煎餅屋、宮坂米菓のあたり一帯が大字下小坂であり、白髭神社の裏手の畑の奥に日蓮宗の永楽院やキングス・ガーデンがある。
そのすぐ近くの小畔川にかかる木製の小さな鎌取橋は欄干などが何もない沈下橋であり、雨で川が増水した際にも簡単には流されてしまわないような作りになっている。橋には横に何本もの木の板が敷かれており、増水した川の強い水流への抵抗を和らげるためか木と木の間にちょっとした隙間が空いているのが特徴である(もし橋の木の板が流されても、また同じように木の板を嵌め込むだけなので補修も簡単である)。よって、歩いて渡っても足の下で木と木が接触して立てるゴトゴトというやわらかな木の音がする。おそらく、かつての日本のどこにでもあった木橋はどれを渡っても足の下でこんなゴトゴトという音がしていたのではなかろうか。そうやって思わず遠い昔の日に思いを馳せたくなってしまうような橋なのだ。
実際、鎌取橋はいまだに沈下橋にしておかなくてはならないほど増水しやすい小畔川の両岸の高い土手に挟まれた谷間のような場所にあり、その最下部を普段は川幅二〜三メートルほどの細やかさを持って流れる川を跨ぐようにちょこんと架けられている。小畔川の土手の上から下に降りてきた鎌取橋のあたりからは、周りを見回しても近代的なものや文明的なものはほとんど目に入ってこない。川の水音がしていて、すり鉢状に土手があり、頭上は大きく空に向かって開けていて、夏場は川縁も土手も一面が青々と茂る草っ原となっている。そんな鎌取橋を渡っているときに見える都会性のかけらもない景色が、思わず過去にタイムスリップしてしまったかのような時代を越えた感慨に耽る瞬間を招き寄せるのかもしれない。

また、鎌取橋を渡っているときにふと思い出されるのが、かつて入間川の小ヶ谷と上戸の間に架かっていた橋のことである。これも木製のゴトゴトという音のする橋で、入間川が増水しても川の底に沈下して流されない作りとなっていた。ただし、鎌取橋とは比べもにならないほど長く、まだ入間川を渡る橋の数がそれほど多くはなかったせいか車の往来が激しい橋であった。だが、古くからあった橋であったためか、車がすれ違って通れるほどの橋の幅はなかったのである。交通整理をする信号などはなかったが橋を渡る車は相互に譲り合ってのどかに通行が行われていた。小ヶ谷の方面から来た車は土手を斜めに登ってゆく坂道を登り、土手の上まで出たところで対岸の車の状況を確認する。狭い木製の橋の上では車はすれ違えないので、どうしても車は譲り合って渡らなくてはならない。対岸の上戸方面には広い河川敷があり、もし渋滞していれば土手を降りてきた車はその河川敷の橋の手前のあたりで渡る順番待ちをして連なっている。小ヶ谷側は土手のすぐ下を川が流れているので、車が渡る順番待ちをするスペースはそれほどない。よって、まずは土手の上まで登り切ったところで、橋の混雑状況を目視で確認しなくてはならないのである。そして、無事に順番が来て渡り始めると、車の車輪の下で橋の木の板がゴトゴトゴトゴトと盛大な音を立てる。順番待ちをしている車もいるので速やかにササッと渡り切ってしまおうとするので、とてもリズミカルにゴトゴトゴトゴトと盛大な音がするようになる。
子供の頃、休みの日に広い上戸の河川敷にある運動場で遊ぶためによく車で連れて行ってもらっていた思い出がある。特に何か子供が遊ぶための施設があるわけではないので、ボールを持って行って散々投げたり蹴ったりしたり、運動場の中央の草地になっているフィールドを駆け回ったり転げ回ったり、そこらに落ちている段ボールの切れ端を拾ってきてそれを尻の下に敷いて何度も何度も青い草の茂った土手を滑り降りたりして素朴に楽しんだ。そんな思い切り遊びまわれた上戸の運動場への行き帰りに車であの木製の古い橋を渡ることもそこに遊びにゆく大きな楽しみのひとつだった。車が一台ずつしか渡れないような渡るたびにガタガタゴトゴトいう木でできた橋なんて、ほかにはもうほとんどなかったのである。ゆえに、橋を渡ることそのものが、もはやひとつのアトラクションのようなものであった。おそらく、江戸時代やもっと以前の時代の人々もあの上戸と小ヶ谷の間に架かる木の橋を農産物や日用品を積んだ荷車を押したり曳いたりして日々行き来していたのだろう。ガタガタゴトゴトとリズミカルに音を立てながら。
中学生の頃には、市内の陸上競技の大会が上戸の河川敷の運動場で行われていた覚えがある。広く平らな草地の河川敷に、ただただ無造作に四百メートルのトラックが整備されているだけの運動場である。もちろん、河川敷なので地面は土である。乾いた茶色い土のトラックで、強い風が吹くともうもうと土埃が舞い上がるような運動場であった。その頃(昭和六十年前後)まではまだ木製の古い橋は健在であった。しかし、それから少しして平成二年にすぐ脇に自動車で往来できる大きな川越橋が完成すると、あの橋の出る幕はなくなってしまったようだ。今はもう影も形もない。ただ小ヶ谷側の河岸に、そこに昔の橋があったことを思い出させる橋のたもとのあたりの痕跡が微かに残っているのみである。

上戸と小ヶ谷のあたりに架かる川越橋を過ぎると入間川は緩やかに折れて東に向かい、すぐに寺山のあたりでうねり今度は北向きに流れを変える。さらにその先の平塚を過ぎたあたりでまた急角度で折れ曲がり再び東に向かって流れ、その先ですでに小畔川と合流している越辺川と交わる。そして、その三つの川の流れをひとつにした入間川はゆったりと弧を描くように南の方角へと湾曲しながら流れ、その先の上江橋のあたりで南下する荒川と合流する。これらの川は、全て秩父山地から流れくだってきたもので、関東平野の真ん中をゆったりとうねりながら進み東京湾へと注ぎ込む。真っ平らなようで微妙に起伏のある平野は、川の流れをとても複雑で特色豊かなものにしている。
秩父山地の奥地から流れ出してきた荒川は、秩父盆地に流れ込み秩父山地東側の稜線に阻まれて寄居から熊谷方面へと回り込み、現在は大宮大地の西側を流れ下ってゆく。これに対して入間川や小畔川、越辺川は、秩父山地の東側の山並みを下ってきた無数の小さな沢が麓近くで寄り集まって川となった流れで、武蔵野の丘陵地の縁を一旦北東へと流れ、それを回り込むように南東に向かい、そのまま大宮台地の手前で荒川と合流して東京湾を目指す。これは数千年前からほぼ変わらぬ川の流れなのだろう。山地や丘陵地や台地を避けて、川は自らが流れ続けられる場所だけを探し出して流れ続けている。古くから現在の武蔵野台地や大宮台地を形成している関東ローム層の地形は存在しており、その中心を旧利根川が流れて浸食を重ね、丘陵地と低地の段差を作り今ある荒川の流れの原形を形作っていった。
また、約六千年年前の奥東京湾の海岸線は、現在の入間川と荒川の合流点や新河岸川に程近い小仙波貝塚あたりにあった。当時、武蔵野台地や大宮台地のあたりは青い海原を見下ろす小高い丘であったことになる。その後、数千年をかけて奥東京湾の海岸線はじわりじわりと南下してゆき、それに連動して利根川・荒川の流域も延び、現在の関東平野が形を表してきた。新河岸川も初雁球場の裏あたりが河口部であったのかもしれないが、今はもうそんな気配は微塵もない。秩父の山地から流れてきた川の水は、海水が干上がった平地を潤し、大雨や豪雨のたびに氾濫を繰り返しながら大量の土砂を運び込こんで肥沃な大地を生み出した。こうして、かつて海だった低地は、豊かな田園地帯へと変貌してゆくことになる。

散歩の際、入間川の雁見橋を渡り小畔川のとげ橋の方へ歩くことがよくあった。雁見橋を渡ると鯨井のあたりには一面の水田が広がっている。あのあたりも以前よりは確実に住宅の数が増えていて急速に宅地化が進んでいる。だが、まだまだ田んぼだらけの田舎であり、子供の頃からよく見て慣れ親しんできた風景が、川を一本隔てた土地に残っているということにちょっとホッとさせられたりもする。昔は田んぼだらけが当たり前であったのだが、気がつくと家の周りの田んぼや空き地はすっかり消えて無くなってしまっていた。見渡せば、真新しい家(東日本大震災以降は古い家の改築やリフォームも一気に進んだ)や集合住宅だらけだ。何百年も土地の人々に踏み固められてきた田んぼの中の細い畦道も、いつの間にか舗装されてちゃんとした生活道路となっている。
ただし、鯨井のあたりは東には入間川が流れ西には小畔川が流れるという川と川に挟まれた土地であり、大雨が降れば氾濫の危険もあり古くから人家はあまり建たずに主に水田として利用されてきた歴史があるのだろう。田んぼの近くには農家はほとんど居を構えていない。入間川の土手沿いに小さな集落はあるが。古く大きな農家は、少し土地の高くなった鯨井の南西部に位置する名細のあたりに集中している。あのあたりの八坂神社に古く立派な庚申塔があったと思う。おそらく大昔からあの周辺には広い水田を耕作する大きく豊かな農家の集落が存在したのであろう。
そんな鯨井の低地の水田地帯を抜けてさらに歩いてゆくと入間川にかかる平塚橋のたもとに広がる平塚集落の外れあたりに出る(天満宮の近くの信号のあたりだ)。そこから道を折れて小畔川のとげ橋の方向へ歩いてゆくと、田んぼの真ん中に一軒の家があるのが見えてくる。通り沿いのごく普通のお宅である。道からの短い取り付け道路があり駐車スペースと庭と住居がある。ただし、道路に面した正面以外は三方が田んぼに取り囲まれている。入間川と小畔川に挟まれた低地にある田んぼなので耕作が行なわれている地面は道路から見てもかなり低い。よって、田んぼの真ん中に建つその家も住居の部分だけ盛り土がしてある。だが、最初から河川の氾濫時の水位まで想定してあるのだろう。住居と庭のあたりは、道路側の取り付け道路や駐車スペースよりもさらに一段高い盛り土がしてあるのである。よって、歩いてゆくと田んぼの中に一軒だけヌッと一段高い土台をもつ家が立っているように見える。パッと見た感じは、高い石垣ならぬ高い土塁の上に建つ(規模は小さいが)城のように見えたりもする。城とまではいかなくとも、このあたりの大農家や有力者の屋敷は、こうした高い土塁のような盛り土の上に建ち、周りを水田や堀がわりの用水路に囲まれた作りになっていたのではなかろうか。度重なる水害から住居や財産を守ろうとするには、このあたりでは武蔵野台地の端っこの小高くなっている場所に住むかとにかく盛り土をして高い土台を築くしかなかったのであろう。まあ、あの道路沿いの家が古くからある家なのかはよくわからないのだけれど。
小畔川に架かるとげ橋を渡る以前からもうすでに下小坂に足を踏み入れてはいる。だが、気分的にはとげ橋を渡り小畔川の対岸に降りて、古い馬頭観音が道端にあるあたりこそが下小坂の入り口であるように感じる。馬頭観音のところで脇道に折れ、小畔川の土手沿いのゆったりと曲がりくねる道を進んでゆくと白髭神社が見えてくる。氾濫した川の水で孤立したキングス・ガーデンを空からとらえた映像でも時折チラチラと映り込んでいたのが、この白髭神社のトレードマークである二本の大ケヤキだ。樹齢六百年ともいわれるあの二本のケヤキは、これまでにも何度も下小坂が川の氾濫で水に浸かる光景を目の当たりにしてきたのだろう。そして、その間に下小坂の人々は何度も何度も白髭神社にお参りして洪水のない無事な一年が過ごせるように手を合わせてきたに違いない。今回の台風十九号の水害に関しては、人々の祈りが全く足りていなかったということなのだろうか。それとも、白髭神社にとっても想定外の莫大な雨量であったということなのか(入間川沿いの下小坂の白髭神社に祀られているのは千年以上前にこの地を治めていた高麗王若光である。今回は若光の力でさえも防ぎきれなかった水量であったのだろうか。おそらく若光の時代にも入間川や小畔川、越辺川の水との戦いは今と変わらずに存在していたと思われるのだけれど)。

入間川と小畔川と越辺川の三つの川の流れが集中しているあたりは下小阪の白髭神社を始め多くの神社や寺が存在している。白髭神社の先の小畔川にかかる鎌取橋を渡って対岸に降りると入間川の土手の手前に氷川神社がある。そして、その氷川神社があるあたりの入間川の対岸には福田の赤城神社と星行院がある。その少し先の落合橋のたもとには観音堂があり、そのまた少し先の釘無橋の先の入間川と越辺川の合流点近くには神明神社がある。入間川の上流方向に目を転じると平塚橋のたもとには寺山側の此岸に西光院があり彼岸の平塚には天満宮がある。もうひとつ遡った雁見橋のたもとには寺山側に観蔵院と八咫神社があり対岸の鯨井には春日神社がある。もうひとつ上流の川越橋のたもとには上戸側に時宗の古刹である常楽寺があり小ヶ谷側には昔の木造の橋を渡る際に使われていた道の土手の真下あたりに古い稲荷神社がある。その先の初雁橋のたもとの霞ヶ関側は開発が進みニュータウン的な宅地や学校施設が立ち並んでいるがかろうじて牛塚古墳がのこされている。一方、此岸の小ヶ谷側には白山神社、小室氷川神社、最明寺、善長寺、白髭神社など多くの寺社が点在している。これらの寺社の位置関係は川の両岸から川を見守り水の通り道を正常なものにサポートするゲートとなっているようにも見える。そうした寺社による門が人の往来のある橋のたもとの集落ごとに上流から下流へと並んでいるのだ。また、それぞれの川沿いの集落には古くからの共同墓地があったりして、そこに小さな観音堂や六地蔵、馬頭観音などが整然と並んでいたりする。土手沿いの道を歩いているとポツンと立っている地蔵や小さな石の祠が目に入る。上戸の土手のすぐ下にある夜泣き地蔵はその中でもよく知られている地蔵のひとつだ。古くから子供の夜泣きに悩む母親が地蔵を拝みに訪れていたという。小ヶ谷の方から多くの母親たちが小さな子供を負ぶってあの木製の橋をゴトゴトと音を立てて渡っていたのであろう。
剥き出しの大自然である川の流れがあり、その周辺に多くの神社や寺があって神や仏が人々の生活の一部に溶け込んで存在している。川があり水が豊富な地域であるから、農業が発展し多くの田畑で作物が耕作されていたことであろう。それを思えば、このあたりに住む人々はことあるごとにお参りをして豊作を祈っていたに違いない。大雨による水害で田畑に植えた作物が流されたりしないように雨の多い季節には毎日祈っていたのではなかろうか。それでも大雨のたびに川は氾濫したのだろう。ゆえに、人々はもっともっと熱心に神や仏に無事に収穫の日が迎えられるよう祈りを捧げるようになっていったのではなかろうか。川の水が暴れ回ることのないように多くの供物を捧げて。だが、どんなに頻繁に祈っても大雨が降れば立ち所に水害は起こった。川からあふれた水は田畑を覆い、低い土地の家屋も容赦無く押し流してしまったはずだ。毎年のように氾濫した川の水で命を落とす人も後をたたなかったはずである。そんな多くの不幸にも被災してしまった人々を弔うためにあちこちに寺ができ、集落の小さな共同墓地に死者が葬られた。豊かな川の流れがあり、その周辺に多くの祈りと供養の場が生まれた。ここで人間が川と共に生きるためには、ひしめき合うように存在する神社や寺をはじめとする多くの祈りと供養のための場が必要とされたということなのであろう。そして、そうした祈りと供養の場とともに流れる川は、今も昔とちっとも変わらずにそこに流れ続けている。

昭和の終わりの頃、入間川に架かる関越自動車道の橋のちょっと上流のあたりの河岸段丘の上の雑木林の中で、明らかに人間の手によって作られたものと思われる構造物を見かけたことがある。それは見るからに人が中に入れるような大きさの居住用の構造物であった。屋根の部分は木の葉や木の枝で覆われれているようで、全体に黒っぽく茶色い。だがそれはテントでも掘立小屋でもなく、どちらかというと歴史の教科書で見た古代の竪穴式住居に形状としては非常に近い何かであった。屋根の部分は低く、一メートル五〇センチぐらいの高さしかなかった。内部は少し地面が掘り下げられていて空間が確保されているのだろう。ただ、そこに誰か人がいるような気配があったというか、誰かがそこで実際に生活している居住スペースであるような感じが強くして、むやみやたらに足を踏み入れてはいけないような気がしてきて、すぐにその場を離れてしまった。そのために後になってから、あれは一体なんだったのだろうと、いろいろ考えてしまう羽目になった。そして、考えれば考えるほどに誰かの居住空間であったとしか思えなくなってくるのだった。普通に目に見えている社会とは異なった社会が実はすぐそばに存在していて、もしかしたらその一端をあの場所で垣間見てしまったのではなかろうか。そんな気がしていた。いろいろと調べてゆくうちに、あの場所にああいうものがあったとしても決しておかしくはないのだと思えるようになってゆくようになる。八八年七月号の『フールズ・メイト』に掲載されていた「日本奇人変人伝」で三角寛とサンカのことが取り上げられていて、これを読んだことが大きかった。そして、直感的にあれとこれが繋がった。あの入間川の河原にあった人工的な構造物はサンカという幻の漂泊民と何かしらの関係があるに違いないと。
関越自動車道が通る橋の少しばかり下流には初雁橋がある。この橋の小ヶ谷側のたもと近くには白山神社がある。関東の白山神社というとやはり浅草の弾左衛門(矢野弾左衛門)と少なからず関連性があると考えて間違いないのだろう。江戸時代、弾左衛門は関八州をはじめ東国の広い地域に生活する穢多・非人とよばれる低い身分の被差別民を一手に束ねて代々これを統括する頭領であった。そして、この弾左衛門が白山を信仰し浅草新町に白山神社を祀っていたために、これに影響されて(もしくは頭領からの命令でか)関東・東国の被差別民たちは自らの集落にも白山神社を祀るようになったという。小ヶ谷の白山神社もおそらくはこの地に身を寄せ合っていた被差別民たちが建立したものであるのではなかろうか。入間川は入間郡と高麗郡の境界を流れる川であり、いずれの郡にとっても一番の端っこである川の周辺部や河原というのは非人身分にあたる河原者たちが流れ込みやすい場所であったはずだ。水害が頻繁に起こる川の近くは、一般の人々にとってはあまり居住に適さない土地であっただろうから。そうした狭間の場所にあえて被差別民たちは住み着き集落を形成し白山神社を祀ったのであろう。
また、境界を流れる川の河原や人々が境界を越えて往来する橋のたもとなどには市(市場)が立つことも多かった。そこで近くの集落の民が品物を並べて商いをしていた。すると、そこには季節ごとに山中や川縁を移動して巡っている非定住型の漂泊民たちも自然に交じり合うようになる。例えば、橋のたもとで市が開かれる期間になると河原に小屋を作って生活し、狩猟で採取したものや工芸品を市に出品し、その市の期間が終わるとまた別の場所に移動してゆくという形で。こうした漂泊の民は穢多・非人と同じく被差別民ではあったが弾左衛門のような頭領という存在によって明確に統括されてはおらず、定住を嫌いセブリバとよばれる河原のポイントを転々と移動する神出鬼没でミステリアスな幻の民として集落の人々と関わっていた。そして、このような漂泊する人々のことは各地で様々な名で呼び習わされていたようだ。そのうちのひとつがサンカという呼び名である。ただ、こうした人々の存在が大きくクローズアップされるようになったのは比較的最近のことである。

日本の社会の暗部に深く潜り込み、独自の不可視・不可触な生活形態を営む謎の民、サンカ。これを日の当たるところに引きずり出してきたのが、元新聞記者の小説家、三角寛(一九〇三〜一九七一)であった。三角がサンカの生活を題材としたセンセーショナルな大衆小説を発表し、エログロナンセンスな刺激に飢えた巷を席巻していたころ(昭和初期)、実はもうその幻の民は半ば絶滅へと近づきつつあったのである。漂泊する無籍者を近代国家は放置しておくわけにはゆかなかった。全ての国民には納税などの果たさねばならない義務があったから。そのため戸籍の整備とは国家の最重要課題のひとつであった。明治新政府の樹立以降、江戸時代には穢多・非人という身分外の身分におかれ河原者や漂泊民として長い年月を生き凌いできた人々もまた一つ所に定住させられ国民・平民に取り込んでゆくという政策が進められていた。元々、幻の民ではあったが、サンカの人々は毎年決まった時期に河原や橋の下、神社の軒下などのセブリバに現れ、近隣の住民から頼まれる竹細工の修理などの作業が終わるとまたどこか次の集落へと移動していってしまうというだけで、一般人の暮らす社会と全く接点がないというわけではなかった。しかし、社会の近代化が進み、漂泊する無籍者が減少してくるに従って、その存在はミステリアスな度合いを増し、様々な憶測や下世話な好奇の対象にもなっていったところがある。三角の書くサンカ小説が読者の中に植え付けることになったのが、漂泊民のもつ裏の顔、各地を転々と移動して凶悪事件を引き起こしている犯罪者集団というイメージであった。凶悪事件を起こすような犯罪者が、こうした漂泊の集団や被差別部落に身を隠すことは往々にしてあったことであろうが、サンカとよばれる人々が古くから犯罪を生業としてきた全国的な集団であったとはあまり考えにくい。生きてゆくためには無法なこともにも少なからず手を染めなくてはならない人々ではあるのだろうが、一般の社会に対しては決して大きな禍いをもたらさなかったからこそ昭和の時代まで細々と生き延びてこられたのではないだろうか。そういう意味で、三角が創作して描き出したサンカの姿には様々な無理がある。サンカ小説の内容は当時の大衆受けを大いに意識した眉唾物の代物であるといえよう。
だが、三角が朝日新聞の記者時代から熱心にサンカの姿を追い各地を駆け回って取材していたことだけは確かである。それは基本的にはゴシップ記事や犯罪小説のためのネタ集めであったのかもしれない。それでも、最末期のサンカの人々のセブリバを巡った貴重な実地調査であり民俗学的なフィールドワークでもあった。戦後、三角は膨大な調査データや収集した資料をまとめて論文「サンカ社会の研究」を著し、東洋大学から文学博士の学位を授与されている。しかし、その論文の内容を精査する審査教授会においては、サンカという民の存在に懐疑的な教授陣から様々な疑問や質問が寄せられたという。そこで三角は口であれこれ説明するよりも実際に見てもらう方が早いということで、東洋大学文学部の教授を本物のサンカのセブリバに案内してみせたのである。長年にわたり調査を行なってきたセブリバには荒川上流の秩父や荒川支流の都幾川なども含まれていたが、このときは川越近郊の河原を訪れたようだ。荒川の支流、入間川の河原をセブリバとするサンカを紹介したのだろう。
そして、三角に誘われてセブリバを見学したものの中には東洋大学の斎藤教授のほかに朝日新聞の記者も含まれていたようで、三角たちがセブリバで箕作りをするサンカ集団の頭(クボタツか?)から直に話を聞いている様子が写真に収められている。これは決定的な一枚である。そこに実在しているサンカの民という動かぬ証拠(漂泊民なので本当は動き続けているのだが)を突きつけられて、東洋大学の審査教授会も速やかに三角の論文を受理せざるをえなくなったという。おそらく、その写真撮影の現場は初雁橋の周辺かそこから少し上流にいったところだったのではなかろうか。ちなみに、東洋大学の川越キャンパスが開設されたのは、三角と斎藤教授がセブリバの見学にいった昭和三十七年の前年のことであった。川越キャンパスは鯨井にあり、サンカのセブリバがあった入間川の河原までは数キロしかなく、実はほんの目と鼻の先であったのである。これには何か妙な因縁めいたものすら感じる。そして、三角が馴染みのセブリバを案内したあたりは、謎めいた住居らしきものを見つけたあの河岸段丘の上の雑木林とかなり近い場所でもあったと考えられる。
サンカは入間川の流域にも間違いなくいたようだ。実際に三角はあのあたりの河原を歩き回りサンカの実態を調べ尽くしていたのである。秩父山地から荒川の支流域をテリトリーとし漂泊生活を続けていたクボタツを頭とするサンカの集団は、昭和四十年ごろまで存在していたことが確認されている。あの雑木林に不思議な人工物を見つけたのは昭和の終わり頃であったので、それがかつてのサンカのセブリバであったとしてもセブリの場として使われなくなってからすでに長い年月が経っていたことになる。しかし、河岸段丘の上の雑木林の奥という比較的人目につきにくい場所にあったためか、長きに渡り比較的に状態がそのままに保たれていたのかもしれない。そんな絶好の隠れ家となるようなセブリバの跡地(遺構)を、後にふらりとやってきた世捨て人や浮浪者がカスタマイズして再利用し(続け)ていたとしても決しておかしくはないだろう。長らくサンカの人々が恒常的に寝泊りしていた場所だ。居心地は思っている以上に悪くはないはずである。段丘の下の川で魚を捕まえて食したり、ゆったりと世間との繋がりを絶って人が暮らすには、あまり苦労のない場所だったのではなかろうか。
初雁橋の上流の小ヶ谷側の一帯は、今では屋外レジャープールやテニスコートなどを完備した水上公園となっている。土手の内側の河原のあたりも遊歩道を歩いてぐるっと一周できるような公園に整備されている。それは入間川沿いのそこそこ広いスペースで、遊歩道は元々河原にあった木立の中を縫うように歩き回れるような設えだ。土手の上から河原に鬱蒼と茂っている木々を眺めていると、かつてはこの木立のあたりにセブリバがあったのだろうなと想像することもできる。だが、土手を降りて整備された遊歩道を歩いてみるとあまりにも公園らしさにあふれすぎていてサンカのイメージとはちょっと結びつかない。
水上公園が開業したのは昭和六十三年のことであった。昭和の最後の夏のことである。高校時代に授業をさぼって関越自動車道の橋のあたりの河原まで自転車でゆき、河川敷の石に腰掛けて陽光にキラキラ光る入間川の流れを眺めながら何時間も無駄話をして一日を無為に過ごしていたのも昭和の終わり頃のことであった。もしかすると、あの頃がかつてセブリバのあった河原が昔と変わらぬ形で面影を残して存在していた本当にギリギリ最後の時代であったのかもしれない。入間川の河原なんて、いつまでも変わらずにそこにあり続けるものだとばかり思っていたが、そうではなかったようだ。
関越自動車道を挟んで水上公園よりもさらに少しだけ入間川の上流部にあった河岸段丘の上の雑木林も、護岸の整備のためかすっかり伐採されてしまって土が剥き出しになり段丘そのものも低く削られしまっているように見える。あの謎めいた構造物があったあたりは、すっかり跡形もなくなくなってしまっている。グーグルアースで確認してみると、あの流域では今もまだ河川の整備の作業が続いているのか、均された剥き出しの茶色い土の上に何台かの重機が見える。流木なのか伐採した雑木林の木なのかよくわからないが、所々に横倒しになった丸太がゴロゴロとまとめられている場所もある。人の手を加えられて自然は破壊され、かつてセブリバがあった痕跡は何一つとして残されていない。逆にいえば、かつてそこにサンカの民のセブリバがあったという痕跡を完全に抹消してしまうかのように、土手の外の水上公園だけでなく内側の河川敷まですっかりきれいに公園化して整備してしまったようにも見える。
なぜ昔ながらの姿の河原は消えてなくなってしまったのか。セブリバとしても使用されるほどに静かで広々とした美しく心地のよい河原だったのに。サンカのセブリバであったことが河原そのものの価値を押し下げてしまっていたということなのか。だから、その負のイメージを払拭するために水上公園の開設や小綺麗な公園化が必要だったのだろうか。白山神社を祀っていた被差別民。いつも薄汚い身なりで野山や河原を歩き回り漂泊生活を送っていたサンカ。そうした旧来からの日本の社会から排除されてきたアウトサイダーたちが里と山の境界や社会の周縁に人知れずこびりつくように生きてきた痕跡は、ほとんどが昭和の終わり頃には一旦リセットされてその後すっかりきれいにリニューアルされてしまったようだ。
近代社会は汚れや穢れを許容しない。穢多や非人を階級社会から排除した封建社会も極めて差別的であったが、目に見えないより強固な差別意識や異を認めぬ徹底した排除の論理に貫かれている現代の社会の方が実は差別の心性の根は広く深く拡大しているようにも思える。また、サンカの民のルーツは朝鮮半島から渡来した白丁であるという説もある。白丁とは元々は各地を回って技芸を披露して生業とする旅芸人の集団、傀儡子のことであった。こうした漂泊の民は古くから中国大陸や朝鮮半島にもいた。そして、その血脈はシルクロードを辿ってインドやヨーロッパのジプシーにも通ずるという。あまり身なりに気を使わずに立ち止まらず移動生活をすることを生きる上での第一義としていたジプシーや旅芸人・傀儡子・白丁たちは得体の知れない謎めいた集団であったために定住民たちからは常に卑賎視される存在であった。後に朝鮮半島では白丁は最下層民に位置づけられるまでに賎民化が進行してゆくことになる。七世紀半ば、朝鮮半島は唐の後ろ盾を得た新羅によって統一される。唐と新羅の連合軍により攻め滅ぼされて滅亡した高句麗や百済(白村江の戦いで滅亡)からは多くの遺民が海を渡って日本にまで逃げ延びてきたという。その渡来人の中には白丁も含まれていて、それが日本においても傀儡子として漂泊生活をし後にサンカと呼ばれる賎民の集団へと変転していったともいう。
入間川の西側に高麗郡が設立されたのは八世紀初頭のこと。ここに滅亡した高句麗から逃げてきた数千人規模の遺民が高麗王若光のもと入植したという。とすると、入間川の河原をセブリバとしていたサンカの集団(クボタツのグループを含む)は、このときの渡来人の(白丁の)末裔である可能性もなきにしもあらずだったのではなかろうか。クボタツたちは荒川の支流域を広く漂泊していたと思われるので、入間川だけでなく越辺川や都幾川、その上流の高麗川あたりにもセブリバをいくつも持っていたに違いない。若光を祀った高麗神社のすぐ近くを高麗川は流れている。そう考えてゆくと、クボタツがテリトリーとしていた漂泊の地のほとんどがかつての高麗郡の範囲と一致しているのである。そういった部分もサンカのルーツが渡来した白丁であるという説を裏付けているようで興味深い。だが、クボタツが旅芸人であったという話はどこにも見当たらない。川の近くの農家のための箕作りや箕直しを主な生業としていたものと思われるが、荒川や入間川を下って大宮や川越などの町の近くまでやって来ていたようであるから竹細工や川魚の行商を行うだけでなく門付けなどの芸能にも通じていた可能性もなきにしもあらずだ(古代の大陸や半島から渡ってきた白丁・傀儡子の技が伝承された珍しい芸能をそこでは見れたということだろうか)。
そして、朝日新聞に掲載された三角と東洋大学教授が連れ立って川越近郊のクボタツのセブリバを訪れて直接に質問などをしている際に撮られた写真について、ここに写っているサンカは本物のサンカではなく三角がどこかから連れてきた役者の一団に巧妙にクボタツのグループを演じさせて撮ったものだという批判が寄せられたもした。幻の漂泊の民を取材した写真などは、実際のところほとんどの人々がもうサンカなど見たこともなかったのだから、三角が案内したセブリバの写真がにわかには信じがたいものであったことは確かだったのであろう。河原に敷いたゴザのような敷物の上に姿勢良く座り箕作りをしているいかにも熟練の職人らしい佇まいの老翁がサンカであるといわれても、いまいちピンとこなかったのかもしれない。大衆にとってのサンカのイメージは闇の凶悪犯罪集団であったから。また、当時の三角はといえば池袋の映画館、人世坐の経営者としても知られていた。それゆえに映画関係の仕事の伝手でいくらでもそれらしき役者をかき集めて偽のサンカ集団を作り上げ写真撮影を行うことが可能であったと思われていたとしても仕方がなかったのではなかろうか。だが、その後に行われた写真の疑惑を検証する追跡調査などを経て、新聞に掲載された写真に映るクボタツのグループは、実際にあの入間川のあたりをセブリバとして漂泊生活を送っていたクボタツたち本人であることが確認されている。しかしながら、もしかすると件の写真が役者による偽サンカであるかもしれないという疑念を抱かれてしまったのは、クボタツたちの中に流れる白丁や傀儡子といった芸能民・河原乞食の血筋からくるエッセンシャルな部分が、新聞記者の構える写真機を前にしていつになく身構えたことで思わず全面に表れ出てしまい少々芝居臭さを漂わせるにいたってしまったということであったりもするのかもしれない。

雨の多い季節が訪れるとたびたび氾濫していた川の周辺部は、古くからあまり一般の人々は寄り付かないような場所であったのではなかろうか。そこに家を建てても、何か事が起きたときには簡単に大水に全てを流されてしまうから。時として、家だけでなく命までなくしてしまうこともあっただろう。よって、川の周辺の土地には点々としか集落ができなかった。川が氾濫しても比較的無事だったような少しだけ土地が高くなっている場所を選んで人々は家を建てて住みついたはずだから。すぐに水に浸かってしまうような低い土地の一部は、主に水田や畑として利用されていたのだろう。だが、残りのほとんどの部分は耕作にも適さない無主地の草っ原として河原や土手の周りに放ったらかしにされていたのではなかろうか。だからこそ、そうした無主地に被差別民が住み着いたり、橋がかかり人々が行き交うようになると交易のための市が立ったり、河原は漂泊民にセブリバとして利用されたりした。
しかし、そうした川の周辺部の草っ原は基本的には水害時に意図的に氾濫した水をそこに逃す遊水地としての役割を担う場として普段は敢えて放ったらかしにされていたのではなかろうか。現在の川島町のあたりはかつては巨大な遊水地として使われていたという。東を流れる荒川と西を流れる越辺川、南には越辺川が合流した入間川が流れ、川島町の南東で入間川と荒川が合流する。三方を川に囲まれ、それぞれが合流している。大雨が降りつつけば川の合流地点の流れは滞り、どこで川が氾濫してもおかしくはない状態となる。よって、この川に囲まれた土地は水害時にあふれた川の水を計画的に逃す場所として使われるようになっていった。これは荒川の下流域に広がる田園地帯(そして、その先の江戸の街)を洪水から守るために計画されたものでもあったのだろう。こうして遊水地として利用された土地が、いつも真っ先に洪水被害を被ることとなった。だが、水がその土地だけに逃げるという保証は何一つとしてない。おそらく、洪水時には越辺川と入間川の合流地点に程近い下小坂や平塚のあたりにも多大な被害が出たであろうし、いくつもの支流との合流を繰り返す越辺川の上流域にも少なからず影響が出ただろう。しかし、そうした何本もの川と平らな低地が入り組んだ地形や度重なる自然の猛威の脅威を前にして、起こるべくして起こる災害を逆に利用しようとしたものがいたことも間違いないところなのではなかろうか。農家は洪水のたびに上流から新たに運ばれてくる土を農地を肥やすことに利用したであろうし、頻繁に水に浸かる低湿地はヨシ(葦)の生育地としても利用されていただろう(入間川の流れのすぐ南に位置する芳野地区は、元々はヨシの茂る野であったのだろう)。
そして、そのようなすぐに水に浸かってしまう土地のもつマイナスな特性を、逆にメリットとして活用し最大限に利用していたのが約六百年前に出現した戦国の世の城であった。一四五七年、扇谷上杉氏の武将、太田道真・道灌父子によって川越城は築城されている。武蔵野の台地の北東の端っこに城は位置し、古代には奥東京湾の波打ち際であったあたりに面している。台地の縁は河岸段丘状の段差となっていて、その下を新河岸川(赤間川)が流れている。そして、そのさらに外側を入間川が流れ、芳野地区のあたりで荒川と合流する。つまり、城を大きくぐるりと取り囲むように内と外に川が流れていることになる。築城時、城は享徳の乱を引き起こした古河公方=足利成氏の勢力に対峙する関東管領=上杉家を中心とする勢力の最前線要害であった。武蔵野台地の縁を曲がりくねって流れる川を城の堀として利用してしまうという、自然に形成された地形の特徴を最大限に活かした戦国時代を代表する知将・太田道灌(一四三二〜一四八六)らしい実に冴えた築城術をそこに見てとることができる。
二十八年にわたり続いた享徳の乱が泥沼化してゆく中で山内上杉家の重要ポストをめぐって騒動が巻き起こり、これが長尾景春の乱へと発展する、その後いつ果てるとも知らず続いた戦乱は和睦という形でようやく収束するが、三年後には多くの合戦において武功のあった太田道灌が主君の扇谷上杉家当主によって謀殺され、再びきな臭い匂いがあたりに立ち込めはじめる。そして、その翌年には山内上杉家と扇谷上杉家による一族内部での抗争となった長享の乱が起きている。だが、そんな血で血を洗う骨肉の争いをしているうちに、伊豆・相模の地からは北条早雲を祖とする後北条氏が猛烈な勢いで攻め上がり始めていた。
早雲の遺志を継いだ北条氏綱は、扇谷上杉家が守っていた江戸城や岩槻城を次々と攻め落とし、十三年に及ぶ攻防の果てに扇谷上杉家当主の急死の隙をついて川越城を奪取する。この時から川越城は扇谷上杉家の拠点ではなく北条氏の武蔵国統一の拠点となってゆく。だが、その四年後には今度は氏綱が急死し、後継の氏康が駿河の今川家との合戦に注力している隙に、扇谷上杉家は長年にわたり半目しあってきた山内上杉家や古河公方と手を結び北条方への反撃を開始する。
山内と扇谷の上杉家と古河公方の連合軍となる大軍に取り囲まれながらも、川越城は落ちずに半年も持ち堪えつづけた。そして、一五四六年五月十九日、思わぬ長期戦に戦意が下がり規律が緩んだ包囲軍の隙をついて北条氏康の軍勢が城に夜襲をかける(北条方の数は上杉の軍勢の約一割程度であったといわれている)。夜の闇に紛れて襲いかかってくる敵軍を前に包囲軍は総崩れとなり、散り散りに敗走を始めた。逃げる上杉軍と追う北条。新河岸川にかかる橋(東明寺橋)の手前、東明寺の周辺あたりが、この夜戦における最大の激戦地になったといわれている。上州へ敗走する上杉勢が間違いなく通るであろう新河岸川の流れの中でも最も北に位置する橋のたもとの寺に氏康は前もって兵を配置していたのだろう。川を越えるために橋に殺到し大混乱に陥っている上杉の軍勢を北条の武者たちが片っ端から討ちとっていった。こうして川越城を守り切り旧来の勢力をことごとく退けた北条氏は、武蔵の支配を盤石なものとし戦国大名としてさらなる勢力拡大を目指してゆくことになる。
その北条氏の戦国大名化の過程で常に重要な局面における中心的な舞台となっていたのが川越城であった。この間に川越城が落城したのは城主の急死の隙をついた北条氏綱に攻められたときのみであった。まさに難攻不落の城であったのだ。太田道灌が知恵を絞って築いた城だけに、平城ではあったが素人がそう簡単に手を出せるような城ではなかったようだ。幾重にも川に囲まれ、それを渡るためには必ず橋を使わなくてはならず、それなしでは城に近づくことすらできないというのは、城攻めをする側にとっては大きな障碍となっていたのだろう。
武蔵国を統一し、甲斐の武田・駿河の今川との間で三国同盟を締結した北条家にとって、当面の脅威となっていたのは、越後から山を越えて攻め込んでくる上杉謙信のみであった。もはや半ば有名無実化していたとはいえ幕府から任官された関東管領の職を引き継いだ謙信にとって、北条氏との抗争はひとつの職務であり任務でもあった。松山城を通って北の方角から攻めてくる上杉勢に対して、北条氏康が川越城の北面の守りとして利用したのが、あの入間川の北側の広大な遊水地であったのではあるまいか。洪水のたびに出現するなかなか水の引かない広大な湿地は、敵の軍勢を足止めし城に一歩たりとも近づけさせぬ巨大な堀としての機能ももっていたと考えられる。雨の多い時期に頻繁に起きる水害は、川越城の防御には欠かせぬものあり、難攻不落の城として知られるこの城の守りに大きく寄与していたのであろう。
入間川の北側だけでなく新河岸川の北側にも広い低湿地があった。度重なる洪水のせいか東明寺橋から氷川神社の裏あたりまでは、複雑に流れる何本もの細い支流の川がいたるところで新河岸川に合流していた。そして、その川の北側の土地は江戸時代になっても長らく無主地の郷分とされていたようである。これは水害時には広く水に浸かることがあらかじめ想定されていたがゆえの耕作利用などが放棄された土地であったのであろう。この浸水エリアを城としては、雨の季節がくる度に出現する天然の堀という形で防御用に活用していた。
城の東側は、ひとたび荒川が氾濫でもしようものなら広大な水田地帯が見渡す限り水に浸かってしまったことであろう。蓮池門の下を流れる新河岸川もあふれれば荒川から出た水と一緒になって一面が海のようになってしまっていたかもしれない。それは古代の奥東京湾が武蔵野の台地の縁まで迫っていた景色と同じものであり、見ようによっては川越城は海の上にぽっかりと浮かんでいるように見えたかもしれない。
城のすぐ南側には、よな川が流れていた。本丸や富士見櫓があるあたりのすぐ南側、急な河岸段丘のすぐ下をよな川は流れていたと思われる。現在は道路の下に暗渠化されているが、今も変わらずによな川の流れは、そこにある。昔も川の流れそのものはあまり大きくはなかった。しかし、段丘の下はよな川の流れに沿って広い湿地が形成されていた。当時、このあたりは七ツ釜と呼ばれていた。段丘の下の低地に七ヶ所も水がこんこんと湧いている場所があり、広大な沼地を形作り、その水はよな川の流れと一緒になって新河岸川に注いでいた。沼には葦が生茂り、七ツ釜に突き出した陸地には稲荷神社があった。周囲からは広大な沼地の真ん中に島のように浮いている神社に見えたので、これを浮島稲荷神社という。湿った低地の真ん中にこんもりと盛り上がった湿り気がなくズブズブしていない安全な領域は、古くから神聖な祈りの場所であったのではなかろうか。この稲荷神社の裏あたりが現在でも一番低くなっており(その大半は埋め立てられてしっかりと盛り土され、現在では大きなマンションが立ち並んでいる)、七ツ釜の時代も最も深い沼地となっていたのではなかろうか。古い伝説によると、この底なしの深みのあたりに沼の主であるヤナという化け物が住んでいたという。そして、この沼のある南側から敵軍が城に攻めかかろうとすると、沼地からヤナが出現し敵兵がどんなに多勢であろうとも蹴散らしてしまったという。これは、やな川の流れと広大な低湿地が堀のような防御の役割を果たし、外敵を城に全く近づけなかったという話が、無敵の化け物を交えた説話へと変化していったものなのではなかろうか。その伝説によると、ヤナが住む湿地帯に流れる川だからやな川と呼ばれるようになったともいう。
また、川越城の七不思議にも七ツ釜のあたりは度々登場しており、それらの言い伝えにもなかなかに興味深いものがある。七不思議には底なしの沼地の七ツ釜に沈んで犠牲になった人が、なんと三人もいる。まずは、築城時に沼地を埋め立てて土塁を築く難関工事の成功のための人身御供として七ツ釜に自ら身を投げた太田道真(一四一一〜一四八八)の娘、世禰姫。よな川の名は、この世禰(よね)という姫の名からきているともいわれる。次は、城に出仕する若い侍と夫婦になったが身分違いを理由に郷に返され悲嘆のうちに川に身を投げてしまった農家に生まれ育った美しい娘、およね。このおよねが入水した川ということで人々がよな川と呼ぶようになったともいう。また、よな川というのは漢字では遊女川と書く。七ツ釜の南、喜多院の門前は古くから街道沿いに発展した遊郭・傾城町であった。この両者の近い位置関係を考慮すると、身分違いの結婚に行き詰まり気を病んで入水したのは実は遊女であったのではなかろうか(喜多院の門前にて宿を営む湯女/遊女)。侍に離縁され郷に帰ることもできなかったおよねは行くあてもなくいつしか門前で生きてゆくようになっていたのかもしれない。そして、さらに三人目が、敵に攻められ落城寸前に乳母とともに逃げ出したものの七ツ釜のあたりで泥濘に足をとられ、そのまま沼地に飲み込まれてしまった姫である。このとき姫は周囲に生える葦の葉を掴んでなんとか陸地に這い上がろうとしたが葦の葉は掴むたびに千切れてしまった。これ以降、七ツ釜の深みのあたりは片方の葉しか生い茂らない葦ばかりとなったという片葉の葦の伝説が浮島稲荷神社にはある。川越城はあまり落城していないので、この説話に登場するのは扇谷上杉家の姫のことなのであろう。
おそらく葦の生い茂る底なしの沼の主であるヤナとは、こうした七ツ釜に飲み込まれて現世に対する深い悔恨や怨恨をもって亡くなった人々の成仏しない魂が言い伝えられてゆくうちに怪物化したものなのではなかろうか。その無念な思いのただならぬほどの強さゆえにヤナは、いかなる攻撃をも跳ね除けてしまうのである。この城に敵を近づけないヤナの伝説は、どこか川越城の七不思議のうちのひとつである霧吹きの井戸と似通っているようにも思われる。この井戸については、また後ほど詳しくふれることにする。
前述した通り七ツ釜の南には喜多院がある。喜多院またの名を無量寿寺は、八三〇年に円仁(慈覚大師、七九四〜八六四)によって建立された。武蔵野台地の北東の端、川越城のある張り出した丘陵のひとつ南側の張り出しの上に喜多院はある。この丘陵の張り出しと張り出しの間の谷にあるのが七ツ釜である。また、喜多院は仙波貝塚にもほど近く、太古の時代から海や川に面した台地の上には人の暮らしがあったと思われる。このあたり一帯は仙波古墳群の一部であり、ちょうど古墳の密集地に寺院が作られている。古墳の上に多宝塔を建てたりお堂を作ったりと、そのミステリアスで自然に信仰の対象となるような場所の特徴を最大限に利用して喜多院の伽藍は生み出されている(ただし大寺院としての整備がなされたのは十六世紀末に天海(一五三六?〜一六四三)が住職となってからのことであり、主として江戸開府以降だと考えられる)。
また、円仁が喜多院を建立した頃には、入間川を隔てた西側の対岸の土地には朝鮮半島から戦火を逃れて亡命した渡来人の入植地である高麗郡がすでに(一〇〇年以上も前に)設置されていた。おそらく、高麗郡の周辺一帯は渡来人によって大陸や半島からもたらされた新しく高度な技術や知識が集まり人々の間に広まってゆく場となっていたのではないだろうか。円仁が喜多院を高麗郡の近くに建立したのもそうし技術や知識に親しむためであったのかもしれない。喜多院を築いた八年後に円仁は仏の道を極めるために長年の憧れであった唐に渡っている。渡来人から大陸や半島の情報を得るなど渡唐のための下準備を進める際に喜多院は大変に重要な意味をもつ場となっていたのではなかろうか。実際、唐での円仁の生活や修行活動のサポートを行なっていたのは朝鮮半島の新羅から唐に渡ってきた移住民たちであったという。

喜多院の南東には、三変稲荷神社古墳がある。武蔵野台地の端の畑の真ん中にポツンと築かれた四世紀(古墳時代前期)の方墳の上に、小さな稲荷神社が祀られている。三変稲荷神社古墳の少し先は台地の縁となっていて、段丘の急斜面が待ち受けている。仙波貝塚もこの斜面を下ってきた坂の下にあるが、三変稲荷神社古墳のちょうど東側の段丘の下にあるのは龍池弁財天である。ここは大昔から台地の端の斜面の真下からこんこんと湧き出す泉があり、縦長の(竜の形の双子の)池ができていたようだ。池の水は、すぐ近くを流れる新河岸川に細い水路を通って注いでいる。龍池のある段丘の斜面の下よりも、さらに下の低いところを川は流れている。新河岸川から台地の上の三変稲荷神社古墳のあたりまでは、かなりの高低差がある。おそらく二十〜三十メートルぐらいはあるのではないか。奥東京湾が新河岸川の流れあたりまで入り組んでいた時代には、三変稲荷神社古墳のある台地の上からは遥か遠くまで見渡すことができたのではなかろうか。そうした見晴らしのよい気持ちのいい場所だからこそ四世紀ごろの人々もそこに古墳を築くことを思い立ったのであろう。
そして、そのまま新河岸川の流れを南下してゆくと愛宕神社古墳がある。この七世紀に作られた古墳は武蔵野台地の縁の際にあり、古墳の真横は段丘の斜面で、斜面の下には豊富に湧水があるのだろう、付近にはいくつもの池が点在している。また、その池の一部は親水公園のように整備されており仙波河岸史跡公園となっている。その名の通り、これらの池はすぐ近くを流れる新河岸川のかつての流れの痕跡でもある。つまり、新河岸川は愛宕神社古墳の脇の段丘の真下を大きく蛇行するように流れていた時代もあったということであり、さらに古くは奥東京湾の波が台地の縁に打ち寄せて急な断崖が生まれたのだとも考えられる。
古墳は六メートルの高さがあり、その上に愛宕神社がある。おそらく江戸時代に江戸の愛宕神社を模して社殿や急な石段を古墳に付け足してしまったのであろう。新河岸川の周辺も河岸としての大変な賑わいをみせ、その近くに江戸の愛宕神社にそっくりな神社があれば「これぞ小江戸の醍醐味」とわざわざ詣でにくる人々も多くいたはずである。河岸のある段丘の下から長い階段を上り相当な高低差を体験することは江戸時代にはひとつのアトラクションでもあっただろうし、古墳の天辺の愛宕神社からの眺めも格別に爽快なものであったに違いない。
そして、愛宕神社古墳の南には、新河岸川を少しばかり下っていったあたりに不老川との合流地点がある。多摩地区から武蔵野台地の上を流れてきた不老川と入間川から枝分かれし台地の縁を回り込むように流れてきた新河岸川が、ついにここでひとつになる。このふたつの川が合流する岸町や砂地区のあたりは丘陵地の下の最も低い土地にあたり、大雨のたびに洪水の危険性にさらされている。氾濫警報や避難準備情報が真っ先に出される地域のひとつでもある。古くから新河岸川や不老川はこのあたりで氾濫を起こしていたのであろうし、大きな水害が起こればしばらくはあちこち水浸しであっただろう。点在する池や水路は、その名残だとも考えられる。城の南、約三キロの地点。氾濫を起こしやすい川が流れる低地もまた、いざとなればあたり一面の低湿地と化して敵軍の侵入を防ぐ外堀の役割を十二分に果たしたであろうことは疑いの余地がない。
城の西側には古くからの城下町が広がっている。だが、城下町としての発展をみせていたのは武蔵野台地の上だけであり、その台地の丘陵部の下には新河岸川(赤間川)が台地の縁に沿うように南から北へと流れていて、この川を一本越えるとすぐに町の外であった。水害の被害から町を守るために最初から人々は少しでも高い土地を選択したということか(古墳時代、人々は安全な台地の上に古墳を築いている)。台風十九号の際、真っ先に避難指示が出されていた石原町に小高い塚の上に築かれた愛宕八坂神社がある。これも川が氾濫した際に社が水に浸からないようにする配慮で塚が築かれているのかと思われたりもする。だが、元々この神社は同じ石原町の新河岸川沿いに建つ観音寺の境内にあった愛宕大権現を移したものなのである。観音寺の境内の隅には今も小高い塚のようなものだけが残されている。あれがかつての愛宕大権現の痕跡なのであろう。ということはつまり、この神社は愛宕山の上に鎮座する愛宕神社のミニアチュールとして創建されたものとして考えた方がよさそうである。愛宕神社ということは、水にまつわる治水関係の神ではなく防火の神ということになる。度重なる大火で大きな被害をだしていた城下町の安全を祈願する場として、愛宕大権現は城下から橋(高澤橋)を一本隔ててすぐのところに祀られていたのであろう。
新河岸川の東側の岸には、一部かなりの高低差のある急な河岸段丘を見ることができる。野田神社の裏あたりは川を挟んで台地と低地がはっきりと区切られた地形となっている。かつては丘陵地の下は一面が水田だらけで大雨の際には川の氾濫で広範囲に水に浸かってしまうことが多かったはずだ。今も段丘の下には川があり、そこここに細い用水路が走っていたりする。しかし、台地の上にはそういったものはほとんど見られない。野田のあたりから少し新河岸川を上流に遡ると、尚美学園大学の脇を抜けてゆく川の流れの南側に河岸段丘の上り坂があり、その上には山王塚古墳がある。山王塚古墳は七世紀後半に築かれた日本最大級の上円下方墳である。奈良の明日香村にある有名な石舞台古墳は七世紀前半に作られたもので、現在は石舞台状の石室しか残っていないが元々の形状は上円下方墳であったといわれている。そこに埋葬されていたのは飛鳥時代に政治の実権を握っていた蘇我馬子だとする説が有力である(小林秀雄『蘇我馬子の墓』)。ただ、それほどの有力者の墳墓であったとされる石舞台古墳の推定される往時の大きさよりも、それをさらに上回るほどのスケールで築かれていたのが山王塚古墳であったようだ。山王塚古墳の埋葬者が誰であるのかは、いまだ解明されてはいない。だが、あの蘇我馬子と肩を並べ、いやもしかするとそれを上回るほどの強大な力を誇った豪族が、太古の昔に新河岸川沿いの河岸段丘の上にいたのかと思うとちょっぴり不思議な気分になる。今では山王塚古墳なんてほとんど誰にも知られていないが、かつては逆に知らぬ人がいないほどの巨大な墳墓で、誰もが仰ぎ見るような古墳であったのかもしれない。
六世紀中葉に築かれた愛宕神社古墳と道路を隔ててそのすぐ近くで対になっているように築かれた浅間神社古墳、そして巨大な山王塚古墳といずれも武蔵野の台地の縁近くのとても見晴らしのよい場所にある。台地で最初から少し高くなっている土地に、その上さらに高さのある墳墓を築くのは、相当な労働力と技術を必要とする大事業であっただろう。入間川の対岸に高麗郡が設置されるのは八世紀初頭のこと。それより前の古墳時代にも朝鮮半島から渡来した人々によってもたらされた最新の土木の技術などが武蔵野の台地にも伝わっていたということなのだろうか。ただ、そうした渡来人によってもたらされた最新の技術を用いることのできるほどの力のあるものでなくしては、仙波古墳群や南大塚古墳群にあるような規模の大きな古墳を築くことはできなかったであろう。そして、この山地が近くまで迫り台地と低地が複雑に入り組む土地が、古来より高度な治水の技術を必要としていたであろうことを考えれば、高麗郡の設置以前から多くの渡来人が武蔵野の台地を舞台に様々な活躍を繰り広げていたであろうことは疑うべくもないのではなかろうか。

高校時代、山王塚古墳はとても身近な存在であった。いや、あまりにも身近なところにありすぎて逆に全く気にも留めないくらいだったという方が正しい。毎日、通学に入間川街道を使っていたため、自転車ですぐ近くをひっきりなしに行き来していたのである。当時、もうすでに山王塚古墳は誰かにいわれないと古墳だと気付かないような古墳であった。自転車通学ですぐそばを通っていた感覚としては、道路のすぐ脇に何の変哲もない平凡な畑があり、その少し奥まったところにちょっとこんもりとした林があるぐらいのイメージであった。古墳は古墳らしくそこにあるのではなく、毎日何気なく見る日常的な平凡な景色の中に完全に溶け込んでしまっていたのである。そんな高校生の頃に古墳を見にいったのは、多分一度か二度ぐらいだったのではないかと思う。学校帰りにはよく古墳の近くの野田二丁目の文字焼屋に入り浸ってグダグダしていたが、そこにいく途中に遊び半分で立ち寄ったぐらいではなかったか。あんなにも毎日だらだら過ごして暇を持て余していたのだから、もうちょっと古墳に時間を割いてもよかったではないかと思うが、なかなかそうはならなかった。歴史や古いものにとても興味があったのだけど、放課後は文字焼の方が優先されてしまっていたのである。今から思うとせっかく山王塚古墳をじっくりと観察するチャンスがたんまりとあったのだから、もったいないことをしてしまったという気持ちしかない。
また、学校の近くには別の古墳もあった。菅原神社東古墳という古墳の上に神社を作ってしまったからこそ残ったといえるような、実にこじんまりとした古墳である。こちらの古墳にはよく通っていた。小さなこんもりとした古墳の上に菅原神社の社がある。横は西福寺の大きな墓地であり反対側は細い路地があるだけ。神社の裏には鬱蒼と茂る林があり、社殿の脇から古墳らしい面影を残す木立の方へ入っていってしまえば周囲からは人目につきにくく、ひっそりと授業をサボるのにはぴったりの場所であった。もっと学校に近い関越自動車道のすぐ脇のただ単に古墳と呼ばれていた鬱蒼とした雑木林も授業をサボる際によく使っていた(今から思うとそこは河岸段丘の坂道のちょうど上であり、まさに台地の縁にある古墳であった)。かつてのセブリバであったと思われる入間川の河原や廃線になった西武安比奈線の鉄橋など授業をサボるために使われたスポットは他にもあったが、なぜかよく古墳はチョイスされた。基本的に古墳は静かで人気もほとんどなく、昔ながらの武蔵野の雑木林のまま時が止まったように取り残されている空間であったのが逆によかったのだ。
古墳は妙に落ち着く場所でもあった。授業をサボってウダウダと過ごすにはもってこいの場所だった。それに新河岸川近くの武蔵野台地の縁のあたりは、そこら中が古墳だらけであったということもある。学校は武蔵野の丘陵地から下ってきた坂の下にあり、校内から抜け出して誰からも見つかりにくい場所に行くとしたら自然と台地の縁のあちこちに築かれていた古墳に足が向いていたのであろう。古代の人が土地の有力者の墳墓を築くのにちょうどよい場所として選びに選び抜いた選択の感覚に近いものを、長い年月を経てもなお人間というものは変わらずになんとなく居心地の良い場所や落ち着く場所として薄らとでも共感することができていて無意識のうちに選び出してしてしまっていたということだろうか。それでなくとも古墳のある場所というのは、なんともいえない不思議な魔力というか深い土地的・風土的な因縁が漂っているような気がしてならない。古墳の上や神社の裏など罰があたりそうな場所でばかり授業をサボっていたような気もするが、当時は取り立てて怒られることもなかったし誰かに見つかることもなかった(見つかっていないと思っていたのは自分たちだけであったのかもしれないが)ので、なんとか見逃してもらえていたのかもしれない。だが、その後も特に何も起こらない非常にパッとしない人生となっていることを思うと、もしかするともう十分にあのころの罰は当たっているということであるのかもしれない。

通っていた高校の校舎のすぐ裏を流れていた新河岸川は、河岸段丘の段差を挟んで自転車通学で使っていた入間川街道とともに北東へと向かい、城下町のある台地の縁を北へと流れ上ってゆく。そして、その流れが最も北に到達する地点が、河越夜戦のあった東明寺の付近の東明寺橋から道灌橋・多谷橋にかけてのあたりである。東明寺橋のあたりで流れは東へと折れ曲がり、道灌橋から多谷橋のあたりを頂点に流れは急激にカーヴして南東へと向かう。道灌橋とは、その付近にかつて太田道灌が屋敷を構えていたことに因んだ名前である。川越城を築城した太田道灌は、城下にその居所をもっていた。城は太田一族が仕える扇谷上杉家のものであって、道真と道灌の親子はそれぞれ別々に城下に屋敷を構えたのである。時宗の古刹、東明寺の裏の一帯は広大な道灌の屋敷の敷地であったといわれている。城の北側、湾曲した川の流れに西から北から東までをぐるっと取り囲まれて武蔵野台地の端に突き出すように位置していた太田道灌の屋敷は、城の外側で北から侵攻してくる敵軍に睨みをきかせた一種の要塞であり後の真田丸のような川越城の出丸として道灌によって戦略的に築かれたものであったのではなかろうか。
そして、その道灌屋敷の対岸は長らく無主の土地のままであったようだ。川越城が築かれたころには、曲がりくねった新河岸川とそこに流れこむ小さな支流が入り組んだ広い葦原や湿地と水田が入り混じる土地であったのだろう。その後、江戸時代になってもその新河岸川の北側は付近に住む人々によって管理される郷分とされていて長らく無主地のままであったようである。このあたりは新河岸川が南から北そして北から南へと台地の縁に沿って急激に折れ曲がるように方角を変えて流れている地点で、昔から大雨のたびに川から水があふれ出す洪水の多発地帯であったのではないか。川の水はぐねぐねと曲がりくねって勢いを増しちょうど道灌橋のあたりで勢い余って台地側ではなく低湿地や葦原が広がる川の北側の岸へあふれ出る。それは太田道灌の屋敷の対岸であり、江戸時代には郷分とされていたあたりだ。すぐに洪水で水浸しになってしまうので、誰も住みつくことはなく葦が生い茂るだけの無主の土地だったのではないか。そして、そんな誰も住まない厄介な土地だからこそ道灌は城の守りを堅固にするために有効に利用したのであろう。大雨で川が氾濫すれば城の北の守りである道灌の屋敷の目の前は水浸しになってしまう。葦原である低湿地はさらにズブズブのぬかるみとなり、川は広い堀のようになって、もし敵が北方から来襲したとしても城はおろか道灌の屋敷という出丸にさえ容易に近づくことはできなくなってしまう。

川越城の七不思議のひとつに霧吹きの井戸というものがある。その名の通り、霧を吹く井戸である。霧吹きの井戸は城内にあり、普段は蓋をされている。しかし、一旦その蓋を取ると中からもうもうと霧が吹き出してきてあたり一面が真っ白になり全く視界がきかなくなってしまうという。よって、これを敵の軍勢が襲来した際に使うと、霧吹きの井戸から立ち込めた霧によってあたり一面は真っ白になりどこに城があるのかもわからなくなってしまう。敵兵に攻撃の的を絞ることができなくなり右往左往しているところを不意をつかれて返り討ちにあい撃退される。こうして城攻めをされても城外で全てを食い止めることができたをいうわけだ。そして、この霧吹きの井戸の絶大なる効果によって川越城は霧隠城という異名ももっていた。山岳地にある山城でもないのに霧隠城などと呼ばれるのは非常に珍しいことである。ただ、この城の立地や地形からくる環境を考えれば、城と城下町の周りはぐるりと取り囲むように流れる新河岸川や低湿地・葦原が連なっていて非常に水や水場の多い土地となっており、朝晩の寒暖差などで濃霧の発生しやすい場所であったことは間違いないところであろう。ゆえに普段から霧隠城という渾名で呼ばれることもしばしばであったのではなかろうか。
現在、霧吹きの井戸は本丸御殿の近くの市立博物館の前の植え込みの中にある。だが、以前は少し違う場所にあった。道路の改装工事によって移動を余儀なくされてしまったのだ。博物館の脇にある城の二ノ丸の門であった蓮池門の跡、そこから現在は道路が真っ直ぐに下っていって新河岸川を渡る橋につながっている。この蓮池門と新河岸川の間に霧吹きの井戸はあった。つまり、今では道路の下に埋められてしまっているのである。これではもうどんなに霧を吹き出させようとしてもその蓋を取ることはできない。かつては二ノ丸の蓮池門を出た道は、すぐにほぼ直角に折れ曲がり防御のためのクランク状の坂道となって堀の役割をなす新河岸川まで下っていた。そして、その先には新河岸川の流れに沿った南北に細長い帯曲輪があり、その先の堀もまた新河岸川の流れを利用したものであった(帯曲輪は江戸時代に松平伊豆守信綱によって増設されたものなので、太田道灌の築城から戦国の世にかけては蓮池門の下の新河岸川こそが堀の代わりであり霧吹きの井戸の場所も外敵と対峙する最前線近くにあったことになる)。現在、この帯曲輪のあたりはちょうど国道二五四号線となっている。そういう意味では、帯曲輪を挟んで新河岸川は二手に別れて流れていたことになり、この川面から霧が立ち上っている際には、あたかも蓮池門の外側にある井戸から霧が吹き出しているように見えたのかもしれない。また、この新河岸川が大雨で氾濫した時などには、敵の軍勢は二ノ丸の蓮池門はおろか土塁を張り巡らした帯曲輪にさえ近づくことはできなかったのだろう。
ただ、霧吹きの井戸が城がすっぽり隠れてしまうほどの霧を発生させたという話にはにわかには信じがたいものがある。だが、この井戸の伝説には、すぐ近くの七ツ釜に棲む怪物ヤナの説話と妙に共通するものがあるように思えて、自然と興味はそこに向かってゆく。ヤナも城の南側の堀の役割を担っているよな川付近の葦原の沼地に普段は潜んでいて、敵兵が来襲した際には恐るべき力でこれを蹴散らし撃退してしまう。しかし、このときのヤナの敵の撃退法が、奇妙なまでに霧吹きの井戸のそれと似通っているのである。ヤナの出現とともにもうもうと濃い霧があたり一面に立ち込めて空には黒い雲がわき強い風が吹き出すと荒れ狂った暴風雨が襲い掛かってきて城がどこにあるのかすら見えなくなり遂にはよな川と七ツ釜から水があふれて大洪水が起きる。そんな七ツ釜に潜む怪物の怨念めいた不思議な力によって、城の南側から攻め上がってきた敵の軍勢はかつて田郭のあったあたり(おそらく現在ひまわり東幼稚園があるあたりの住宅街)にさえ寄り付くことはできなかった。だが、そんなに都合よく城を防衛してくれる怪物が実際に葦原の深いぬかるみの底に何百年も生き続けていたとはあまり考えられない。
では、なぜこうした井戸や怪物にまつわる伝説や説話が生まれたのだろうか。おそらく、それらがもたらす効果に近い威力をもつものを川越城が防御策として実際に保持し戦略的に活用することができていたからではなかろうか。城と町をぐるりと取り囲むように流れ、かつまた堀の役割も担っている新河岸川は、太田道灌も最初から大いに城の守りのために利用できるものと考えていたのだろう。つまり、流れる川をどこかで(例えば、城の近くのよな川と合流するたりで)堰き止めてしまい(擬似洪水で)水をあふれさせ堀を通常時の何倍もの幅に拡張することで、敵兵の襲撃が城に直接及ばないようにしたのではないか。自然災害である洪水は、敵が攻めてくるたびにタイミングよく何度も起こるとは限らない(戦略的防御策を生み出す最初のきっかけというのは、城の周辺があたり一面水に浸かる自然災害であったのかもしれないが)。それならば、洪水そのものを城の防御のために人工的に引き起こしてしまえばよいだけの話である。川の水を堰き止めたとしても洪水になって水があふれ出るのは城の外側の水田地帯のみである。城と町は武蔵野台地の河岸段丘の上にあるため、元々の地形的に新河岸川の洪水の被害には遭わない。敵は水浸しになった泥濘の低地を前にして兵を引くしかなくなるだろう。堰き止めた新河岸川が大規模に氾濫すると、城は武蔵野台地ごと広大な水面の上に浮かんでいるように見えた。急に冷え込んだ朝晩には川からあふれた水から霧が発生して低湿地の葦原の奥に何があるのか全く見えなくなってしまったかもしれない。こうした堀と一体化して自在に幅を増幅させる川や葦原となった低湿地の底なしのぬかるみがもつ秘めた城を防御する力が、いつしかそれが稀にしか現れないものであることから不思議な井戸や恐ろしい怪物というものに姿形を変えて語り継がれてゆくことになったのかもしれない。

地形によって形作られた弧を描くような湾曲をもっていたことで新河岸川の流れは、堀として活用され城を守ることには大いに役立ったのかもしれない。だが、河岸段丘の下の低く平らな土地に住む主に農民たちにとっては、そうしたは活用法は大きな災禍をもたらすものでもあった。城がどうのこうのや平和な治世よりも稲の生育の方が農民にとっては常に重大事であっただろうから。そして、そのような毎年が水との戦いであった往時の農家の生活を思うとき、今も新河岸川や入間川の流域に住む人々の生活は本質的にはさして変化していないことに思い当たらざるをえない。今回の台風十九号によって引き起こされた各地の洪水被害を見て、あらためてそんな思いが強くなった。
古代の人々も、台地の上の安全性を日々の生活の中で得た経験と知識から身をもって知っていたからこそ、その上の見晴らしのよい場所に古墳を築いたのであろう。古墳のある場所というのは、ほとんど水害に遭わず、地盤がしっかりしていて地震にも比較的強い。それゆえに古墳は千年以上が経過した今も変わらずにそこにしっかりと存在し続けている。だが、台地の上では水を得ることはままならない。よって、生活するのは台地の下の川の流れの近くになる。
新河岸川に架かる東明寺橋のたもとに神明神社がある。この神社の御神体は、長さ一メートルあまりの石の棒であるという。これは縄文時代に祭祀などの宗教儀式に使われていた石棒なのだろう。石棒は男根を模した形状の大きく長い石の棒であるというので、そのまま後の時代にも殖産に関する宗教的な意味をもち御神体として祀られることとなったとしても何の違和感もない。おそらく縄文人は、川縁や志多町側の段丘のあたりで暮らしていたのではなかろうか。奥東京湾に近い位置にあった仙波貝塚のあたりから見ると、ここは少し上流にさかのぼった場所である。川で飲み水を確保でき、台地の上に広がる森林では木の実を拾ったり小動物を捕まえたりすることができただろう。狩猟採集民にとっては、とても生活しやすい場所だったのではなかろうか。
仲町の通りから少し奥まったところに鴉山稲荷神社がある。蓮馨寺の北側、妙養寺の門前、行伝寺の南側に位置する神社である。この鴉山稲荷神社の付近には、かつて鬱蒼と茂る巨木の林があったと伝えられている。ある日、川越城を築いた太田道真が櫓の上から西の方角を眺めると、高い木が生い茂る一帯があり眺望を邪魔している。そこで城(富士見櫓)から富士山をはっきりと見るために、巨木の林の木々が伐採された(現在も鴉山稲荷神社の境内には直径二メートル近くはありそうな大木の切り株が残っている)。その際に巨木の林の中で古い石の祠が発見されたことから、太田父子によってここに神社が建立されたという。おそらく巨木の林の奥は古代から祈りや儀式の場であったのではなかろうか。高い大きな木がある種の霊性や聖性を帯びていることを、大昔の人々も感じ取っていたのだろう。
また、鴉山稲荷神社の社は一段高い場所に建っている。これはこの付近に六つあった塚の中でも最も大きかったものの上に社殿が建てられたことを意味する(新河岸川の河岸段丘の上には六塚稲荷神社が二つある。元町二丁目と六軒町。これらの稲荷神社も森にあった六つの塚と何らかの関係があるはずだ。新河岸川の対岸にある観音寺の境内にある前述した塚ももしかすると六つの塚のうちのひとつであるのかもしれない。後は、養寿院の脇にも塚らしきものがある。これは河越太郎重頼の墓となっている。また、養寿院の東隣、長喜院の脇には雪塚稲荷神社がある。この養寿院と長喜院にはともに白山神社が祀られていることも何か関連性を匂わせる。さらに、蓮馨寺や栄林寺、妙養寺などにもそれらしきものがないわけではない。だが、近代の商業地や宅地の開発にともなって古くからの城下町も市街地化が急速に進み、もはや六つの塚の痕跡を全て辿れなくなってしまっている可能性は極めて高い)。そして、この大きな塚(親塚)の周辺には多数の烏が生息していて、この塚が在郷の人々から烏山と呼ばれていたことから神社の名もそう名づけられた。
太古から人々が入り込んでいた森(縄文時代の狩猟採集民たちも食糧を求めて木々の間を歩き回っていただろう)の中にある塚は、その当時の人々の墳墓であった可能性もある。その塚の中でも最大規模のものであった烏山は、当時の地域の一番の有力者を弔った場所であったのだろうし、森の中でも際立って巨木が密集している最も神聖視される場所を選んで塚が築かれたのではなかろうか。鴉山稲荷神社の境内には今も大きな木があるし、社の後ろにも雷にでも打たれたのか根元の部分の幹だけになったかつての巨木が御神木のように祀られている。あのあたりは城下町においても一番の中心地で蓮馨寺、養寿院、行伝寺、妙養寺などの古くからの大きな寺院が密集していたことから、その寺院の境内やその近辺に太古からの林の姿がほぼ手付かずのまま残り続けることができたということなのかもしれない。そんな城下町の一等地は、何千年も前から樹木がむくむくと大きく育つ環境のよい場所であり、その自然の豊穣さから大きな塚が築かれ石祠も置かれその森に住む人々に芽生えた自然信仰の心とも深く結びついた場所となっていたのだろう。縄文時代、神明神社の石棒を崇め奉っていた人々の生活の傍らにも台地の上の豊かな巨木の林があった。そうした太古からの武蔵野の姿を、いまだに市街のあちこちに見られる巨木は間接的にも伝えてくれているのだろう。
大雨が降ると毎年のように川の水があふれて災害に見舞われる段丘の下の低く平らな土地に住む人々。彼らにとってみれば、あふれるほどに水が豊富であるということは農耕活動を営むという面においてはとてもプラスなことであり、頻発する洪水の危険性さえなければとても住みやすく暮らしやすい土地となっていたことであろう。しかし、その危険性やマイナス面をはるかに上回るほどの豊かな恵みを彼らが耕す大地は与えてくれていたのではなかろうか。だからこそ、この土地の農民たちにとっては他力本願の浄土教(思想)こそが数いの道となっていたのかもしれない。この世のことは時に豊かでありつつ時に過酷で非常に虚しくもある。何も思う通りにはならないのならばもはや念仏を唱えるしかないではないか。
川の近くに時宗の寺がいくつかある(東明寺、十念寺、浄国寺、常楽寺。東明寺は一遍に、浄国寺は他阿によって開かれたとされる。常楽寺は鎌倉時代の豪族、河越氏の館跡の一角にある。河越氏は源頼朝の乳母比企尼を通じて鎌倉幕府との太い繋がりがあり、その居城である館も鎌倉街道のすぐそばにあった。いざ鎌倉と街道を一本上り行くだけで館から鎌倉まで即座に駆け付けることができたのである。一遍も鎌倉へ向かう途中にこの館の付近に立ち寄り、すぐそばの入間川の河原などに逗留し踊り念仏などを催したのではなかろうか。この河原や橋のあたりには農民だけでなく被差別民や漂泊民なども多くいたはずだ。また、東洋大学もサンカのセブリバであったであろう河原もすぐ近くだ。十念寺は、元々は代官町(現在の志多町あたり)にあったという。同じ時宗寺院である東明寺のすぐそばである。北条氏と上杉家が覇権を争う川越城を舞台とした戦乱が続いていた時期、新河岸川の河原や橋のあたり、東明寺の門前などには多くの戦火から逃れてきた避難民たちがひしめいていたのではなかろうか。そうした人々をより広く救うために新たに十念寺が建てられたのかもしれない。その後、戦乱の世は去り江戸時代初期に十念寺は現在の末広町三丁目に移っている。ちょうど新河岸川の河岸段丘の上の台地の西の縁あたりに。気になるのは寺の境内に瘡守稲荷神社がある点である。これは蓮馨寺の周辺にあった花街と何らかの関係があるのではないか。瘡守稲荷神社に白い狐の置物を奉納して祈ると瘡(梅毒)が治るといわれている。十念寺の瘡守稲荷神社の社殿前にも供えられた大量の白狐の置物を今も見ることができる)。それだけ、この広い田園地帯には念仏を必要とする人々がいたということなのであろう。一遍やその弟子の他阿が踊り念仏の遊行をして歩いた街道沿いに次々と寺ができた。近隣の地域からも多くの念仏を唱える信者が寺々に集ったはずだ。阿弥陀仏に救いを見出だし大きな災いをもたらす可能性が高い川と上手に折り合いをつけて強くたくましく生きてゆく人々が川の流域に出現することになる。だが、念仏はそうした人々にとって現世における安寧をもたらしたわけでは決してない。もしかすると、現世の生においては、それはちょっとした気休めのおまじない程度のものにしかならなかったのではなかろうか。実際には、大規模な川の氾濫によって水に浸かり全てを流し去られてしまうか弱き人々(社会的な弱者)がそこにはいたのである。浄土とは、水と土にまみれた豊さと災禍を超越した果ての彼岸にしかなかったのだ。

そして、今また弱い立場にある人々が、居心地のよい内部からどんどんと外へ外へと追いやられ、川の近くなどの社会が近代化する以前には長らく無主地となっていたような場所にしか行き場を見つけられなくなりつつあるのではなかろうか。河岸段丘の上の武蔵野台地の端に位置する旧市街地は、昔ながらの城下町の雰囲気を伝える町並みが人気で観光地化の波が押し寄せ続けている。歴史と風情のある街並みを楽しもうと国内外から多くの人々が集まる町に、次々と新しい観光客目当てのキャッチーな商いをする店が増殖してゆく。こうした過度に商業主義的な観光都市化を推進する町というのは、そこに相応しくないものを(好むと好まざるとに全く関係なく)できるだけ排除するようになってゆくものなのではなかろうか。
時宗の寺院は、身分の差などなく男女の差もなく支配者階級から弱い立場の人々にいたるまで分け隔てなく受け入れ、あらゆる人々が念仏・称名によって救済される場となっていた。新河岸川や入間川の流れのすぐそばに開基された東明寺や常楽寺は、被差別民や漂泊民が宿り行き来していた河原や橋と直結した、世俗の縁とは切り離された無縁の地というオープン・スペースを創出する役割を果たしてもいたのだろう。河原という無主地、あちらとこちらをわける橋という境界、河岸段丘の縁の上の城下町と周縁地、浄土思想によって誰もが念仏の下に同等とならざるをえなかった寺の門前。誰であっても受け入れられ、誰もが全てを受け入れる場が、そこにはあった。
びっしりと縁によって編み込まれた社会の中にポッカリと穴のようにあいた無縁の地。世俗のルールとは切り離された場であり、あらゆるしがらみから無縁であるがゆえに、人と人との間で積極的な交流や交換や交易がなされ、大いに賑わい、市が立ち人や物が集まり栄えた。武蔵野の台地の縁を流れる幾筋もの川に抱かれ、その恵みも害悪も全て甘んじて享受してきたこの土地は、渡来人、漂泊民、遊芸者、被差別民、非人、湯女、遊女、行商人、捨聖、念仏者といったありとあらゆる人々を受け入れてきた場でもあったのだ。
今また新しい河原者が生まれつつあるのではなかろうか。それは、かつての被差別民や非人、サンカや傀儡子、漂泊職能民のように強くたくましくもあり最も弱くもある人々である。すぐに水に浸かってしまう古くは遊水地として使われていた低地や、長らくあえて人が住まずに田畑しか開かれなかった地域が、賑わい栄える場所から排除されてしまった弱者たちに割り当てられることになる。下小坂の近辺には一階が水に浸かってしまいニュースになった特別養護老人ホームのキングス・ガーデンだけでなく、高齢者向けのケアハウスや障害者支援施設、社会福祉法人のグループホームなどがある。芳野地区の入間川の土手の近くにも高齢者施設はいくつかある。
そして、下小坂では新しい住宅も次々と建って目立つようになってきている。少し前までは、ほとんどが古くからの農家ばかりで、どちらかというと畑の方が多いくらいであったのだが。大きな農家の敷地と防風林の周りに新興住宅や福祉施設が増えて、耕作地は徐々に姿を消してきている。下小坂の小畔川の土手に面した古い農家の家屋の建ち方には、少しばかり特徴がある。土地そのものは土手沿いの道路に面しているが、少し低い位置のかつては用水路沿いの農道であったであろう道路のすぐそばに家はない。まずは畑や家庭菜園や花畑などが道路に面した緩やかな斜面に広がり、その中を一本の取り付け道路が上っていて、その奥に大きな家があり、家の裏には防風林となる木立が茂っている。畑の下の道路から住居となる家までは軽く五十メートルくらいは離れているだろうか。そして、その緩やかな斜面の上の家と道路の間には、それでも数メートルの段差がある。昔の人は下小坂で少しでも高い位置の洪水の水から逃れられる場所に家を建てていたことがわかる。だが、新しくできた住宅街は当たり前のように低い位置にある道路と同じ高さにあったりする。車庫の使いやすさや生活の利便性からいえば、すぐに道路に出られる方が好都合であるに決まっている。だが、その当たり前も当たり前じゃない状況を前にしては何もかも意味も失ってしまう。
今回の台風十九号の前に下小坂で大きな洪水被害があったのは、ちょうど二十年前の一九九九年八月十四日のことであった。この日は前日から太平洋上から北上してきた熱帯低気圧の影響で断続的に激しい雨が降り続いていた。関東地方に流れ込んだ南からの暖かく湿った空気は特に山間部に大量の雨をもたらした。入間川や荒川の上流部にあたる秩父山地でも数百ミリという降水量を記録する。この日、神奈川県の山北町では、夏休み中ということもあって玄倉川の河原でキャンプをしにきていた親子連れのグループが、上流の玄倉ダムの緊急放水によって増水した川の水に流されるという痛ましい水難事故(十三名が死亡)が起きている。それと同じ日にあまり大きくは報道されなかったが、入間川と小畔川と越辺川という三本の川が付近を流れる下小坂一帯は増水した川からあふれ出た水に浸かってしまっていたのである。この時もあのキングス・ガーデンは一階が水浸しになる被害を受けている。九一年に開設されたこの施設は、この日の甚大な被害を教訓に毎年のように咄嗟の時の避難訓練を繰り返していた。その不断の備えが今回の台風十九号による洪水でも役立った。約百名の入所者は越辺川の氾濫を見越していたように速やかに建物内の安全な場所に移動し、翌日以降無事にボートで救助された。
ちょうど二十年前に起きていた川の氾濫をのことを、もしかすると新しい住民の中には詳しく知らなかったものもいたかもしれない。ただ、もし知っていたとしてももう二十年も前に起きたことで、少しずつ日々の生活の中では頭の片隅から薄れかけてしまっていたかもしれない。入間川も小畔川も越辺川もかなりしっかりと土手は高く頑丈に整備されていて、ちょっとやそっとの大雨や台風ではびくともしないような状態になっている。それゆえに近年は川の近くでも比較的に安心して住めるようになってきていたのかもしれない。だが、まだ下小坂の大半の地域は何もない放置された草っ原や田畑のままである。実際は本当に危険性の高い場所は可能な限り避けて宅地化が進められたのであろう。それでも、あふれるときはあふれた。では、今回の台風十九号による洪水の被害は想定外の事態であったのか。いや、どんなに人間が人知を尽くして防ごうとも入間川や小畔川や越辺川の川の水があふれて大きな被害が出ることは想定されていたはずだ。長い長い川とともに生きる人々の営みの歴史からは様々な教訓がもたらされていたはずであるから。ほんの二十年ぐらい大きな災害がなかったからといって、全く安心などしてはいけなかったのだ。
十九年は近年にはあまりなかったような長梅雨で、カラッとした夏の暑さの日がないままにいつの間にか八月を迎えていた。間断的に降る雨の影響で、そこら中が湿っぽくぐっしょりと雨を含んでいるような感じであった。地面に染み込んだ雨水もほぼ飽和状態で限界に近かったのではなかろうか。そんな状態では晴れてギラギラと陽が出ても、まるで地面からムワッとした水蒸気が立ち上っているかのように湿度が極度に高くなり、ほとんどサウナの中を歩いているような感覚であった。このところ毎年のように異常な天候が続き、川の土手も増水で水浸しになったり長雨で大量の水を含んだりしていては段々と耐久性も低下してきて、いざというときに崩壊しやすくなったりすることもあるのではなかろうか。
入間川の菅間水位観測所は荒川との合流地点の少し上流にある。そして、この菅間の堰の少し上流には入間川と小畔川と越辺川の合流地点がある。今回の台風十九号にともなう大量の降雨により、菅間水位観測所の近辺では非常に長い間にわたり氾濫危険水位から水位が下がることがなかった。入間川と合流する少し手前のところで越辺川が氾濫を起こし、越辺川の上流にあたる都幾川でも甚大な洪水被害が出ていたことも影響していたのだろう。また、氾濫箇所では大量の水が低い位置にある住宅地に流れ込むなどして、なかなか元々の川の状態に復旧しなかったことも危険水位レヴェル認定からの解除がなされなかった大きな要因でもあったのかもしれない。台風の通過後にも低気圧の雨雲や新たな台風の接近とともに翌週まで降り続いていた雨が、もう少しまとまった量で長引いていたなら相当に危険であったのかもしれない。菅間の先の入間川と荒川の合流地点近くで新たな氾濫などの災害が起きていたらと想像するだけでちょっとゾッとしてしまう。
河川の氾濫の危険性は明らかに高まってきている。これまでは結構危ないなと思うようなことがあっても、不思議と何とか大丈夫だった。これは、ただ運良く難を逃れていただけだったのだろう。ずっと、かつて子供の頃に通っていた小学校の目の前に豪勢な邸宅があった自民党衆議院議員の小宮山重四郎が所属派閥のボスであった田中角栄にお願いして入間川や荒川の流域に立派で頑丈な土手を整備してもらったからなのだと思っていたが、何のことはないただの運だったのだ(もし小宮山重四郎と田中角栄のおかげだったとしても今から三十年以上前の話だ。いくら立派な土手であってももうかなりガタがきていることであろう)。今やもう、そうそう簡単に大丈夫だなんていってはいられない。そこにある危険が、本当の危険であることを、肌で直に感じつつある。この危険性や危険度の急激な高まりには、地球温暖化の影響も少なからずあるのだろう(この世界と社会の構造的な問題とともに)。夏の集中豪雨は頻発している。桁外れのものになりつつある降雨量に今までのような土手に頼る河川の治水技術だけでしっかりと対処しきれるものなのであろうか。想定外は常に起こりうる。気候変動は紛れもない現実である。今日の世界では昨日までの当たり前は全く通じなくなりつつあるではないか。
実際のところ治水の技術というのは年々飛躍的に高まっているはずである。だが、それを越えるぐらいの勢いで極端に気候が激烈かつ猛烈なものになりつつあるのではないだろうか。自然の猛威も年を経るごとに巨大化し凶悪化しているように思える。赤道付近での海水温の上昇が広範囲に拡大し、十月でも真夏日があったり、卒業式や入学式の時期には桜はすっかり散ってしまっていたり、台風はスーパー台風が当たり前で猛烈化の一途を辿っている。こうした傾向がまだまだエスカレートしてゆくであろうことは容易に想像がつく。それに抗する抜本的な対策をいまだに人間は全くといってよいほど講じてはいないから。間違いなくもっともっと夏場の平均気温は上がるだろうし、ゲリラ豪雨はもっともっと苛烈なものになるだろうし、台風の規模も勢力ももっともっと強くなってゆくだろう。雨ももっともっと大量に降るだろうし、もっともっと風も強く吹いて、激しい嵐や大洪水がそこら中の町を襲うであろう。
台風十九号が最接近した時間帯の暴風とそのときすでに入間川が氾濫危険水位を突破しているという情報は、とても恐ろしいものだった。だが、終わってみれば運よく何も起きなかった。風がとても強く吹き荒れる時間帯もあったのだが、翌日に確認してみるとプランターのミニトマトの支柱の棒も一本も倒れていなかった(台風の通過位置や進行方向によって北西からの風が強く吹いたこともあり、南向きの庭はそれほど大した強風の被害を受けなかったのだろう)。あの日に特に何も起きなかったからこそ、その後にこんなものを書いていられている。だが、もし家が水に浸かり川から氾濫した濁流に飲み込まれてしまっていたら、落ち着いて腰を据えて何か書いておくようなこともできなかったに違いない。元々の生活のペースを取り戻すだけでもとても長い時間が必要になるだろうから。精神的に打ち拉がれてしまい何か書くような気力すら失せてしまっているかもしれない。計り知れないほどに大きなものをなくしてしまう可能性だってないわけではない。多くの被災者が復旧復興のために精一杯に頑張っているときに、こんなことをあれこれ考えていられることをとてもありがたく思う。だが、来年はわたしの番なのかもしれない。災難は誰にでも平等に降りかかるものであるだろうから。川は生きている。水は巡る。雨が降る。川はあふれる。何もかも流れさる。人も川も、みんな生きている。ここではもう何が起きても不思議ではない。
とりあえず来るものを何でも受け入れてしまうことで、この土地の歴史は作られてきた。人間が歴史を紡ぎ出すよりも前に、ここには川があり大地があり湿地があり沼があり林があり森があり湧き水があり段丘があり坂があり凸凹の高低差があった。そして、そこをわざわざ選んで住み着いた人間たちがいた。その土地にとっては人間たちもまたどこからともなくやって来たものであった。そこに無事に住みつけたということは人間たちもまたその土地にとりあえずは受け入れられたということなのだろう。次々とやって来るプラスになるものもマイナスになるものも受け入れて、この土地の歴史は住人たちの人生とともに築かれてきた。人間の手には負えないほどに川が荒れ狂う洪水とも上手に付き合い、その水の威力を畏怖しながらも巧みに利用した。大事なことは全て土地の歴史が教えてくれた。だが、そうした土地の歴史や伝統を全て蔑ろにするような時代がひたひたと音もなく訪れつつあるのではなかろうか。もっともっと、土地や歴史の声に耳を貸すべきではないか。そこに流れる川は語りかけてきていないか。語りかけてくるのは風ばかりではない。それが聞き入れなくなってしまったとき、城主=城の王の庭(キングス・ガーデン)を守るために、あの七ツ釜の怪物ヤナが地の底から甦り、全てを蹴散らしてしまうようなことが起こるのではなかろうか。

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