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分断の中心で白旗を掲げる

「分断」、近ごろよく耳にする、たった二文字の言葉。これだけで、そこにあるもののすべてを説明できてしまえるのだろうか。それは、あまり単純なものではないことの方が多いのではないか。よっぽどのことがあったからこそ、それは「分断」してしまったのだろうから。しかしながら、現状では、そこにあるものを簡単にこの二文字で説明しきれることにしてしまおうとするような流れが、なんとなく何となくだがとりあえず的な空気の中でできてしまいつつあるようにも思える。「コロナ禍」で「分断」が進んだから、世の中がちょっとおかしくなってしまうのも当然といえば当然。それは本当だろうか。「コロナ禍」と「分断」だけで、何から何までみんな説明がついてしまうのか。あれも、それも、この堪え難い苦しみも。「分断」を、ただの使い勝手の良い便利な言葉にしてしまってよいのか。いつか困るのは、わたしたちなのではないか。はたして「分断」を生み出しているのは誰か。「分断」を容認しようとする人間の人間らしい心が、そこに「分断」を見ようとしているから「分断」というものが明確な形をもってそこに立ち現れるのではないか。ただし、「分断」を乗り越えることは、とても難しく、とても容易い。ボノとエッジの「サンデイ・ブラッディ・サンデイ」(アコースティック・ヴァージョン)で、二重写しにされている映像がある。血の日曜日のデモに参加してイギリス軍の兵士に撃たれた若者を、数名の市民が抱え上げて治療が受けられる安全な場所へと運んでいる。銃弾に倒れた若者は人々の腕の中で、もはやぐったりとしてしまっていて、ほとんど意識があるようには見えない。道路のあちらこちらに市街地に配備された兵士が銃を持って立っている。負傷した若者を搬送する市民の一群を先導するのは、きれいに頭が禿げあがったひとりのおじさんである。もうこれ以上は若者に銃を向けないようにと、手に持った白い布(負傷者の止血に使ったものだろうか、少し血がついているようにも見える)を掲げて街路に立つ兵士たちの目につくようにヒラヒラと振りながら、先頭をゆっくりと慎重に歩いている。とても象徴的な映像である。今から五十年前の血の日曜日の悲惨さをまざまざと伝える映像であるとともに、絶えることのない消えることのない「分断」というものを人間がいかに克服するかというひとつの明らかな示唆(選択と行動)を与えてくれる映像でもある。そこにどんなに根深い「分断」があったとしても、性懲りもなく無駄に大量の血が流れたとしても、やはりそれをものともせずに進んでゆくしかないのだろう。あの流血した若者を力を合わせて運んだ市民たちのように、それを先導したあの禿げたおじさんのように。慎重に、勇気をもって。犠牲者の傷から流れた血を拭ったシャツを振ることが、何らかの前向きなサインやシグナルになるならば、それを高く掲げて、それを誰の目にも見えるように力一杯に振ろう。どんなにゆっくりとでも、そうして進んでいれば、いつかは安全な場所に辿りつけると信じて。あの禿げ頭のおじさんのような人にわたしはなりたい。

TBSの秌場ロンドン支局長がリポートした「現場から、」でも、デモの負傷者を運ぶ禿げたおじさんたちの姿を描いた巨大壁画が映し出されていた。その後、事件から五十年が経っても、あの日に人々が負った深い傷はいまだまったく癒えていないことが、デモに参加した弟が撃たれて死亡した白髪のおじさんや従兄弟を射殺された元IRA暫定派メンバーへのインタヴュー取材からも明らかになってゆく。傷痕がいつまでも生々しければ生々しいほどに、分断によってできた溝は埋まらなくなってしまうのだろうか。だが、分断とは、この傷が癒えないことそのもののことであったとしたらどうだろうか。分断が生み出し続ける痕跡を再生させる幻影だけを見て、曇ってしまった目で溝を眺め続けているだけでは、いつまで経ってもそこにある本当の傷痕が見えてくることはないのであろう。五十年経っても、八十年経っても、赤い血を流し続けている、その傷が。ただ、五十年という年月は、とても長い。それでも人々は、あの事件をまるで昨日のことであるかのように語る。それは、この五十年間、一日たりとも、その悲しみも憤怒も消えることは決してなかったからなのだろう(日々、新たな傷の痕跡を生む傷痕)。まだ十七歳だったという銃弾に倒れた少年のことを思うと、少し涙が出た。そして、ボノとエッジの「サンデイ・ブラッディ・サンデイ」を見て、さらに涙が溢れた。昔の高々と白旗を元気に掲げていたU2のライヴの映像を見て、もっと泣いてしまった。もう何度見たかわからないレッド・ロックの「サンデイ・ブラッディ・サンデイ」とか、やっぱり何度見てもいいんだよね。ちょっと暑苦しいところもあるけどね。吐く息が白くて寒そうなのに、すごく暑苦しい。それがボノなんだよね。後どれくらい、この歌を涙を流しながら聴くのだろう。どれくらいなのか。後どれくらいで、この世界から無意味な争いごとがなくなるのか。後どれくらいの血の日曜日についてわれわれは泣きながら歌わなくてはならないのか。このごろ、なにやらとてもただの涙もろいおじいさんにぐんぐんと近づきつつあるようで、われながらちょっぴり困惑している。

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