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ハウス・ミュージック研究への序文

おそらく、この世界に生きる大部分の人たちは、もうハウス・ミュージックのことなど、すっかり忘れてしまっていることだろう。1989年にリリースされた、ネナ・チェリーのシングル「Kisses On The Wind」に収録されていた、デイヴィッド・モラレスによるリミックス・ヴァージョンを覚えているだろうか。ブレイズが、1990年にモータウンからアルバム『25 Years Later』をリリースしたことを覚えているだろうか。1990年にリリースされた、リサ・スタンスフィールドのシングル「This Is The Right Time」に収録されていたイヴォンヌ・ターナーによるハウス・リミックスのことを覚えているだろうか。もし、すべて忘れてしまっていたとしても、それも致し方のないことなのである。ハウスの時代は、とうの昔に終わっているのだから。
もしも、もう完全に時代はそこをすっかり行き過ぎてしまっているはずの、ハウス・ミュージックを好き好んで聴いているような(あの当時はまだ生まれてもいなかった)若者がいたとしたら、それは相当に珍しい趣味の人だといわざるをえない。いや、実に珍奇なる新世代だといえるであろう。だが、ハウス・ミュージックを好きになるのは、いつの時代も、そんな一風変わった人たちであったのかもしれないのである。まともな感覚の持ち主であれば、まずもってあんな変てこりんな音楽性を前面に押し出している、ある意味いかれたサウンドに、いつまでものめり込んでなんていられないだろうから。
80年代後半、バンド・ブームというものがあり、イカ天バンドを筆頭にX(後の、X・ジャパン)などのヴィジュアル系バンドもテレビに登場し、ヒップホップの世界は、ランDMCやビースティ・ボーイズの登場以降ずっとオシャレな(業界の)人々を刺激するようなノリが当たり前のものとなり、テディ・ライリーはニュー・ジャック・スウィングで旋風を巻き起こし、ディスコはユーロビートで盛り上がりPWLが王座に君臨し、ラジオにもテレビにも耳障りがよくキャッチーなJ-POPのメロディがわんさと溢れかえっていた。そうしたポップで無条件に楽しめるメインストリームのネアカな流行音楽や音楽文化に背を向けて、トッド・テリーやボム・ザ・ベース、A・R・ケインとカラーボックス(のマーズ)などによる、実に訳の分からないサプリングと音ネタのコラージュだけで成り立っているパロディ要素満載の珍奇なダンス音楽に熱を上げていたのが、ニュー・ウェイヴ崩れの先天的にネクラでひねくれ者なわたしたちであったのだ。いつの時代も、わざわざ見通しのきかない流れの奥底に手を突っ込んで、得体の知れないハウスのような音楽を見つけ出してくる若者の特性というのは、非常によく似たものなのではないだろうか。
木田元が書いた『マッハとニーチェ』(02年)という本がある。マッハとニーチェという二人の天才を軸に19世紀末の世紀転換期の思想を深層部から捉えなおそうとする非常に意欲的な一冊である。この中で木田は、この世紀転換期にロシアの社会民主労働党の内部にもエルンスト・マッハの思想(現象的物理学)を信奉するマッハ主義者が増加し、大きな勢力を形成するまでになっていたことに触れている。しかし、その次の瞬間にはロシアのマッハ主義者に関する(英文等で読むことのできる)資料が非常に乏しいことを嘆いてもいる。その後のレーニンによる共産主義革命へと向かう時代の動きの中で徹底的に批判され減速していったロシアのマッハ主義者たちの姿は、対外的にも歴史の表舞台から消し去られ、いつしか忘れられていってしまったという。もし、今もロシア国内のどこかにはロシア語の当時の文献が大量に存在しているのだとしても、それがロシア語圏の外に流通していないのであれば、それはもう消えてしまったも同然なのである。(政治的・イデオロギー的な)敗者にその後の歴史はないのだ。そして、その世紀転換期には至極当然のものとしてあったマッハとニーチェの思想を連関するものしてとらえる刺激的な考え方もまた、その後の時代の流れの中で忘れ去られ、いつしか消えてしまった。その両者の連関については、木田のような哲学者であっても19世紀末の思想史をあらためて辿り直してみなくては気づきえないようなものでもあったという。その当時は、非常に重要なものと捉えられていた(ごく当たり前の)考え方であっても、その後の時代の流れの方向性によっては、まったく見向きもされなくなっていってしまう。批判し乗り越えて勝ち残るものだけが、歴史を作り出せる。そうしたことは、実は往々にして存在しうることなのである。
20世紀末の世紀転換期には、ハウス・ミュージックという音楽があった。そこでハウスは、(決して大袈裟にではなく)世界を変えた。地下の世界のクラブ文化を、グローバルなムーヴメントへと押し上げて、それを広く定着させたのはハウス(厳密には、ハウスとその仲間たち)であった。世紀転換期のクラブのダンスフロアでは、多くの人々がマイケル・ジャクソンやマライア・キャリーのヒット曲のハウス・リミックス・ヴァージョンでステップを踏み踊っていた。そんな世紀転換期を象徴する音楽文化として、1980年代にハウスは時代の表舞台に登場してきたのである。そして、20番目の世紀がギリギリまで押し迫った最後の十数年の間に、あらゆるものを世界と社会の中で物象化してゆく20世紀の(商業)音楽文化の流れへの最後の最後の反抗と反動として、世界と社会の周縁部から滲み出すように湧き出してきたのが、非常に斬新なダンス音楽として発明されたハウス・ミュージックを取り巻くダンス・カルチャーであったのだ。ハウスは、ある種の時代の異物として表舞台に闖入してくることで、世紀転換期のよりケイオティックな動きを誘発する大きな起爆剤的原動力ともなっていた。
ディスコからハウスへと流れ、そしてハウスからEDMへといたる。20世紀のディスコ・ミュージックは、やがて21世紀のディスコ・ミュージックへと、ぐんぐんと流れ下っていった。70年代末にはディスコ・サックスとなじられ忌み嫌われながらも、しぶとくハウスとなって蘇り、世界中に蔓延していった伝統的なダンス音楽。そのグルーヴに触れいている間は(そこに没入し)何も考えなくてよいというのが、ただひたすらに楽しむためにある享楽的な娯楽のためのサウンドトラックとしてのダンス音楽であった。そのようなダンス音楽の流れの中でハウスは生まれ、一時的に大きく盛り上がり、そして世紀転換期のマジカルな動きが鈍り第二の愛の夏からのダンスフロアの熱が引いてゆくとともに消えていった。
一般的な大ブームとなったことでディスコ・ミュージックは、浮かれたパーティの繰り返しの中でダンス音楽の本質を見失ってしまったのではないか(音楽やパーティそのものが娯楽であるという錯覚)。そんなディスコのパーティが欠いてしまったものを、社会の周縁の地下のダンスフロアで取り戻し、刹那の明かしえぬ共同体的なつながりを思い出させ、リズムとメロディによって一体感を醸成し、イメージとしてのユートピアを垣間見せながら、ディスコというダンス音楽(文化)の延長線上に位置する、よりエッセンシャルなハウスというダンス文化の流れが、底堅く形作られていった。それは、ひとつの大きな世紀転換期という季節に発生したものであるからこそ、そこにある時代の舞台の変換の動きを導き出すものとして、(様々な文化的なものや思考や思想などをない交ぜにしながら)育まれていった部分もあったのではないだろうか。ひとつ前の世紀転換期において相次いで閃き出た、ニーチェやマッハの思想や考え方が共振していたのと同じように。両者は、それまでに常識であったものを疑い否定しつつ、来るべきものを準備し、(どこか深くで繋がりながら)遥か先を予見するものとして世紀転換期にそびえ立ったのである。
20世紀を問いに付すものとして生まれたものが、その答えを得られぬままに没落してゆく。そして、そのまま20世紀を引き継いで、それをただ使い回すだけの21世紀が、強い時代肯定の気分とともに滑り出してゆくのだ。そうした流れは、ディスコからEDMへの営々たる系譜の中にも見てとることができるだろう。その両者を貫いて(根底に)流れているものが、20世紀から21世紀への世紀転換期にこの社会の精神の根幹をなして突き崩されずに保守され続けたものである。肯定しつつも否定を捨て去らず、ポジティヴでありながらも決してネガティヴを手放さない。そんなハウス・ミュージックとは、基本的に時代の徒花であり、世紀転換期の流れの中で消え去り忘れ去られる宿命の下に最初からあったものだったのではなかろうか。
ダンスフロアとは、明かしえぬ共同体の幼生態にして、その原初段階の発露のようなものであった。徹底してオルタナティヴな、あらゆる価値の転倒した場所である。それゆえに、現実から逃避してオルタナティヴな啓蒙を感じ取らんとする、持たざるものや排除されたものや疎外されたものたちのシェルターとして機能することができたのであろう。

20世紀初頭、第一次世界大戦の直前のヨーロッパは、わずかに40年という束の間の平和な日々を謳歌しただけで、すでに大いなる倦怠感に包み込まれていたという。人間とは、あまりにも平和すぎる何も起こらない日常がいつまでも続くことには、ちょっと耐えきれなくなるように出来ているかのようである。少しでも変化や動きがないと自分が生きているという実感を得られないのであろう。だから、わざわざ自分から波風を起こしておいて、嬉々としてそこに飛び込んでみたりする。そこに多忙で面倒臭い日々しか待ち受けていなかったとしても、平和すぎる日常よりはそっちの方が断然ましなのだ。近代のヨーロッパ人にとって40年もの平和な日々は、あまりにも長過ぎる退屈で平穏な日常に感じられていたようである。人々は自分が生きているということを実感できるような強烈な刺激を求めていた。そして、そんな大いなる退屈な気分を紛らわすための、うってつけの戦場が、またとないタイミングで用意された。刺激を求めていた多くの若者が、ほんのひとときの気散じのためにゲーム感覚で戦争に参戦し、その悲惨な戦場から二度と戻ってくることはなかった。
第二次世界大戦の終戦から40年が立った85年、猛烈な勢いで押し寄せてきた高度経済成長(とバブル景気の足音)が刺激に飢えた日本の若者の退屈な気分を大いに紛らわせていた。当時、原宿駅周辺の道路は日曜日には車両進入禁止の歩行者天国になっていて、多くの若者たちが思い思いのファッションで繰り出して大変な賑わいとなっていた(「好きな服を着てるだけ/悪いことしてないよ」)。若者の楽園であったホコ天に繰り出して注目を集めていたのは、奇抜な衣装に身を包んだ竹の子族やローラー族であり、彼らは路上を目一杯に使用して集団でダンスに興じていた。その後は、そのダンスを見物するために集まってくるものや一世風靡などのパーフォマンス集団、原宿ロードサイド・ロッカーズなどのゲリラ的にバンド演奏をするものなどが入り乱れて、原宿駅周辺はより混沌の度合いを高めてゆくことになる。そこでは、ダンスや演劇や音楽などの形をとって、当時の若者文化の熱く煮えたぎる部分が、まさに東京の真ん中の路上において勢いよく噴出していたのである。その頃、まだ15才の田舎の少年であったぼくは、原宿の歩行者天国で踊るようなことはなかった(ロカビリーが好きな中学校の同級生の何人かは、毎週のように原宿に踊りにいっていることは知っていたが)。原宿のホコ天にあったものは、自分よりも少し上の世代の若者のカルチャーだと感じられていたのである。まさに、ぼくは、原宿や新宿の沸騰する若者文化というものに対しては、かなり遅れてやってきた世代のひとりであった。だが、それでも、週末になると自分なりにあちこちを徘徊して、インディーズのレコードやライヴハウスでのライヴなどのとても刺激的なものをたくさん発見してゆくことになる。
80年代後半、10代後半になったぼくは、街の片隅で発見したオルタナティヴの先にも、さらなるオルタナティヴがあることを知ることになる。それまでのぼくにとっての第一のオルタナティヴは、パンクであり、ニュー・ウェイヴであり、インディーズであり、ライヴハウスであり、ノイズであり、インダストリアルであった。だが、まだまだその先の世界があったのである。そこで新たに見つけた第二のオルタナティヴが、ハウス・ミュージック(アシッド・ハウス)であり、ナイトクラブであった。初期の頃の東京のクラブにおいては、ディスコの文化やブラック・ミュージック畑からの流れでハウスに流れ着いた派閥とポスト・パンクやニュー・ウェイヴ~オルタナティヴ系からの流れでハウスを見つけ出した流派という、かなり異なるふたつの系統に属するダンサーたちによって、ダンスフロアの顔ぶれは極めて雑多に形成されていた。ちょっと前まではビッグ・ブラックの軋むギターの音に唸っていたようなものたちが、薄暗いダンスフロアに足を踏み入れて往年のサルソウルのヒット曲でくねくね踊っているというようなことが、ごく普通に当たり前のこととしてそこでは起きていたのである。下北沢の下北沢ナイトクラブやズーといったクラブは明らかにパンクやニュー・ウェイヴと地続きのダンスフロアであり、ぼくらのようなネクラな少年少女たちが遊ぶにはうってつけの場所であった。しかし、そのダンスフロアには、ほんのりとしかハウスの匂いがしないことが、次第に不満に感じられてくるようになってくる。ぼくらはスクリッティ・ポリッティやキャバレー・ヴォルテールだけではなく、ジョー・スムースやア・ガイ・コールド・ジェラルド(「ホット・レモネード」!)が聴きたい気分であったのだ。そして、下北の狭いダンスフロアに別れを告げ、良質なハウスを求めて夜の街をあちこち歩き回ることとなる。乃木坂のディープなどを発見して地下深くにもぐり込むようになるのも、この頃のことであった。特に日本や英国においては、ハウスの文化の根幹部分にパンクやニュー・ウェイヴの文化から受け継がれた思想やアティチュードというものが色濃く流れ込んでいる。このことは決して軽視されてはならないだろう。パンクとハウス。それらは明らかに地続きであり、同じ水系に属し、70年代後半以降のオルタナティヴ/DIY志向という系譜における、ひとつの巨大で豊穣なるインディ文化圏と呼べるようなものを形成している。

ハウスとは、オルタナティヴな、可能であるもうひつの世界を、細かな音のパーツを組み立ててゆくことで言葉の次元を越えたものとして現出させることのできるものである。そこに描かれるのはユートビアの青写真でもある。聴いて感じて考えることで、それがどんなに感じても考えても分からない理解のレヴェルを超えているものであるということがインスピレーショナルに啓示され、永劫に回帰する四つ打ちビートの終わりのない反復の中で、ハウスのその先にある本来的なハウスのユートピア性というものの姿形が、ようやく薄ぼんやりとだが見えてくるようになる。何も考えずに踊る(瞑想的なダンス)だけでは、それはただの最高に機能的で快楽的なダンス・ミュージックとしてしか機能しない(のであろう)。

(2010年代半ばごろ)

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