たばこ店

シブサワがいたところ(四)

(四)追記「工場」

坂の上のよろず屋のところから志多町の坂を下ってくると、東明寺の門前の参道とぶつかる角のところに古いたばこ店がある。よろず屋(梅原商店)の脇の壁には付近の商店の場所が(トタン板に)書き込まれた簡易的な案内地図が掲げられている。その地図を見てみると、古いタバコ店を営んでいるのが甲斐野さんであることが分かる。そして、その名前がキッカケとなって昔の記憶がいろいろと蘇ってきた。まず、あの現在は工場跡になっている場所にあった町工場が、甲斐野製作所であったことを思い出した。甲斐野製作所は、鉄製の製品部品の製作や鍍金などを行なっている工場であった。いつも近くを通ると、ガシャンガシャンと鉄と鉄がぶつかる音がけたたましくしていたことを思い出す。工場の前には、銀色に輝くピカピカの自転車のハンドルがいくつも整然と堆く積み上げられた大きなラックが並んでいた。
甲斐野製作所の工場は、すぐ近所(宮元町)にもあり、いろいろと記憶が入り混じって、どちらが甲斐野製作所であったか分からなくなってしまっていた。だがしかし、何のことはない。志多町の町工場も宮元町のやや大きめの工場も、どちらも同じ甲斐野製作所だったのである。現在は嵐山町に移転し甲斐野テックスと社名も変更しているらしい。そんな、かつての甲斐野製作所の現在のホームページを見てみると、会社沿革のページでその会社の歴史が紹介されていた。それによると、太平洋戦争の終戦の前年である昭和19年(1944年)に航空機の点火栓の鍍金加工を行なう工場として、志多町のあの場所に甲斐野製作所は設立されたのだという。その当時の名称は、シンプルに甲斐野鍍金工場であったようだ。終戦間際といえども戦時中であるから、航空機の点火栓ということは軍用機の部品を作っていたのであろう。入間や熊谷の航空基地にもほど近く、部品工場としてはちょうどよい立地であったのではなかろうか。太平洋戦争敗戦後は、自転車のハンドルの製作に事業をシフトさせていったようだ。物に乏しく燃料も不足していたであろう復興期であるから自転車は手頃な移動手段として飛ぶように売れのだと思われる。昭和27年(1952年)には甲斐野鍍金工場は株式会社甲斐野製作所となり、新たに自転車ハンドル用の製造工場を志多町の敷地に増設し、昭和35年(1960年)には近くの宮元町の(おそらく田んぼ3~4枚分ほどはあったと思われる)土地を買収し、そこに大きな製造工場を設けることになる。甲斐野製作所が、この敗戦後の15年で急速に事業規模を拡大していったことが分かる。それだけ、自転車が人々の足として重宝し、日本の復興へと向かう労働力を下支えしていたものであったということなのであろう。
澁澤龍彦が川越で暮らしたのは昭和3年(1928年)から4年間のことであり、昭和7年(1932年)には東京の滝野川区中里に引っ越してしまっている。志多町に住んでいた頃に使っていた借家が、現在の甲斐野製作所の跡地にあったのだとしたら、その古く大きな邸宅は澁澤一家が引っ越してから13年後には取り壊されて鍍金加工工場になっていたことになる。そして、今もその当時のままに変わらずに残されているのは、路傍に立つ小さな石と川沿いに建つお稲荷さんぐらいなものなのである。ただそれだけでも、今から90年近く前(まだ90年しか経っていない!)にまだ3才の澁澤少年が実際にそこで見て触れてみたかもしれないものが、まだそこにあるという事実には妙に胸が騒ぎわくわくしてくるものがある。そして、それらはその場所の遥か遠い昔からの歴史の流れとも密接に繋がっているのである。
小さい頃から家の近くにあった宮元町の甲斐野製作所の付近一帯は、家からほんの100メートルちょっとぐらいしか離れていない場所であったのに、あまり近寄ることのない場所であった。工場の脇には幅2メートル弱程度の小川が流れていたが、ちょうど工場の裏手で川沿いの道が人がひとりやっと通れるくらいに急激に狭まっており、小川の両岸には背の高い雑草が生い茂っていて、その付近一帯がちょっと薄暗くジメッと湿っぽい感じがして、子供心に意識的に避けていたところもあったのかもしれない。小さい子供にとって、その小川は遊んでいるうちに落ちてしまうかもしれないやや危険な細心の注意を必要とする遊び場であった。よって、川の近くで遊ぶとしたら、もっと川沿いの道の道幅が広く空間的にも開けている家の近くのあたりで遊ぶようにしていたのである。また、蛙やザリガニを捕まえて水遊びをするにしても家の裏手の田んぼの中のあぜ道の脇を流れている(幅が狭く浅い)用水路など、もっと安全に遊べる場所は家の周りに山ほどあったのである。
そんなちょっと近寄りがたい場所であった宮元町の甲斐野製作所も、今はもうない。甲斐野製作所の製造工場が嵐山町に移転し株式会社甲斐野テックスとなったのは、平成8年(1996年)のことであったという。今からもう20年以上も前のことである。そこに茶褐色にくすんだの古い工場があったという幼い日の記憶すらももはや薄れつつある。現在の工場跡地には住宅が建ち並び、一部には集合住宅も建ち、広めの月極駐車場にもなっている。そこには工場があった頃の油の匂いや廃油の黒ずみ(工場の裏手からは小川に流れ込む用水路に怪しい工業廃水がチョロチョロといつも垂れ流されていた)、鉄と鉄がガシャガシャとぶつかり合う音などとは無縁の風景が広がっている。この20年間で何もかもがすっかり変わってしまったのである。宮元町の甲斐野製作所が移転する頃には、その脇を流れていた小川も暗渠化され、今ではやや広めの車と車がすれ違えるくらいの道になっている。子供時代の思い出の遊び場は、今では地面の下の暗い場所に埋められてしまっているのである。先日、近所の床屋に行ったときに、昔あったあの小川のことを少し話した。床屋のおばちゃんは、子供の頃に川を飛び越えようとして何度も川に落ちたという。ぼくも自転車の運転の練習で近所をヨロヨロと乗り回しているときに、あの川沿いの狭い道でハンドル操作を誤って自転車ごと川に落ちたことがあった(まだ補助輪をつけていた頃にも自転車ごと川に落ちている)。あのあたりの子供は、毎日のように誰かしらが川に落ちる災難に見舞われていたのではなかろうか。
そして、あの思い出の川についての話をしているときに、床屋のおばちゃんの口から思わぬエピソードが飛び出してきた。暗渠化の工事が行なわれているころ、地中深くまで掘っていた工事の最中の事故で作業員がひとり亡くなったというのである。その話を聞くまですっかり忘れてしまっていたが、確かにそんなことはあった。家の近くだったので、近所でも話題にはなっていた。だが、工事中の死亡事故が、あまり大きなニュースになることはなく、粛々と小川の暗渠化の工事は進んでいった。床屋のおばちゃんも、そのあたりの何事もなかったかのように工事だけが進んでいった感じには大変に訝しく思うところがあったようである。そこで、どのような事故があり、作業員がどのような亡くなり方をしたのか、詳しく知っているひとはほとんどいないのではなかろうか。もはや、そこに川があったことを覚えているひとの方が少ないくらいであるだろうから、様々な事柄が急速に風化していってしまうのも仕方ないことなのかもしれない。床屋のおばちゃんによれば、事故の現場は宮元町の甲斐野製作所があった場所のすぐ横あたりであったという。ぼくの記憶の中でも、ちょうどあのあたりであったと思う。間違いない。だが、そのあたりの路傍に小さな供養の石が立っているような気配はない。何事もなかったかのように新しい家が建ち、舗装された道路が出来て、人々が普通に住んで暮らしあちらへこちらへと行き交っている。ほんの20年ぐらい前のことなのに、もう誰からも忘れられてしまっていて、思い出されるきっかけすらも全くない。中世や近世の日本であれば、工場跡の角に新しく出来た辻のあたりに小さな地蔵や祠が建てられて、近隣の住民によっていつまでも花が手向けられていたと思われるのだが。もはやそんな時代の日本の風土や風景は、完全に失われてしまっているのである。
ただし、ぼくにとっては、昔の甲斐野製作所のあたりは鬱蒼と小川の両岸から背の高い雑草が生い茂っていた少々不気味な雰囲気の場所であり、子供心にもあまり近づきたくはないイメージがあったことも相俟って、今でも何だかしっくりと馴染めない感じは少しある。だから、工事の際の死亡事故についても、あのあたりであればそういうことが起きてもおかしくはなかったのではないかと素直に思えてしまったりもするのである。もしかすると、あの場所にはずっと古くから因縁めいたものが何かあったのではなかろうか。
このあたり一帯は、かつて深町という名であったという。現在の町名は宮元町であるが、町内には元深町というバス停もある。かつて小川があったころ、家のすぐ近くに田んぼに水を満たすために使われたのであろうコンクリートで造られた簡素な堰があった。その堰の側面には、すでに全体的に白化していて読みづらかったのだが深町堰という名称がしっかりと凹刻されていた(かつては、この暗渠化された小川までが宮元町で、その北側が深町であったようである。これが昭和45年12月1日に市の町名番地整理によって、深町は隣接する宮元町へと編入されることとなったようだ。深町は、宮元町と山田に挟まれた小川沿いの非常に東西に細長い町であったようである。逆にいうと、長らく宮元町側にも山田側にも全く属すことのなかった用水を地域全体で平和に利用するための緩衝地であった可能性は高い)。
なぜ、ここが深町であったのかを考えてゆくと、かつてこのあたりにとても深い沼があったからではないかというイメージしか浮かんでこない。一面に広がる田園風景の中に、東西に細長く鬱蒼と草が生い茂ったあまり人の寄り付かない底なしの沼があったのではなかろうか。深い沼に落ちて、そのまま浮かび上がってこなかったひとも多くいたのかもしれない。そうした深い底なしの沼があった一帯であるから、いつしか深町と呼ばれるようになったのではなかろうか。古くから沼のあったところであり、慢性的に湿地帯となっている雨水などが溜まりやすい低い土地であったから、そこに用水や排水のための小川を通すことは比較的に容易いことであったのであろう。おそらく、かつて甲斐野製作所のあったあたりは、そうした沼や湿地のあった場所であったのではなかろうか。そして、古くから田んぼの真ん中にあった沼は、いつしか住宅街の中を流れる小川に姿を変えて、深町も宮元町という町名に変わっていった。
ただし、あの小川の暗渠化工事は、そう容易なものではなかったのではなかろうか。あのあたりの川底の下の地盤は、元々は深い沼の底の土であって、たっぷりと水を含んた柔らかい泥ばかりだったものと思われる。そのため、小川の暗渠化の工事も地中深くに基礎部分を築くことが非常に難しいものになり、そのために不幸な事故が起こってしまったのかもしれない。もしくは、古来より多くの人を飲み込んできた沼の底の土に吸い込まれるように足を取られて、工事現場の作業員もそのまま帰らぬ人となってしまったのだろうか。床屋のおばちゃんも、ビックリするくらい深く掘って工事していたと語っていた。おそらく、通常の用水路の暗渠化工事とは異なる、かなりの難工事となっていたのではなかろうか。
宮元町の甲斐野製作所や暗渠化された小川の思い出は、そうした元深町の一画の暗い記憶の中のイメージと密接に結びついて今もぼくの中に残り続けている。あの暗渠化されたかつての小川のあたりを歩いてみれば、同じ宮元町内でも一本通りが違うだけでかなり雰囲気や空気感が違うものになっているということに誰でもすぐに気づけるのではなかろうか。もしも、そこで何かちょっと異質な暗さや重々しさを感じたら、かつてそこに緑の背の高い雑草が鬱蒼と生い茂った沼や湿地帯があったことを思い浮かべてみるとよいだろう。みるみるうちに足下の地面が濃い灰色の泥に液状化していって、底なしの沼の奥底に引きずり込まれてゆくような感覚を味わえるかもしれません。

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