坂上01

シブサワがいたところ(二)

(二)志多町探索

志多町の坂の上の店の工事が始まった(旧梅原菓子店(かどみせ)修理事業)。小さい頃から「坂上」とか「角店」とか単に「よろず屋」などと呼んでいた、佇まいからしてとても古くからあるに違いない、ちょうど坂を登ったところの角にある店が、鉄骨の足場などに囲まれてシート類で覆われていた。
いつの頃からか、車道に面した店の南側の前方部分はいつも大きく開け放たれてはいるものの、中はとても薄暗く、営業しているのかいないのか分からない状態が続いていた。だが、よく見てみると店の入口付近に設置してある雑誌スタンドには、そこそこ新しい漫画雑誌や週刊誌が並んでいたりする。それを見て、細々とでもまだまだやっているのだなと、ちょっぴり安心していたりした。そんな坂上の店で何かの工事が始まっているのを見たとき、とうとうあの店も店じまいして、そのうちに取り壊されて何も無くなってしまうのかと、とても残念な気持ちになった。
だがしかし、取り壊すなら取り壊すでサッサと作業してくれればよいのになんて思う部分もどこかにあった。いつも通りがかりに気にして見ていた目に馴染みのあるあの店が、廃墟のようになってゆく過程をゆっくりと見せつけられたくはなかったから。それなのに、いつまで経ってもシートで囲まれ、屋根がネットで覆われたまま、その店は坂の上に建ち続けていたのである。
何らかの歴史的な遺産か文化財として認められて、丁寧に解体して、どこか昔ながらの街並を今に再現するテーマパーク的なところに移設されるのではないかと考えたりもしたが、セッセと古い建物を解体している様子も一向にない。どうやら、古くなった建物を修復して、かつての姿に戻す計画が進められているようなのである。取り壊しでも移設でもなかったのだ。都市化の波に押し流されずに辛抱強く営業を続けてきた坂上のよろず屋に、どうやら第二の人生の道が開けたらしいのである。

しばらくして再び店の近くまで行って修理の現場の様子を眺めてみた。すると、シートに覆われていない一階部分の角の道路に面したあたりの店舗の形状が少しばかり変わっていた。一階部分の屋根が、少しだけ店舗の位置よりも外側に張り出していて、ちょっとした軒先ができていたのである。ずっと坂上の角の店は、T字路になっている信号のある交差点の歩道部分のぎりぎりのところまで店舗の端が出っ張ってきている造りになっていた。それが、ずっと見てきた坂上の店あるべき姿だと思い込んでいたのだが、もしかすると実はそうではなかったのかもしれないのである。
改修が始まるとともに、建物自体の外壁部が約十センチほど少し奥に引っ込んだのである。これは、元々はそういう形態と規模の店舗だったということなのではなかろうか。一階部分の屋根の軒下を覗き込んでみると、そこに大きな太い梁が見えた。この建物の形状からすると、やはりその梁の位置に店舗の入口を設けるための柱や壁などがあったということなのであろう。おそらく、南側に向いた店舗の店先に並べた商品に直接日光が当たらないように、もしくは降ってきた雨粒などが商品にかからないように、少しばかり店の外に軒が突き出ていたのだと思われる。それが、近代になってガラスをはめた引き戸などを入口に全面に設置して、商品を雨風から防げるようになってくると、軒先のスペースをなくして店舗そのものの面積を少し拡大し、通りに面した角のギリギリのところまで建物の縁を押し出すことになったのではなかろうか。軒を支えるために、角のあたりには立派な柱が立っていたようだから、そこまで新たに壁の位置をずらしてきて、扉や引き戸ををはめ込んだりすることは、それほど難しいことでははなかったのはないだろうか。
改修工事が行なわれている坂上の店は、外壁の補修のために取りつけられていたのであろう錆びたトタン板などが全て取り除かれて、元々の家が建てられた当時のものであろう乾いた黄土色の土壁などが露になっている。そこで、外から眺められる範囲の出来る限りを、つぶさに観察してみた。すると、ちょうど店舗の真裏側のあたりに小さな扉があるのがよく見えるようになっていた。扉は、商品の搬入口に使われていたものなのであろう。扉の前には、ちょうど車が一台ほど停められるスペースがある。そして、車の荷台と同じ高さ位に、小さな扉があるのだ。昔は馬車の荷車、昭和初期頃からは小型のトラックがここに停まって、荷台から下ろした荷物を、あの小さな扉を開けて店の奥に運び入れていたものと思われる。もしかすると、志多町に住んでいた澁澤龍彦少年も間近でその搬入の様子を見ていたりしたのかもしれない。

少し前まで、この坂上の店のすぐ横あたりが、かつて澁澤龍彦の家があった場所だったのではないかと思っていた。澁澤は「私の家のすぐ隣りには、雑貨屋をやっている家主さんの家」があったと幼い頃を回想して書いている。その回想の文章にピタリと当てはまるような、古くどっしりとした風格のある佇まいが、あの坂上の店には感じられたのである。明治から大正・昭和初期の頃には、近くの貸家の大屋などをしていたとしても決しておかしくはないような立派な雑貨屋であったに違いないと思えたのだ。そんなかつての賑わいが容易に想像つくような、どこか歴史の重みを感じさせる店が、あの坂上のよろず屋であったのである。おそらく、城下町を南北に貫くメインストリートとなる道に面した、ふたつの街道の交わる角にある、当時としては比較的大きい間口の店舗であったのだろう。周辺に貸家をいくつか所有できるくらいに繁盛し栄えていたとしても決しておかしくはないはずだと思えていたのである。
だが、「それはちょっと違うのではないか?」という思いも、どこか完全には拭い去れずにいた。肝心の澁澤の家の痕跡らしきものが、坂上の店の周囲にはちょっと確認できなかったのだ。それに、どうも澁澤が子供時代を回想して書いていることとあまりピタリと整合しない部分も多くあるのである。子どもの頃に澁澤が住んでいた広い家の庭にはイチゴ畑があり、その畑の外れあたりにお稲荷さんがあったというが、そのお稲荷さんがどこにも見当たらないである。おそらく、お稲荷さんがあれば、そこがイチゴ畑ではなくなり住宅街に変わっていたとしても、ほとんど同じ位置に昔の姿のまま祀られ続けているはずなのだが。その肝心の手がかりになりそうなお稲荷さんが、坂上の店の周辺にはちょっと見当たらないのである。
また、澁澤の家の庭にあったというイチゴ畑についても、坂上の店の隣りあたりに家があったのだとすると、その庭は坂に沿った斜面にあったこととなり決して平らな土地ではなかったことになる。そんな庭をわざわざイチゴ畑になどしたであろうか。そして、もしそこにイチゴ畑があったとしても、そのすぐ裏手には東明寺の門前の参道が通っていて、それほど大きな規模のイチゴ畑が作れたとは思えないのである。だからといって、あの坂上の店が、澁澤が書いていた家の大屋が営んでいた雑貨屋ではないと、完全に判断できる材料がなかったことも確かだ。しかし、あれこれと考えあぐねているうちに、澁澤の家は坂上ではなく坂の下あたりにあったのではないかと次第に考えるようになってきてはいた。

あちこち志多町界隈を歩いて探し回ってみた結果、澁澤が書き残したいくつかの手がかりと照らし合わしてみて、おそらく大屋が営んでいたという雑貨屋があったのは、やはり大きな通り沿いに面した場所で間違いないだろうという確信だけはもてるようになってきていた。東明寺橋を渡って市街の外から人がやって来るとき、また川越の街を通り過ぎて熊谷や東松山方面へと向かうとき、必ず人が通行する場所に繁盛した商店はあったであろうから。そして、それが志多町であるということは、札の辻や喜多町の方から坂を下ってきて、坂の下の東明寺の門前の参道と交わる辻を越えたあたりでしかないようにも思えたのである(そもそもが志多町とは、坂の下の門前町であることから志多町(下町)となったといわれている)。

東明寺橋から20~30メートルほど志多町に入ってゆくと、道路沿いの今は砂利が敷かれて駐車場になっている場所の、道に面した端のあたりに、白っぽい石を地中に埋め込んだようなかつての何らかの建物の土台らしきものが残っているところがある。家の壁面があったところの名残りであろうか、もしくは石塀の一番下の基礎の部分であろうか。澁澤は、住んでいた家には御影石の門があったと書いている。もしも、かつて通りに面して大きく立派な門のある家があったとしたら、やはりこのあたりだったのではなかろうかとも思えてきた。その駐車場の感じを見て、そんな風に思えるようになってきていたのである。
そこからちょっと先の、やや通りからは奥まったところに建つ家の敷地内には、古くからありそうなお稲荷さんも確認できた。また、そのちょっと先にも東明寺の門前の参道の脇の家の庭先に、もうひとつ古いお稲荷さんを確認することができる。このあたりならば、坂の下のほぼ平らになっている場所であるので、家の裏あたりに大きな庭とイチゴ畑がある家があったとしても決しておかしくはない。
おそらく寺の門前の参道や、それと交わる大きな通りに面したあたりには、古くから様々な店が軒を並べていたはずである(東明寺は、時宗一遍上人により開山され正応2年(1289年)に創建されたという)。気になった駐車場の近辺には、今も八百屋やクリーニング店がある。また、今は店仕舞いしているようだが、かつては商店であったような表構の古い家なども並ぶ。このあたりに、繁盛していた雑貨屋があったとしても全くおかしくはないような気はするのである。
だが、そこに澁澤龍彦が幼少期を過ごした家があったという確信まではもてなかった。今はただの駐車場になってしまっていて、何もかつての面影を残すものは見当たらない。あまりにもそれらしきものが無さすぎた。そこには、澁澤が過ごした立派な石の門のある家の影や隣りに住んでいた大屋の雑貨屋の影が、あまり見えてこなかったのである。

振り返って、通りの向こう側に目をやった。すると、あまり見慣れぬ景色がそこにはあった。駐車場の前の通りを挟んでちょうど反対側に、ずっと昔から小さな工場があったのだが、それがなくなっていた。そして、その工場跡の敷地の奥の方までが、通りの反対側からも微かに見えていた。この今は更地にされている工場跡が、妙に怪しく感じられたのである。
工事用のフェンスで囲まれた敷地の入口の扉の隙間などから中を覗き込んでみると、そこそこ奥行きも幅もある大きい土地である。子供の頃から、ずっとそこには油で黒ずんだ昭和の匂いのする町工場があった。だが、つい最近になって遂にその工場も操業を止めてしまったようで、今では何もない広々とした空き地になっている。たぶん、今もまだそこに工場があったら、特に怪しいとは思わなかったかもしれない。所々に青々と雑草の生えている広々とした空き地を見て、何かピンとくるものがあったのである。
文政11年(1828年)に編纂された「新編武蔵風土記稿」に載っていた古地図と照らし合わせると、その問題の土地の裏手には、坂の上にある広済寺の境内の真横を通る道から坂の下の新河岸川の縁のあたりまで長々と長屋が連なっていると書き込まれている。もしかすると、その長屋のどこかに箱屋のタッちゃんが暮らしていた可能性は、極めて大きいのではなかろうか。タッちゃんがチンドン屋の練習をしている音が、家のすぐ裏手の長屋から澁澤の家にも賑やかに聴こえてきていたのかもしれない。
工場跡のすぐ横の家は、今はもう何もしていないようだが昔は何かの商店であったのではなかろうか。家の表構もまさにそんな感じである。そして、秋の祭りのときなどに、あのあたりの店の前に志多町の山車に乗せる人形(弁慶)を飾っていたような記憶もある。そして、工場跡の入口あたりには、かつてそこに立派な石造りの門があったのであろうことを伝えるような基礎部分の痕跡も、わずかながらに確認できた。
工場跡の空き地から数軒離れたお宅の敷地の中には、お稲荷さんがあるのを通りから見て確認することができた。だが、このお稲荷さんはちょっとばかり疑わしかった。通りからすぐ見えるくらいの位置では、家の庭のイチゴ畑の外れという場所とは、あまり合致しないように思われたからだ。
そう思って、その付近をウロウロと歩き回っていたところ、遠い過去の記憶の糸を辿っていった先で、どうにも気になるモヤモヤしたものが頭の中に浮かび上がってきたのである。そして、そのモヤモヤを頭の中に抱えたまま、何らかの澁澤の家の痕跡を探すために歩き回っていた坂の下の通りの近辺を一旦離れて、東明寺橋を渡って新河岸川の方へと回ってみることにした。
今はない町工場の裏(かつてのタッちゃんの長屋があったあたり)には、数年前までスーパーマーケットがあった。今はもうスーパーマーケットはなく、真新しいマンションが建っている。子供の頃、よく母親に連れられてスーパーマーケットに買い物にきていた。小学生ぐらいになると、自転車で乗り付けてはよく遊び場にもしていた(店舗の前にコインゲームのような遊具が数台設置されていたような気がする)。そのスーパーマーケットは、一階が売り場で、二階が駐車場になっている造りであった。店舗の表と裏に二ヶ所のスロープがあり、そこから自動車が駐車場へと上ったり道路へと下りたりしていた。母親の運転する車でスーパーマーケットの二階の駐車場に上るのは、いつも上方にグイーッと引っ張り上げられているようで、何だかとてもおもしろく、一緒に買い物に行くのはちょっとした楽しみでもあった。店舗の裏手側のスロープには、坂を下ってくるとすぐに新河岸川を跨ぐ店舗利用者専用の橋があった。そして、記憶のどこかに、そのスロープのあたりか橋のあたりでお稲荷さんを目にしていたような記憶があり、ずっとモヤモヤしていたのである。
最初は、スーパーマーケットの二階の駐車場の片隅に小さなお稲荷さんが祀られていたような気がしていたのだが、どうもはっきりと思い出せない。すでにスーパーマーケットは跡形もなく取り壊されてしまっているので、懐かしいスロープを登っていって確かめてみることもできない。東明寺橋を渡り、新河岸川の川沿いの道を、昔のスーパーマーケットの裏手の橋のあたりまで歩いていってみた。すると、どうだろう。橋のすぐ近くの家の敷地の端っこに、お稲荷さんの真っ赤な鳥居と社の屋根が塀の上からはっきりと見えていたのである。これは、初めて決定的な証拠だと思えるお稲荷さんであった。工場の跡地から北に約20~30メートルほどの位置であり、広い家の敷地の庭にあるイチゴ畑の外れのお稲荷さんという、澁澤が書き残した幼少期の回想文に一番合致しているのがこのお稲荷さんなのではないかと直感的に思えたのである。
そうなると、あの工場のあった場所が、澁澤の一家が暮らしていた大きな貸家のあった場所なのではないかと非常に強く確信をもって思えてくるようにもなってくる。大屋の家であったという雑貨屋は、あの工場跡の隣りの家か、もっと坂を下ってきた通りのカーヴに近いあたり、もしかすると現在は喫茶店のミルキーウェイヴのある場所あたりが、繁盛していた大きな商店のあった場所であった可能性が極めて高いのではないだろうか。ミルキーウェイヴの近くにある家の、すぐに通りから見える位置にあるお稲荷さんは、その大屋の雑貨屋の敷地にあったお稲荷さんであったのかもしれない。

さらに回想文(「沼と飛行船」)に書かれていた、まだ3才位だった頃の澁澤が、ふざけて遊び友だちを突き落としたという家の近く沼のことも気にかかった。はたして、沼の位置はどこだったのだろうか。今は、新河岸川の流れもしっかりと整備されていて、近くに沼らしきものは全く見当たらない。だが、かつては広大な田園地帯であった周辺の土地からは、多くの支流が新河岸川へと流れ込んでいたようである。おそらくは、近隣の農民たちの力では田畑に開墾できないような地面の奥深くまでがぬかるんだ沼地などもあちらこちらに転々と残されていたのではなかろうか。
いろいろ探してみると、新河岸川に架かる多谷橋(二段橋)のすぐ近くに、道灌池と呼ばれる池があったようである。この道灌というのは、江戸城を築城したことで知られる戦国武将の太田道灌のことである。15世紀の半ば頃、新河岸川の流れに沿った志多町のこの近辺には太田道灌の屋敷があったと伝えられている。江戸時代の古地図では、東明寺の東側の一帯が太田道灌屋敷跡となっている(そこには屋敷跡であるとともに多谷寺という寺の名前も併記されているが、太田道灌の屋敷跡は照善院という寺になったという記録も残っている)。澁澤の家があったと思われる東明寺の門前のあたりから東明寺の真横の太田道灌屋敷跡の裏手の多谷橋のあたりまでは、徒歩でたぶん5分もかからない位の距離である。道灌は竿を片手に屋敷から出てくると、新河岸川に架かる土橋を渡って、その池のほとりで釣りを楽しんでいたという。そして、後にその池は、人々から道灌池と呼ばれるようになった。おそらく、この道灌池こそが、幼少期に澁澤が遊んだ沼であったのではなかろうか。
今はもう、道灌池はない。しかし、それらしき場所は、ちょっとした公園になっていて、今も子供たちの遊び場となっている。その新河岸川の横にある公園は、昭和13年頃に市内の水道整備の工事が完成したときに道灌池を埋め立てて、その場所に作られたもののようである(子供の頃(昭和の終わり頃)、あの公園は今のように整備されてはいなかったように記憶している。すぐ横の家の竹林ももっと鬱蒼と茂っていて、雑草類も伸び放題で、かつての道灌池の面影を多少は残していたようにも思われる。ただし、その頃はそう意識して見ていなかったので、ほとんど記憶に残っておらず、すっかり忘れてしまっている。よく学校からの帰りに二段橋を通っていたりしたのに)。多谷橋に堰が出来て、そこに流れ込んでいた支流の小川は道路の下の地中を通るようになり、かつての道灌池もそれとともに埋め立てられてしまったのだと思われる。公園の片隅には、市の水道工事竣功の記念碑が静かにひっそりと建っている。
この公園の場所は、ちょうど新河岸川の流れに農業用水などとして使われていたのであろう支流が交わるところに位置している。その合流地点付近は、おそらく古くから池というか沼地か湿地帯のようになっていたのではなかろうか。幼い日の澁澤が志多町界隈で遊び回っていた昭和初期の頃は、まだ水道工事は完了しておらず、道灌池は今のような形に埋め立てられてはいなかったはずである。記念碑に刻まれた碑文によると、水道の工事は昭和7年に始まって昭和13年に終わっている。澁澤が4才で東京に引っ越してしまうのは、昭和7年のことである。その頃にはまだ工事は始まっていなかったはずだ。それに、すでに昭和6年に澁澤は志多町の家から同じ市内の郭町の御嶽神社付近に引っ越しているのである。よって、3才の頃の澁澤が家の傍の沼で遊んだのは、昭和6年までということになる。その当時、まだ多谷橋のあたりには、あの太田道灌がいた頃とそんなに変わらぬ景色が広がっていたのではなかろうか。
昭和初期、まだ自然に作り出された沼地になっていて近辺には様々な動植物が棲息していたであろう道灌池のあたりは、好奇心旺盛な子供にとっての最高の遊び場になっていたであろうことは間違いない。ただし、3才の澁澤が突き落とした遊び友だちが無事に沼から助け出されたかどうかは、何の記録も残ってはいないし澁澤も特にその後のことについて書いていないので全く消息はわからない。沼地の深みにはまってしまわなかったことを祈るばかりである。
澁澤龍彦と太田道灌は、約500年近い年月の隔たりがあるものの、とても近い場所に住んでいて、同じ小さな池で遊んでいたことになる。また、昭和7年に東京に引っ越した澁澤が暮らすことになったのが滝野川区(現在の北区)中里であった。そして、そのすぐ近くには太田道灌が江戸城の出城を築いたといわれる西日暮里の道灌山がある。このふたりには、何とも不思議な運命の巡り合わせのようなものを感じずにはいられない。

ここから先は

0字

¥ 100

お読みいただきありがとうございます。いただいたサポートはひとまず生きるため(資料用の本代及び古本代を含む)に使わせていただきます。なにとぞよろしくお願いいたします。