真行寺

シブサワがいたところ(五)

(五)追記「寺」

志多町の古いたばこ店と今はもうない古い町工場は、いずれも町の旧家である甲斐野さんによって営まれているものであった。そうなると、何となく気にかかってくるのが、そこからすぐ目と鼻の先の東明寺橋を渡って信号を右折すると見えてくる、新河岸川の対岸の宮元町にある真行寺のことである。真行寺は、浄土真宗大谷派の寺院であり、正式には至誠山成就院真行寺という。至誠が成就して真行となるとは、なかなかに重々しくも壮大なスケールがある寺名である。どこか曰くありげな感じがしないでもない。天正元年(1573年)、真行尼によって真行寺は創建された。真行尼とは、甲斐国の武将である武田信虎の娘の八重姫のことであるという。真行尼こと八重姫は、あの武田信玄の妹であるらしい。つまり、甲斐の武田家のお姫様が出家をして、わざわざ武蔵国の片田舎まで下ってきて寺を開いたということであるらしいのだ。実際に真行寺の立派な本堂の大きな扉には金色に輝く武田菱がしっかりとはめ込まれている。
八重姫は、武田信虎と武田晴信(信玄)という猛将として名高い父子を輩出した武田家にあって、戦乱に明け暮れる世の虚しさを儚み、若くして出家して甲斐の地に庵を結んだ女性であったという。そして、この出家に際して成就院至誠真行尼と号した。武田信虎の娘であれば、政略結婚で近隣の武将の家に若くして嫁がされることは、明らかに目に見えていたことであっただろう。しかし、八重姫は、おそらく周囲の強い反対を押し切って、俗世を捨てる道を選んだようだ。それだけ、人心が乱れに乱れた戦国の世を疎う意志が強かったということなのかもしれない。その後、真行尼は武田家と親交のあった大阪の石山本願寺に向かい修行の日々を過ごした。修行を終えて、再び甲斐へと戻るものの、その時期には兄の晴信が率いる武田勢と信濃の諸豪族との間の戦いがより苛烈なものとなっていた。天文22年(1553年)、真行尼は生国の甲斐を離れる決心をする。このときに岩崎兵庫や若山主計などの武田一門のものも真行尼とともに国の外へ旅立ったといわれる。また、ちょうどこの年から足掛け11年に渡り武田晴信と越後国の上杉謙信が激突した川中島の戦いが繰り広げられている。
甲斐国を出た真行尼は、かつて大阪を目指して西に向かったのとは逆の方角を目指したようである。甲斐の象徴である甲武信ヶ岳を越えて、その先へ進もうとしたのではないかと思われる。そこを源流として流れ出ているのが荒川であり、その流れを辿るように真行尼も東へと下っていた節がある。秩父と熊谷を過ぎて嵐山町のあたりに一旦落ち着くが、その翌年の天文23年(1554年)にはさらに東の川島町虫塚に移っている。さらに、その5年後の永禄2年(1559年)には、虫塚を出て東明寺の近くの新河岸川の川縁にまでやって来て、そこに庵を結んだという。そして、この庵の地が後の真行寺となる。川島町の虫塚から志多町の東明寺のあたりまでは、街道をほぼ真っ直ぐ南に下り、並行して西から東へと流れる越辺川・小畔川・入間川を渡り、一本の道で辿り着くことができる。そういう意味では、真行尼は最初から川越を終着地として目指して一門のものたちとゆっくりと移動をしていたようにも思えるのである。東明寺橋近くの新河岸川の畔(現在の宮元町)に庵を結んでから14年の歳月を経て、真行尼はそこに浄土真宗の寺院である真行寺を創建することになる。真行寺が創建された天正元年(1573年)は、公には秘されていたものの真行尼の兄である武田信玄が亡くなった年でもある。兄の死と寺の創建には、何らかの関係がありそうな気もする。
では、なぜ真行尼は荒川の流れに沿うように東へ向かい川越を目指して長い旅を続けてきたのか。その背景には、やはり北条氏の存在があるようにも思える。天文15年(1546年)の東明寺あたりを主な舞台とした川越夜戦で北条氏康は関東管領上杉憲政が率いる上杉家と関東公方足利晴氏の連合軍を撃破し、川越城を中心とする武蔵国での覇権を確実なものとする。このとき武田晴信を仲介役として係争関係にあった駿河の今川と相模の北条との間で和睦が成立し、ここで今川との停戦がなったことにより、北条氏康は約3ヶ月にも渡って上杉憲政に城を包囲されていた川越城での戦いに全軍を率いて駆けつけることが可能になったという。こうして、夜の闇に紛れて奇襲をかけた北条氏康は、総勢八万ともいわれた敵の軍勢を総崩れにして退散させ、義弟の北条綱成が何とか守り続けた川越城を落城ぎりぎりのところで救ったのである。北条早雲の時代から武蔵国への進出を繰り返していた北条氏は、ようやく孫の北条氏康の代でそれを成し遂げたことになる。そして、その勝利の裏には甲斐の武田晴信との密接な関係があったのである。天文23年(1554年)には、甲斐の武田、相模の北条、駿河の今川の三者の間での不可侵の和平協定となる三国同盟が成立している。これは、武田晴信が本格的に信濃に進攻して越後の長尾景虎(上杉謙信)との戦に専念するためのものでもあった。真行尼が甲斐を離れて東の武蔵国へと向かったのは、この同盟が成立する前年のことである。また、三国同盟の成立により、武田晴信の娘は北条氏康の嫡男である北条氏政に嫁いでいる。これは真行尼にとっては姪にあたる娘となる。
だが、永禄3年(1560年)に大きく流れが変わる。この年の5月19日に尾張国桶狭間にて、織田信長率いる五千の軍勢が今川義元の二万五千とも四万五千ともいわれる大軍勢に勝利し、状況を全てひっくり返してしまったのだ。武田と北条と今川の間で結ばれた三国同盟は、駿河の今川の力が急速に弱まったことにより、もはや体をなさなくなってしまう。真行尼は、桶狭間の前年には、すでに川越にまで辿り着いていて新河岸川の畔に庵を結んでいる。しかし、その庵の位置が、東明寺橋の北側のたもとであり、新河岸川によって隔てられた橋の南側の城下にはぎりぎりのところで入っていないという微妙な位置関係が、武田と北条の近いようで遠い関係性を物語っているようにも思える。北条氏康に代わって城代として城を治めていたのは、大道寺周勝であった。周勝は桶狭間の翌年には亡くなっているが、三国同盟の先行きが不透明になったこともあってか真行尼の動きは、川越に到着してから14年もの間ほとんどなくなってしまっている。
桶狭間で主君義元を失った今川家を巡って武田と北条の関係もこじれ、永禄11年(1568年)には徳川と結んで駿河に進攻した武田と傾きかけた今川に救援軍を送った北条の対立は決定的なものとなり、遂に三国同盟は解消された。これにより北条氏康によって武田晴信の娘は嫡男北条氏政とは離縁させられ、甲斐の地へ送り返されることとなる。この娘が黄梅院であり、離縁の翌年の永禄12年(1569年)に若くして亡くなっている。真行尼は、この姪の死の知らせを川越の地で聞いたはずである。
しかし、元亀2年(1571年)に北条氏康が亡くなると、再び流れが大きく変わる。武田と北条の間の同盟関係が回復するのである。北条氏康の後を継いだ北条氏政にとって、黄梅院の父である武田信玄は義父でもあったのだ。そして、その2年後に真行尼は真行寺を川越の城下の外れに創建する。この年の春に真行尼にとって兄にあたる武田信玄が亡くなっている。真行寺は、武田信玄や黄梅院などを真行尼を始めとする武田一門のものたちが弔う場であったのではなかろうか。また、こうした寺を創建できるほどに、武田家の真行尼と北条氏政の家臣である川越城城代の大道寺政繁との間の繋がりもしっかりとした結びつきとなっていたということなのであろう。北条家にとっても重要な人物であった武田信玄を弔う場であるのならば、大道寺政繁としても創建を反対することはできなかったのではあるまいか。こうして、甲斐を発ってから20年の年月が流れ、遂に真行尼と真行尼の長旅のお供をしてきた一門のものが腰を落ち着かせ拠り所とする場ができたのである。
そして、真行寺の創建とともに、さらに武田一門のものが東の武蔵国へと下ってきて、寺の周辺や街道沿いに居を構えて住み着いたと寺の縁起には記されている。ここで気になってくるのが、志多町で古いたばこ店を営み、今は無くなってしまった甲斐野製作所を営んでいた甲斐野さんのことである。すでに名字に甲斐の文字が入り込んでいるのだから、何も関係はないと思うことの方が難しいのではなかろうか。どうなのだろう。今もあるたばこ店は、真行寺からの距離も近いし、昔から東明寺の参道と南北に延びる街道沿いのとても立地のよい店であったはずだ。甲斐野さんは、今から450年ほど前に真行尼とともに甲斐国から川越にやってきた武田一門の人々と何か縁のある家なのではなかろうか。
信濃国の豪族に海野(うんの)氏という一族がいる。古くは源氏の源義朝や木曾義仲などに仕える東国の武士の中に海野一族のものの名があり、鎌倉時代には小県郡で大きな勢力を誇るにまでなる。後に甲斐国の武田信虎に攻め滅ぼされて一族は滅亡しかけるが、武田信虎の子である武田晴信の代になって信濃の諸豪族とともに再興され海野一族は存続してゆくことになる。その際に武田晴信の次男である武田信親に武田信虎が攻め滅ぼした海野幸義の娘を娶らせ、信親に海野姓を名乗らせたという。この政略結婚により海野氏は正式に武田の一門となったといえる。武田晴信は、信濃の諸豪族と武田家との結びつきを強めることで、忠節を尽くし結束の固い家臣団を形成しようとしたのであろう。武田晴信の家臣となった真田幸隆の母親は海野棟綱の娘(海野幸義の兄妹にあたる)であったといわれ、小県の豪族として海野家と真田家は元々出自的にも非常に近い間柄にあったようである。
この信濃の海野一族の誰かが、何らかの目的や使命をもって、真行尼とともに(もしくは真行尼の後を追う形で)荒川を下るように東へと向かい北条氏が治める川越城の近くにまで移動してきたのではあるまいか。天正10年(1582年)、天目山の戦いで織田信長に敗れ、武田勝頼は嫡男の武田信勝とともに自害して果てる。この戦いでは多くの家臣が織田勢に寝返って、すでに風前の灯となっていた甲斐武田一門を滅亡へと追い込んだといわれている。だが、主家を失い散り散りになった家臣団の中には、かつては同盟関係にあった北条家が治める相模や武蔵へと逃走したものも少なからずいたであろうし(あの小山田茂誠のように)、川越城の北に創建されていた真行尼の真行寺を目指した武田一門のものもいたのではなかろうか。真行寺の縁起によれば、3月11日に甲斐武田家が滅亡したのと同じ年の大晦日に武田勝頼の次男である武田靖清(靖千代)が真行尼の後継として入寺している。武田靖清の兄である武田信勝が父の武田勝頼とともに天目山で自害した際、まだ16歳であったというから、織田信長の追っ手を逃れて真行寺まで落ち延びてきた武田靖清も、このときまだかなりの若年であったと思われる。おそらく、誰かが武田靖清の逃走を手伝い、目的地の真行寺まで無事に送り届けたということなのであろう。このときに数少ない甲斐武田家の生き残りのひとりである武田靖清に付き添ってきた武田の遺臣や一門のものたちもいたのではなかろうか。こうして、真行尼や武田靖清とともに信濃や甲斐から川越の真行寺近辺にやって来て街道沿いに住み着いた武田一門のものの中に海野一族のものがいたとしても何らおかしくはない気がするのである。この後に武田靖清は出家して善西と号し、真行尼の後を継いで第2世の真行寺院家となる。
武田晴信の妹である真行尼から武田勝頼の次男である善西へとバトンが渡されたことで、真行寺において武田家の系統は保持されてゆくこととなった。そして、その流れは現在にまで脈々と続いている。真行寺は、数少ない甲斐武田家が生き延びてゆく場のひとつとなっていたようだ。武田の遺臣や残された一門のものたちも、東へ下り川越にまで来て、おそらく最初は形だけのつもりであったのかもしれないが、武士の身分を捨て真行寺や東明寺の寺の門前で様々な商売をする商人となっていったのではなかろうか。そして、その際に名前も変えたものもいたのかもしれない。川越城の城代である大道寺政繁にわざわざ武田勝頼の遺児を連れてきて武田家の再興を画しているのではないかと怪しまれたりしないように。武田家や真田家と強い結びつきがあり、戦国の世の関東一円においてはかなり知られた名であったであろう海野家のものも、そのままの名でいては、いろいろと面倒なこともあったのであろう。そこで、頭の「うん」と読んでいた海の字を「かい」と読み替えて、縁のある甲斐の字をあててみたのではなかろうか。信濃を離れ武士の身分ではなくなったが、甲斐の武田家と繋がりのある由緒ある家であることの証左を、名字の中にしっかりと残しておきたかったのであろう。志多町の甲斐野さんが本当に海野一族と何かしらの関係があるのかどうかは全く分からない。もしかしたら、そんなこともあるのではないかという程度の話でしかない。
また、さらに気になってくる部分もある。あれこれ関連史料を探し回ってみても、武田晴信や武田勝頼の時代の武田家の人々について記したものの中に、なかなか八重姫や武田靖清に関する記述は見当たらないのである。本当にそういう人がいたのかどうかも定かではない。系譜図などを見てみると、それらしき人はいたようであるが、それが八重姫や武田靖清であると特定できる詳しい記載は一切ないのである。さらには武田勝頼の次男は武田正晴といったという情報までもがある。戦国武将武田信虎の娘であり躑躅ヶ崎館にて姫として大事に育てられたであろう真行尼が、激動する戦国の世にわざわざ武蔵国の川越までやって来て寺を創建したという話が、史実なのか後の世に形作られた伝説的な逸話であるのか、全く定かではないのである。
16世紀中期に武田信虎の娘である真行尼によって真行寺が創建され、武田勝頼の次男である善西がその後を継いでから、すでに約450年近い年月が流れている。しかし、今も変わらずにこの寺は武田家の人々によって守り続けられている。つまり、真行寺は今も真行尼の頃と変わらずに武田さんの寺なのである。おそらく、この約450年間全く変わらずに。同じ町内の宮元町にある真行寺には、同じ小学校と中学校に通った同級生がいた。そのお寺の娘さんは、やはり武田さんであった。とても頭のよい優等生で、お寺の娘さんらしくどんなときもピシッとしている人であった。今思えば、学年全体の中でも常にリーダー格で、戦国武将の血を引いているような雰囲気もすごくあったように感じる。武田家は古い名家でもあるわけだから、きっと幼いころから厳しく育てられていたのであろう。ひょろひょろで物静かな、いるのかいないのか分からないような少年であったぼくと、学校内でも常に目立つ存在であった武田さんとの間には、あまり接点らしい接点もなかった。小中学校の9年間を一緒に同学年で過ごしていたはずなのだが、たぶんまともに話をしたことはほとんどなかったのではなかろうか(ほとんどの同級生とまともな話しはしていないといえばしていないのだけれど)。基本的に、小さい頃から女の子と話をするのがとても苦手であったということもある。どちらかというと武田さんは活発でリーダーシップがあり男勝りな雰囲気な女の子であったというようには記憶している。
真行寺の敷地の一画には幼稚園もある。それが真行寺の武田さんが営んでいるルンビニ幼稚園である。同級生だった武田さんが現在の園長先生であるようだ。同じ町内のことながら、今まで全く知らずにいた。真行寺や真行尼のことをあれこれ調べているうちに、幼稚園のホームページを見つけて、そこで初めて知ったという次第である。そして、そのホームページに掲載されているルンビニ幼稚園のこれまでのあゆみを見てみると、そのルーツは昭和5年(1930年)に寺の境内において始められた日曜学校にまで遡ることができるようである。その後、真行寺の日曜学校は、川越市北部託児所や川越北部農繁保育所と名称を変え、昭和30年(1955年)にルンビニ幼稚園となったようだ。最初は、日曜学校として、近隣の子供たちを集めて寺の本堂で説法をしたり広い境内で遊戯をしたりする催しであったのであろう。そして、その集まりが段々と進化して、昼間に子供たちを安心して預けておける託児施設や子供たちの成長を促す保育や教育の施設という側面が強化されていったのではなかろうか。かつて、東明寺橋の北側、つまり川越城の城下町の外側にあたる新河岸川の北側には、見渡す限りの田園地帯が広がっていたはずである。そこには稲作に勤しむ多くの農家があり、農繁期には大人たちが朝から晩まで田畑に出ている間に放っておかれる子供たちもいっぱいいたのであろう。そんな小さな子供たちを近隣の田んぼからもよく見える位置にあったのであろう寺で預かって親に代わって面倒を見てあげるような託児保育所のような施設としてルンビニ幼稚園はスタートしたようである。
すると、そこで気になってくるのが、真行寺の日曜学校が始まった昭和5年(1930年)という時期である。昭和3年(1928年)生まれの澁澤龍彦は、昭和7年(1932年)までの4年間を川越で過ごしている。この日曜学校が始まった頃は、ちょうど東明寺近くの志多町に住んでいたことになる。宮元町の真行寺からは、おそらく徒歩で3分もかからない距離に澁澤の住んでいた家はあったはずだ。ただ、当時まだ2歳児か3歳児ぐらいだった澁澤は、真行寺の日曜学校には参加していなかったものと思われる。父親は武州銀行の副支店長であり、志多町の家は借家でありながらもかなり立派な家であったようなので、近隣の農家の子供たちが集まっているお寺の日曜学校などには両親が通わせなかったのではなかろうか。また、澁澤家には女中がいて子供のよい遊び相手になってくれていたようだ。よって、真行寺の日曜学校のような託児保育施設も必要とはしていなかったのであろう。しかし、好奇心旺盛であったに違いない澁澤少年のことであるから、志多町から下駄履きで東明寺橋を渡り、真行寺の日曜学校とはいかなるものであるのかを確かめに、ちょっと覗きに行くぐらいのことはもしかするとしていたのかもしれない。幼稚園を入園前に下見に行っていたという早熟幼児だったタモリのように。

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