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年末年始 2020/2021

雪が降りそうなくらいに寒かった二〇二一年一月十二日。TBSラジオの「ジェーン・スー 生活は踊る」において、一曲目にプリファブ・スプラウトの「ホエン・ラヴ・ブレイクス・ダウン」が流れた。ほら、ぼくらって「スティーヴ・マックイーン」を聴いて、「うわー、なんだこれー、最初から最後まで全部いい曲だらけじゃん。こんなアルバム、初めて聴いたよー」なんていって大感動していたような世代じゃないですか。なので、あの曲のイントロがラジオから流れるだけで無条件に脊髄反応してしまうわけである。つまり「ホエン・ラヴ・ブレイクス・ダウン」で、気分上々でノリノリになれてしまうわけなのだ。たぶん、あの遠く過ぎ去りし日に「スティーヴ・マックイーン」を聴いて、一発で完全に撃ち抜かれてしまった感覚というのは、六十年代の少年少女たちがビートルズのレコードに初めて針を落として雷に打たれたように衝撃を受けた感覚と、それほどの違いはないのだろう。それくらいに「スティーヴ・マックイーン」はすぐに特別なアルバムになったし、最後まで聴き終わってレコードとインナースリーヴをジャケットの中に収めてから再度ジャケットのデザインをしげしげと眺めて、まるで自分だけの宝物を掘り当てたかのような気分にどっぷりと浸れてしまう逸品であった。しかしながら、「ホエン・ラヴ・ブレイクス・ダウン」はイントロのフレーズのリフレインを軸にメロディを反復させ、まるで波が寄せては返すように起伏をつけて展開してゆく高度なつくりの楽曲だけに、聴きようによっては延々とイントロが続いているようにも感じられて、実はあまりラジオ向けではないのかなという印象も受けた。微かな起伏を静かに繰り返しながら終盤の熱のこもった展開へとぐんぐんとなだれ込んでゆく曲構造であることを考慮すれば、やはり最初から最後まで流れないとどうにもならないなあというところもある。
そして、このときに、いきなり「ホエン・ラヴ・ブレイクス・ダウン」で気分上々になれてしまえたのには、もうひとつ個人的な理由もあった。その前の日の夜に、ちょうどパディ・マクアルーンについてあれこれと考えていたのである。なぜか「プロテスト・ソングス」の収録曲が、ふとした拍子に頭の中に流れ出してきて、そのまま延々と流れ続けるということは実はよくある。ちょっと前には「ダブリン」で、このときは「ザ・ワールド・アウェイク」だった。そうこうしているうちに、いろいろ聴きたくなってきてしまい、ユーチューブを漁って「ライフ・オブ・サプライゼス」や「トーキン・スカーレット」、「パーリィ・ゲイツ」などを次々と聴き倒してしまった。やはり、こちらのアルバムもご多聞にもれず名曲揃いなのである。一時はお蔵入りになってしまっていて、ようやく日の目を見た「プロテスト・ソングス」には、瞬時にして大金字塔となってしまった「スティーヴ・マックイーン」とはまた違った深い思い入れがある。アルバム自体としては当時の専属プロデューサー的な存在であったトーマス・ドルビーのプロデュース作品ではなくて、どちらかというとトーマス・ドルビーがプロデュース作業をする前の段階というか、ただただシンプルにデモ・テープに毛が生えたぐらいの状態で歌そのものが並べたてられているだけの作品のたたずまいに、なんともいえないグッとくる手応えがあった。それにやはり、どうしたってお蔵入りにしてしまうのは本当にもったいないくらいの粒揃いの好曲ばかりなのだからたまらない。派手さは決してないが、メロディの良さやソングライティングのセンスだけで勝負している感じがむき出しで、聴けば聴くほどに味わいが増してくる。そんな、とてもよい作品集となっているのである。特に「ホース・チャイムズ」は、聴くたびに胸のあたりが重くなるような複雑な気分にさせられる。まだ十代の少年が前のめりになって聴くには、あまりにも大人の歌であったということだろうか。たった数分の曲を聴くだけで人間の理性や感情の抑制を揺るがしてしまえる音楽があることを、この楽曲によって初めて知った。いまだに「ホース・チャイムズ」を聴くときは、ちょっと身構えてしまう。おそらく、ほとんどの人にはなんの変哲もない歌にしか聴こえないのかもしれないが。「プロテスト・ソングス」には「ホース・チャイムズ」よりもいい曲がいくつも収録されているのに何故という指摘があることもよくわかっている。そして、その意見に対しては反論をとなえるつもりは毛頭ない。しかしながら、「ホース・チャイムズ」は十代の頃の個人的な思い出とも強く結びついていて、なんともいえない特別な思いが入り混じる楽曲となってしまっているのである。平たくいえば、まああれこれといかがわしいものをひとりで読み漁ったりしていたことが影響したのであろうが歌詞のイメージにに変に反応してしまって、聴くたびにいろいろとホース・チャイムズが何かの隠喩でそれが鳴る音が何かの暗喩なのではないかなどなど妄想を大きく膨らませていたというだけのことなのだけれど。で、とにかく「プロテスト・ソングス」の曲をあらためて聴き返してみながら考えていたことというのは、今となってみればあのパディ・マクアルーンがあまりにも低い評価しか得られていないような気がしてならず、どうしてこんなことになってしまったのかと訝しげに思わずにはいられなかったのである。あの当時、間違いなくパディ・マクアルーンは世界で最も優れたソングライターのひとりであった。いまだに色あせないプリファブ・スプラウトのアルバム群を聴けば、そのことは誰の耳にも明らかであろう。ここ三十年以上に渡りパディ・マクアルーンが五線譜の上にしたためたメロディは常に時代を乗り越えて勝ち残り続けてきた。しかし、それぞれの時代を代表するポピュラー音楽の作曲家として、バート・バカラック、筒美京平、キャロル・キング、ボブ・ディランあたりの名前はちょくちょく見かけることがあったとしても、そこになかなかパディ・マクアルーンが名を連ねるというようなことはない。あの八十年代という大波小波が荒れ狂う狂騒の時代にあって、天を衝くほどの才気をほとばしらせていた当代随一のメロディ・メイカーであったと思うのだが。ただし、そんなすさまじい出来栄えのものであるはずのプリファブ・スプラウトの名曲群を、わたしたちはあまりにもごく普通のものとして聴きすぎてしまっていたという部分は確かにあった。時代はニュー・ウェイヴこそが正義という雰囲気が充満していて、常に前のものより新しく向上してゆくのが当たり前なのだとわれわれは思い込んでいた。だから、プリファブ・スプラウトがすごいアルバムを作っても、田舎の中高生がさもありなんと平然と耳にするような仕儀となってしまっていたのである。当時、もっと中高生たちが「パディ、すごい。パディ、すごい」とうるさく騒ぎ立てていたならば、またちょっと違った展開もあったのかもしれないが。若者の間でプリファブ・スプラウトがバズりまくって、もしかしたら「香水」のようなことになっていたのかもしれない。いや、あんなことにならなかったからこそパディ・マクアルーンはパディ・マクアルーンのままでありつづけられたのだろうし、逆にそういう時代であったことが幸運でもあったということなのであろうか。
年末になってようやく初めてちゃんと瑛人の「香水」を聴いた。TBSラジオで。たぶん、あれは「第62回輝く!日本レコード大賞」のラジオ中継であったと思われる。まず真っ先に受けた印象は、これはビル・ウィザーズを現代の日本向けに加工し直した感じなのかなというものだった。どこにでもいる普通の人がその辺に転がっていたギターを手にしてポロポロと爪弾きながら鼻歌まじりに曲を作っていたら、こんな感じになりましたといったような風でもあった。木訥としていながらも、どこかみんな狙って組み立てられているような雰囲気の歌とメロディ。個人的にはあまり引っかかるところはないのだが、今の世間や大衆の感覚というのはあまりよくわからないものである。よくわからないから、これがバズるのか。そこが狙いなのだろうか。そのまま聴いていると、だんだんと初期のRCサクセションにあったすっとぼけた感じの令和版なのではないかとも思えるようになってきた。すっとぼけてはいるけれど、その裏もなければ深みもない。なんなのだろう、これは。不思議な不気味さのある歌である。これが巷で大人気だというのだから、やはり今というのは本当に大きな時代の変わり目であり揺籃期であるのだなあとつくづく思わざるを得なくもなってくる。びっくりだ。おとろしい。
そして、まことに遅ればせながらニジュウの「メイク・ユー・ハッピー」も年末になって初めてちゃんと聴いた。思った以上にというか、思いの外もろに韓国のガールズ・アイドル・グループが日本語で歌唱しているような雰囲気を感じさせる曲調や歌い方が強烈に効いている作りになっていて、やや面食らった。これならば、本場韓国で売れているKポップ・グループの日本語歌唱曲を聴いたほうが、より真に迫った感じを味わえるのではないかと思うのだが、どうなのだろう。それだけ現在の日本の少女たち若年層の韓国のファッションやメイク、若者文化への憧れがとても強く、そのひとつの象徴的な表れとしてのニジュウのあの歌がありそれが大人たちの狙い通りに堅固な支持を得ているということなのか。そして、今やKポップのスタイルこそがグローバルなエイジアン・スタンダードになりつつもあるのだろう。往年の沖縄アクターズスクール調よりもKポップのアイドルのように歌って踊るほうが、きっと断然可愛らしいし親しみやすい形式なのである。この時代の流れは、そうそう変わることなないのだろうなあとニジュウを聴きながらふと思ったりなどしていた年末であった。
はてさて、この年末年始といえば、もはや人災的な側面も非常に強くなりつつある新型コロナウィルスの爆発的感染拡大や桜を見る会の前夜祭などをめぐる政治と金のあやしい問題など色々なことがあったわけだが、年末年始にTBSラジオを聞いて「ネスカフェ ゴールドブレンド バリスタ ダブリュー」を当てようキャンペーンがあったことも決して忘れてはならない。年明け早々にバリスタがもらえるというのは、まさにお年玉感覚で実に結構なことである。だが、それ以上に年末年始にTBSラジオを聞くということは、桜もパンケーキも吹っ飛ぶぐらいに相当な大事であるのではないか。なんてったって、年末年始にTBSラジオを聞いているということは、吉野ママやハコちゃんの話を聞いてしまうということでもあるのだから。師走も押し迫って吉野ママ(吉野寿雄)で年明けにハコちゃん(岩下尚史)とくる。まさに世にも怪(快?)なる異世界からの波状攻撃である。もうこうなったら年末年始といわず恒久的にまともな道をあゆんでゆくことなどできやしなくなる感染者続出であろう。年末年始にTBSラジオを聞いて躓き道を踏み外すのもまた一興。ハコちゃんは夢にユニフォーム姿の大谷翔平選手が出てきて舞い上がり、何もせずにそのまま帰してしまったことを大いに悔やむ。そして、かつての自分であればと鼻息を荒くし、ハコちゃんビンビン物語なる珍フレーズを思わず口走る。なんなのだ、この身も蓋もないほどに剥き出しの人間臭さは。TBSラジオ、おそるべし。神田伯山は、ラジオは大人の本音が聞ける場所だとおっしゃっておられるが。
この世の中、ほとんどすべてイイネで動いている。みんながイイネとなるようなものを、みんながみんな求めて欲しているからである。人工知能で視聴者の欲望を満たすプログラムをプログラムするネットフリックスを筆頭に、みんなのイイネばかりに全力で応えるメディアに取り囲まれた現代人の生活。みんなで同じ番組を観て、みんなで一緒にエモくなる。初期のRCサクセションであれば、それを烏合の衆と揶揄して歌ったであろう。その歌声も今はもうみんなの最新のイイネの嵐によってかき消されてしまった。みんなと違うことをして少しでも道を踏み外してしまったら、もうみんなと同じようには生きてはいけない。烏合の衆にもなれないということは最悪の悪夢である。みんながみんな同じ方向を向いて、みんなと一緒のわたしにまどろんでいる今、もしかするともはやラジオだけがちょっとやばいものややばいひとに触れられる貴重な場所であるのかもしれない。ラジオをつけて耳をすませば、ちょっと変なものを聞くことができたりする。全体的社会的事象も及ばぬナマの言葉のマナ。ちょっといかれたひとたちの最後の楽園。それでも、聞けば見えてくるし、何かが始まる音がする。
少年の頃に小さな携帯ラジオでよくAM放送を聞いていた(登山用にだろうか叔父が使っていたちょっとミリタリー調の小さいけどゴツいトランジスタ・ラジオをとても気に入って譲ってもらった)。暗くした部屋で、布団の中にもぐり込んで。スイッチを入れ、身体を小さく丸めて、片耳イヤホンで聞いた。なぜか気象通報ばかり聞いていたような記憶がある。南の海の果ての小島からソ連の港まで。ここではないどこかとてもとても遠くから、自分のためだけに天候や気圧の情報を伝えてくれているような感じがして、じっと身動ぎもせずにその音声を聞いて楽しんでいた。あまりにも暗い、救いようがなく根暗な趣味である。だが、そんなへんてこでほとんど現実社会に適応できていないような少年にもいっときの楽しみを与えてくれるのがラジオというものだった。ラジオは誰も取り残さないし、あえていえばそういった取り残されそうになっているやっかいもののためにこそそこにいつもあった。そして、それは今も変わらずにそうであろうし、みんなのイイネに振り回されてみんながみんな自分を見失ってしまっているような時代においては、どんなに屈折してしまっていても適当な入射角でもってすべてを受け入れてくれるラジオがこれまで以上に求められてくることにもなるのかもしれない。常に斜めからで一向に構わない。まっすぐにイイネするようなものは逆にラジオにはね返されてしまう恐れがなきにしもあらずだ。
もともと、まだイイネなんてものがなかった時代から、みんなはみんなと一緒がずっと大好きだった。だから、インターネットやSNSという便利なツールが発達し普及して、もっとみんながみんなと一緒になりやすくなったり、みんながみんなと一緒だということを確認しやすくなるということは、みんなと一緒が大好きなみんなにとってはとっても幸せなことであったりするのではなかろうか。だが、今も昔もみんなと一緒があまり得意でなかったり好きでなかったりする人というのは変わらずにいるものなのである。そして、かつてはそうしたものたちがあっさりと道を踏み外してあっさりと主流から離脱してしまえるような仕掛けが、あちらこちらのいたるところでまるで獲物を待ち構えるかのように大口を開けていた。
池袋の東武デパート(ブランデート東武)をエスカレーターでずんずん上へ上へと上ってゆくと広大な旭屋書店があり、そのさらに奥地には五番街というレコード店があった。明るく広々とした店内には幾列ものレコードのクレイツ・エサ箱がずらりと並んでいた。邦楽・洋楽のポップスやロックにクラシック、そして輸入盤まで。さすが都内の専門店だけあり品揃えがとても豊富で、あれこれ見て回るだけでもまったく飽きることがなかった。地元の丸広の山野楽器は洋邦問わずすべてのレコードだけでなくカセット・テープのコーナーまでじっくり何度も何度も見て回っていたのでちょっと飽きてしまっていた(すぐ隣の紀伊国屋書店と山野楽器を何度も行き来して、週末は日がな一日ずっと本とレコードを見て回っていた)。五番街の店内をうろうろと歩き回っていると、一番隅の少し奥まったところに少し雰囲気の異なる一帯があった。自主制作盤のコーナーである。そこには、誰も知らないような、どこにも紹介されていないであろう、まったく得体の知れないレコードが、変な存在感を放って並んでいた。その脇には、都内のライヴハウスや大学で行われるライヴのチラシが、山のように積み重なり折り重なり、所狭しと置かれた様々なフリーペーパーやファンジンの類いともごちゃ混ぜになって、かなりカオスな売り場の様相を呈していた。そこでは、見るもの触れるものすべてが見たことも聞いたこともないようなものばかりで、なにやら未開の地をゆく探検家にでもなったかのような気分になれた。様々なおもしろそうなものを新発見して胸が躍る一方で、本当にここに深入りしてもよいのだろうかと一抹の不安や困惑が常に心のどこかでくすぶってもいた。これこそがまさに道を踏み外す仕掛けであることが直感的に感じられていたからであろう。そこに足を踏み入れると、もはや後戻りはできない。気がつけば、わざわざ電車で五番街までいって自主制作盤をちまちまと買い求めるようになっていた。シングル盤のレコードは手頃な値段で買えるものもあったのだが、主に目当てにしていたのは、さらに低価格で販売されていたソノシートであった。剥き出しのソノシートをビニール袋に入れて、コビーして手作りしたような紙のペラペラなジャケット・アートワーク風のものがついて、安いものでは百円か二百円ぐらいで購入することができた。聞いたことがないアーティスト名だけど、何やらこれはすごそうだぞと思って買った安いソノシートを、家に帰ってさっそく聴いてみたら、工場のベルトコンベアの音のような機械音のループがだらだらと続き、そこに時折メタル・パーカッションか鉄屑かを叩く音が微かにガシャガシャしているだけという作品が、ほとんどホワイトノイズでしかない粗悪な音質で収録されているという内容で、逆になんじゃこりゃすげえすげえ的な気分になってしまったりもした。普通の感覚では、何やら酷いものを買ってしまったなとなるところかもしれないが、機械的に反復する妙なノイズのわけのわからなさが気になってしまいついつい何度も繰り返し聴いていた。このとき価値観の転換はもうすでに起きていたようだ。忌野清志郎と坂本龍一の「い・け・な・いルージュマジック」のB面「明・る・い・よ」でも機械的に反復するノイズがはっきりと聴こえていたことを思い出し、こういう変なものの方が最先端でニュー・ウェイヴなのだと思っていたようなところもあった(実際には機械音というよりもダブ処理した楽音のディレイのループか)。つまり、テレビから流れるアイドル歌手の歌よりも五番街で買う自主制作盤の珍妙なノイズの方が断然上位のものになっていたのである。こうなるともはや完全に道を踏み外してしまっている状態だといってよい。
そういった少しばかりだがかなり大きく異なっているオルタナティヴな世界へと道を踏み外すことになる仕掛けは、今やもうほとんどそこらで見かけられなくなってしまったのではなかろうか。どこもかしこもソレナの一言で事足りるわかり味の高いものばかりで、そう簡単には道を踏み外してしまえる余地すらないのが本当のところなのだろう(人の道を外れることに関してはどんどんハードルは低くなっているように感じるが、それとこれとはまったく別の話である)。だから、めぐりめぐってラジオなのである。聞けば見えてきたり、何かが始まる音が聞こえた時点で、もうかなり道を踏み外してしまっているのである。音楽配信のサブスクリプション・サーヴィスにおいてソノシートで出たローファイ・ノイズを聴くことはできるだろうか。思ってもみないようなものに出会う確率は、ラジオのようなある意味太古から変わらぬ様式を保持しているメディアの方が高いかもしれない。電波と音だけという制約の中で他にないものを追求し続けたことで、どんどんどんどん大通りからはズレていってしまっている。その結果として、重箱の隅に追いやられていたはずのラジオが、知らず知らずのうちに思いもかけず現代において突出してしまうことになったようだ。そこに迷い込めば、誰でも思わぬものに出会すことになるだろう。偶然に。しかし、その道を踏み外す準備ができているものの前にだけしか新たな別の道はひらけない、のである。
敗戦からまもない時期、どこもかしこも何もなかった時代。街は空襲で焼け野原となり、かつての賑わいは見る影もない。1946年、坂口安吾は「人間は生きそして堕ち、そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない」と書いた。何もかもがなくなってしまった街には、もはや街を街にしていたものはほとんど何も残ってはいなかった。それでもそこで日本人は生きていた。街が荒れ野に堕ちたように、堕落した街にふさわしい生を人々は営むようになる。若き日の吉野ママもたくましくその時代を生き抜いた人間のひとりだ。銀座の百貨店、和光や松屋は進駐軍によって接収され、進駐軍の軍人専用の基地内売店、PXとしての営業のみが許可されていた。敗戦国の日本人が入店して買い物できるような場所ではない。だが、吉野ママは欲しいものがあると親しくなった進駐軍の兵隊に頼んでPXで買い物をしてきてもらったという。しかし、そんな輸入品の物品をぽんぽんと買えるほど懐事情はよくはなかった。なので、進駐軍の兵隊とはいつも物々交換をしていたようだ。そのときに吉野ママが物々交換用に差し出していたのが、自らの〈カラダ〉つまり身体であったと実にあっけらかんとラジオで述懐していた。この、いかにも戦後の混乱期らしい身体を商品化する物象化の原初形態と銀座の街の堕落の有り様をまざまざと目の当たりにして、流石の安住紳一郎も「さすが、ザ・昭和史」と愚にもつかないリアクションをするので精一杯であったのは、近年まれにみるちょっといいラジオであった。たぶん頭では理解していてそういうものだとわかってはいたはずなのだけれど、いきなり吉野ママの口から飛び出してきた生々しい〈カラダ〉という言葉に、さすがのヴェテラン・アナウンサーも一瞬たじろいでしまったのだろう。戦争という害悪が、そうしたもはやザ・昭和史と呼ぶしかない日本人の堕落と社会の荒廃を招いた。見渡す限りの焼け野原で、いつしか日本人は心の奥底まで干からびてしまっていた。それでも吉野ママのような若いゲイ・ボーイズやパンパンなどの街娼は、したたかに廃墟の街を生き抜いていたのだが。しかし、誰もがみな生きるために救うためにそこまでしたたかに堕ちることができていたわけではない。見渡す限りの焼け野原は、ほぼ完全に干上がってしまっていた。ただ生きるだけで精一杯であった人々にとっては、まさに救いのない日々であったにちがいない。そして、今まさにまた街は焼け野原になり、からからに干上がってしまいつつある。吉野ママのようにしたたかに生きて堕ちようにも、そこに物々交換できる進駐軍なんていないのだ。感染症の猛威に怯えながらただ生きるだけで精一杯でどこにも救いというものがない。冷え込んだ経済状況を元気に生かしておくためなら、いくらでもカンフル剤が(出たとこ勝負で)投入される。経済を回すためであれば、後先構わずキャンペーンを打つ。急ごしらえなザルのような制度で中小企業や店舗へ支援や給付が行われるというが、必要なところには雀の涙ほども届かない。本当に切実に救いを必要としている人々をまったく救うことができない政治。もはや新自由主義の出る幕ではないというのに頓珍漢な頭の構造をしているせいかいまだにしぶとく新自由主義が香りたつパンケーキの夢を見る内閣。特別定額給付金はなぜそれほどまでに忌み嫌われ疎んじられるのか。一人十万円の臨時収入があったからこそ、懐具合に余裕ができて秋の行楽シーズンにGoToトラベルを利用して家族旅行に繰り出した世帯だって少なからずあったのではないのか。だから、四千万人ともいわれる人々がキャンペーンに参加したのだろう。それもこれも、あの特別定額給付金があったればこそなのではなかったか。それくらいに給付金は経済を回すために、もしかすると上級の人々にははっきりと目には見えないかもしれないけれど、大きな意味をもつものなのである。定期的に特別定額給付金を出しておくことは、いつか社会状況が安定したときに力強く経済を盛り上げてゆくための大きな底厚い踏み台となるはずである。一面の焼け野原になって、からからに干上がってしまって、多くの人々の懐がすってんてんでは、どんなに素晴らしいキャンペーンを企画しようにも、参加するのはほんの一部の富裕層ぐらいのものでしかないだろう。そこには目に見えて不公平感が漂いまくるはずだ。後々のことまで考えて最もものをいうであろう施作は、やはり特別定額給付金だと思うのだが。なぜ、これは忌み嫌われ疎んじられるのだろうか。なんの見返りにでもなく、ただ津々浦々の人々が給付を受け取って、ほくほくしている顔を見るのが、口惜しくてたまらないのであろうか(「努力しない人にはドライ」)。ポトラッチしろ。日本銀行の総裁は、必要とあらば躊躇なく追加的な金融緩和の措置をとるなどとまだいっている。相変わらずである。どれほどの実体なきマネーを無駄に市場に突っ込めば満足するのだろうか。グローバリゼーションという地球規模で入り組んで繋がったの枠組みの中で稼働する為替市場は、もはや日本企業の業績や日本の経済状況といったさらに輪をかけて掴みどころのないものを反映して動いているのでは決してない。東証なんていうのはもはや名前だけで、時代遅れのナシオナルな幻想を無理矢理に展開させたIR統合型リゾート施設のようなものなのではないか。主にそこを遊び場にしているのは海外の投資家ばかりである。BC時代の構造がいまだに堅持されているところに真水だか色付きの水だかをいくらぶちまけたとしても、その流れはすでに決まったルートを流れてゆくだけでまったく循環はしない。それは、今もうあるところにどんどん溜まり、もうすでに乾ききっているところはさらに干上がる。それならば、ほかの道をどうにかして見つけなくてはならない。だから特別定額給付金なのではないか。干からびた荒野を少しずつでも潤しておくだけで、未来は大きく違ってくるだろう。夕飯の食卓に並ぶおかずが一品か二品増えるだけで、そんな些細なことだけでも経済の基盤は崩壊せずにしっかりと持ちこたえるはずである。そして、そんな些細なことだけで社会の景色も空気感も全然異なってくるだろう。われわれの多くはもうすでに給付金でなんとか凌いで生きて堕ちる覚悟ができている。あとは、そこに救いとなる生き残るための便利な近道が用意されればよいだけのことなのだ。さあ、どうした。生きよ、堕ちよ。求む、食い扶持とやらを。

(2021.01)

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