見出し画像

日曜日の落語

2021年11月07日
TVK「浅草お茶の間寄席」。三遊亭天どんの「宮戸川」。モアイと獣を掛け合わせたような野趣あふれる雰囲気にじわじわと忍び寄る老化の色合いがプラスされ、なんともいえない過渡期の相貌を見せ始めている。ゆえに、いまだギトギト感を残しつつも萎びている初老風の造形というのは、今でしか味わえないものなのかもしれない。そう考えると、そこそこ貴重か。でもまあ、噺家なのでどう見えていようがどうでもいいといえばどうでもいい。そんなものは芸のあるなしに比べれば本当にどうということはない。細々とくすぐりを入れたり、ちょこちょこと素で話したり、自由自在にうねうねとくねる巧みな語り口は、もはやいやらしいくらいの老獪さを匂い立たせてもいる。というわけで天どんの「宮戸川」は、実に手馴れた調子でつるつるつるつると話が弾むように進んでゆく。これといった引っ掛かりもない流れで、あれよあれよという間に半七とお花は霊岸島の叔父さん宅の二階に上がってしまう。うら若き男女が狭い一間でひとつの布団を分け合って寝たりなんかしたら、いったいどうなる。どうなる、どうなる。どうなるのさ。その答えは、天どんが高座にひっくり返って豪快なステテコ芸を繰り出して、まさに目にも鮮やかにアクロバティックに表現してみせてくれた。ふつう「宮戸川」を演る場合は、いよいよこれからというところで講談風に「ちょうどお時間となりました」とさっさと切り上げてしまうものであるのだが、天どんは翌朝までいく。そして、むりやりにまだやるのかというようなくすぐりめいたオチをつけて幕。この完全に蛇足な展開のおしつけがましいまでのくどさも、らしさといえばらしさなのだろうか。ほかの噺家にはあまりない味ではある。そんな独自色のあるちゃらけた芸風の源流をたどってゆくと、明治前期に大活躍した初代の三遊亭圓遊にぶちあたる。圓遊といえば着物の裾をまくり上げて立ち踊りをかますいわゆるステテコ踊りで寄席を席巻し一世を風靡した滑稽落語の噺家である。おそらく圓遊にしてみてもステテコ踊りから百年以上の時が流れてもまだステテコで笑いをとっている噺家がいるなんてことは予想だにしなかったであろう。それでも近代大衆寄席文化の礎を築いたステテコ芸の伝統は、天どんの手によって受け継がれしっかりと守り通されていることだけは確かなのである。そこは侮れない。また、昭和の大名人である六代目三遊亭圓生はおどろおどろしい「猫定」(回向院猫塚の由来)を熱演し、長屋の通夜に参列した按摩の三味市が目の前にある棺の中で死人が立ち上がっていると聞いて大変に驚いて目をまわしてしまうという場面で、本当に後ろにぶわっと倒れ込み着物の裾を乱してひっくり返らんばかりになっていた。このひっくり返りの芸も、天どんが受け継ぎ守り通しているのだもといえようか。近代落語の祖といわれる三遊亭圓朝は、ステテコ踊りの三遊亭圓遊の師匠であり、六代目三遊亭圓生の師匠の師匠の師匠でもある。そして、天どんの師匠の三遊亭圓丈は、六代目三遊亭圓生の弟子である。まあ、つまるところみんなつながっているのである。同じ血筋といえば同じ血筋。だから、受け継いだり、守り通しているのも、当然といえば当然か。かなりの珍芸ではあるけれど、歴史ある三遊派の(結構何でもありといえば何でもありな)正統を大きく外れてはいないことだけは確かなようだ。あの人もこの人もみんなあんなようなことをして寄席を沸かせ笑わせてきたからこそ、今の落語がある。ド派手なステテコを丸出しにしてひっくり返っている天どんも、見かけによらずなかなかにすごいことをしているのかもしれない。だから、とりあえずはあたたかい目で見守らなくてはいけない。
さて、お次は「宮戸川」についてである。このところ「浅草お茶の間寄席」では、毎月のように「宮戸川」が放送されている。まあ、最終盤の佳境部分で突然のにわか雨が降り出してばりばりと雷鳴が轟くという実に夏らしい気象現象が絡んでくる噺であるため、ゲリラ豪雨などが多発する暑い季節には浅草演芸ホールで(千葉テレビ収録日に)高座にかける噺家も多くなってくるのであろう。また、宮戸川とは浅草界隈を流れる隅田川の古い名称でもあるということから、浅草という場所にちなんでことさらに「いっちょう演ってみましょうか」と高座にかける噺家も少なくはないはずだ。いずれにせよ、そんなこんなであまり間を置かずに立て続けに三人の噺家の「宮戸川」が放送された。思わず、巷で空前の「宮戸川」ブームが巻き起こっていて、映画化でも決定してしまったのではないかと勘違いしてしまいそうになるのだが、そのようなことは浅草演芸ホールの外の世界ではこれっぽっちも起きてはいない。半ちゃんとお花坊がどうなろうと世界にとってはどうでもいいことなのだろうが、われわれにとってはこの「宮戸川」ラッシュはちょっとした事件なのである。アディーレ法律事務所の昔昔亭A太郎、「おかあさんといっしょ」の古今亭志ん輔、そしてなんだよーの三遊亭天どん。三者三様の「宮戸川」であったが、中でも最も鮮烈な印象を残したのは駒澤のレイ・ルイス。もとい、アディーレA太郎だった。まだ年若く人間的にもふやふやしている半七とお花のそれぞれのキャラクターを非常にみずみずしく演ずることができていたように思う。特にちょっと小生意気で跳ねっ返りなところもあるが心根は純情で真っ直ぐなお花が、江戸の町娘のようでもあり現代っ子らしくもあるさばけた感じの性格に描かれていて非常によかった。さすがCMタレント、上手さを光らせるのも上手いのである。A師匠のCM界での今後の活躍にも期待。TBS「落語研究会」で五代目の桂三木助が「天狗裁き」を演った際、その解説で京須偕充が五代目の祖父にあたる三代目桂三木助は名人といわれるほどの噺巧者であったが女の演じ方だけは下手だったと語っていた。実際の三代目三木助の高座を見たことはないし映像でも接したことはないので何がどう不味かったのかはよくわからない。しかし、五代目三木助の「天狗裁き」を見ていて思ったことは、京須偕充は若々しい素直な感覚で演じていてなかなかとはいってはいたが、どうも肩幅が広く怒っているせいなのかおかみさんがいくら女性の言葉で女性らしく話していてもどうにも板につききれていないようなところがあるように思われた。おそらく三代目三木助もどちらかというと怒り肩というか、噺が熱を帯びてくると体勢が前のめりになり肩に力が入って横に大きく張って出ているように見えたのではないだろうか。その名人の血を、五代目三木助は色濃く受け継いでいるのかもしれない。話しているとき、とても大きく見えて肩幅が印象に残ったのも、きっとそのためなのだろう。だからといって、女性を演ずるときには身体を小さくして肩をすぼめるようにして話せばいいのかというと、そういうものでもない。逆に、昔昔亭A太郎の場合は、身長は六尺もある大男でありながら、ものすごい撫で肩に見えたりもするのである。学生時代にはアメリカン・フットボールをやっていたくらいのしっかりとした体格で肩まわりもたくましい感じであるのだろうが、これが着物を着て和装となるとすらりとなだらかに整ったフォルムの見目麗しい雰囲気になるのだから実に不思議だ。噺家の高座での見え方というのもまた、ひとつの才能ということなのであろうか。先日他界した柳家小三治は、師匠の五代目柳家小さんからストレートに「お前の噺は面白くねえな」といわれて大変なショックを受けたという。噺家としてそこそこ人気も出て、高座に上がれば客席を大いに笑わせて、少しは自信もついてきたころであっただけに、師匠に実力がまったく認めてもらえていないという事実は、まさに青天の霹靂であったようだ。その後は、どこをどうすればよくなるのか、どうすれば師匠が面白いと認めるような噺になるのかを模索し、大いに思い悩み高座に上がってももがき苦しみ続ける日々であったという。そんな人間国宝の死後に、いくつかの追悼番組が放送されていた。その中に2019年に制作された、平成の終わりに79歳で満身創痍の身となりながらも全国を精力的に飛び回り高座に上がりつづける柳家小三治に密着取材した「密着ドキュメンタリー 人間国宝 柳家小三治」(副題「噺家人生悪くねえ」)という番組の再放送があった。ここで真打昇進からもうすでに40年が経とうかという小三治が、津々浦々の高座で様々な経験をし芸人として苦しみに苦しみ抜いた末にたどりついた、面白い噺の極意中の極意についてを、静かにストレートに語っていた。かつてであれば、ちょっととぼけた調子で照れ隠しをしたりして、わざわざカメラの前でこんな話をすることはまずなかったと思う。ままならぬ老齢の身がそうさせたのか、現在の落語の世界のありさまを見るに見かねて重い口を開いたのだろうか。そこには受け継いだり守り通してゆかなくてはならないものが確実にある。だから、伝えなくてはならない。人間国宝十代目柳家小三治はいう、とにかく心だと。まったく心の通っていないただのお喋りでは、ちっとも落語にはならないのだ。落語の登場人物の心で話すということ。自分の心と登場人物の心が重なり合い、空になった自分の心で登場人物の心を伝え表現するだけ。ただ、それだけのことであるらしい。極意にして基本。噺家の表現力というのは、その基本があってこそのものなのである。あれこれと技術を駆使して人物を演じて噺を表現しようとしてみても、それだけでは面白い噺にはならない。高座に上がりどんなに上手に一人芝居風に演じても、それはただおもしろおかしく落語を表現して観客を笑わせているだけの笑わせ屋の仕事でしかない。噺家は噺を聞かせるのが仕事で、役者ではないので演技をすることを生業としているわけではけっしてない。心という目には見えないものを伝え表現するのが噺家の仕事で、それができていないものの落語は、どこまでいっても面白い噺にはならない。登場人物の心で話すことができているのであれば、ことさらに人物ごとに声色を変えて演じ分ける必要はないというのが、柳家小三治の持論である。実際に小三治の噺は、職人も町人も武士も大人も子供も老人も男も女もほとんど同じ声色なのである。そこに心があれば、登場人物に心が通っていれば、目の前の観客は笑うだけでなく、ちゃんとそこにある風景が見えてくるようになるし、噺の面白さはしっかり伝わるのだという。そこまで聞くものを引き込めるから落語なのであり噺家なのであり面白い噺なのである。ただ、そうなると、見た目のイメージや上手く話す技量や人物を演ずる力というのは、落語というものにとっては大して重要じゃないということになってきやしないだろうか。また、あまりに見た目の情報にとらわれすぎていると、ちゃんと噺を聞けていないということになってしまう恐れも大いにある。実際に目に見えているものや耳に聞こえているものは落語の表層部でしかない。面白い噺は、表面的に見えるものや聞こえるものとは、また別のところにある。面白く噺を聞かせる芸の道を突き詰めてゆくと、登場人物を演じ分けるテクニックは一旦は捨てられるべきものであるのかもしれない。この小三治セオリーを当てはめてゆくと、かなり上手くお花を演じることができていた昔昔亭A太郎の「宮戸川」の評価も少しばかり変わってくることになるだろう。とても研究熱心なところは端々に見えていたし、しっかり勉強した通りにそつなく上手く演れてはいた。だけれども、やはりあれを小さんが見たら「お前の噺は面白くねえな」なんていうのかもしれない。ということはまあ、そこにまだまだ面白くなる余地があるということでもあるのだろうけれど。往年の名人たちは、ちゃんと面白い噺を聞かせられる資質をもつものだけにしかそういうことはいわないであろうから。きっとそういうのではないか。古今亭志ん輔の「宮戸川」は、そういう意味では人間国宝小三治のいう噺の極意に最も近しいものであったのではなかろうか。半七とお花、霊岸島の叔父さんと叔母さんのそれぞれの会話を軸にして噺は進行してゆくのだが、最初はそれなりに若い男女と年老いた男女の会話として演じ分けているようにも見えるのだけれど、段々と人物と人物の境目が曖昧になってゆき最終的には四人ともに志ん輔の地の喋りの声とほとんど変わらなくなってしまう。それでも、半七は半七、お花はお花、叔父さんは叔父さん、叔母さんは叔母さんとして、ちゃんとそこにいて生きて喋っている。ちゃんと伝わっているし、噺の世界へと聞くものを引き込んでいるからその場の情景がちゃんと見えるのである。もう夜遅いのだから部屋の中はそんなに明るくはないのだろうけれど、お花の燃え立つように真っ赤な緋縮緬の長襦袢も乱れた裾からのぞく透き通るように真っ白な肌の美しい脚もはっきりと見える。見える、見える。しかし、なんとなんとなんと、ちょうどここでお時間となるのである。あいや、タイム・アップでげす。んで、三遊亭天どんである。元来「宮戸川」とは、それほど面白い噺ではない。現在よく高座で口演されているのは「宮戸川」という長編落語の前半部分だけ、俗にいう「お花半七馴れ初め」のパートのみである。ちょうどきりのよさそうなところで噺をぶった切ってあるだけなので、最後に気のきいたオチがあるわけでもない。要するに、若い二人の男女がある夜の出来事をきっかけに結ばれる、その馴れ初めを物語るだけなのだ。よって、いろいろと上へ下へのおもしろおかしいことが起こる滑稽な噺というわけではない。そんな、なかなか面白くなりにくい噺であっても柳家小さんも思わず唸るような面白い噺にしてしまうのが一流の噺家の仕事である。噺の筋にそって、どれだけクリティカルなくすぐりの有効打をぽんぽんとテンポよく入れてゆけるかが腕の見せどころだ。天どんは噺を上手く聞かせることよりも最初からそこに賭けているようなところがある。だからもう自分の勝手な都合で噺をぽんぽんワープさせてしまう。まるでジェットコースターに乗せられているかのような予想のつかない展開が、まず楽しい。古典落語なのに。このように「宮戸川」で遊んでしまえる噺家と聞き手。これぞ日本が世界に誇る寄席文化の醍醐味のひとつでもある。古典落語だから伝統や伝承を墨守し続けなくてはいけないということはなくて、よくある形におさまらずとらわれず、自分の噺にしてしまえるくらいでなくては面白い噺にはならない。基本の基本である小三治のいう噺の極意をそれなりにでもものにできていないと、上部構造としての噺家の仕事もまたなかなかにままならないということにもなる。三遊亭天どんの「宮戸川」を五代目柳家小さんに見せたなら、きっと「やけに噺に動きがあるんだねえ、なかなかいいよ。だけどあんまり下品なのは好かねえんだよな」なんてことをいってくれるのではないだろうか。しかしまあ、やっぱり面白い噺とまではいわないだろう。小さんは桂文楽の弟子だから、ハードコアなミニマリストにステテコはトゥー・マッチすぎるはず。だから、みんなを集めて密になるのだってやっぱりトゥー・マッチなんじゃねえかなあ。

ここから先は

150字

¥ 100

期間限定 PayPay支払いすると抽選でお得に!

お読みいただきありがとうございます。いただいたサポートはひとまず生きるため(資料用の本代及び古本代を含む)に使わせていただきます。なにとぞよろしくお願いいたします。