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そぞろ神の、物につきて心を狂はせ

発表まで10日をきった。どうにも落ち着かない。
今年は無理そうだとわかっているのに、それでもあるいはと期待している自分がいる。わずかな可能性のことを考えて大島本を広げてみるものの、1時間もすると、来年に向けて他にやるべきことがあるだろうという気持ちになり、本を放り出してしまう。プライベートでもなんやかんやと気掛かりがある。
とにかく、全然集中できない。
仕方がないので、個別指導の先生から出された課題だけはなんとか終わらせ、今日は休憩だ!と書斎に閉じこもった。昨日のことだ。


松尾芭蕉は46歳の時、長い旅に出かけた。
厳しい冬を越して春を迎え、霞のかかった空を眺めるたび、どうしても白河の関を越えたいという気持ちが、まるで「そぞろ神」に取り憑かれて狂ったかのように高まり、
これは絶対に道祖神(旅の神様)が招いているのに違いないのだからと、住んでいる家を引き払い、弟子と二人、江戸を出発。
江戸〜東北〜北陸〜美濃の大垣という2400kmの、半年に及ぶ旅に出かけたのである。

行く先々で旅の大目的である俳句を詠み、その数、出発からゴールまで合わせて62句。
その中には、誰もが知っている句も多くある。

夏草や 兵どもが 夢の跡 (平泉での一句)

閑さや 岩にしみ入る 蝉の声 (立石寺での一句)

五月雨を あつめて早し 最上川 (最上川での一句)

中学の国語の授業で「奥の細道」に触れたときはなんとも思わなかったのに、昨日書斎に閉じこもり、「月日は百代の過客にして」から始まるあの有名な序文を読みなおしていたら、旅に対する芭蕉の如何ともし難い情熱が、乗り移ってきたようで、いてもたってもいられなくなるのだから、我ながら単純である。
先日誕生日を迎え、また一つ、この時の芭蕉の年齢に近づいてきているということもあるかもしれない。
彼はこの旅を終えた5年後に亡くなっている。
最後の旅だったのだ。

生きていれば色々とある。しかし、私も「旅」に出なくてはいけない。
いつまでもここに閉じこもってなんかいられない。
芭蕉のおかげで扉を開けることができた。
ドアを開けると、一緒に住んでいる猫がドアの前に座っていて、心なしか笑っているように見えた。

(了)