社会人0年目

自分は今、「大学6年生」というより「社会人0年目」として日常を生きているように感じる。
この感覚は、例えば小学6年生の時に中学0年生、あるいは高校3年生の時に大学0年生と自覚したことはないことから、ある種自身の現在地を象徴するものだと思われる。
それは同い年の友人達の大半が就職しているのもあるだろうが、何よりも実習が始まったことが一番の理由だろう。資格がないため業務ではないしむろん給料は発生しないが、無事卒業して資格を手にし働き始めたところで環境が激変するわけではないので、今の自分を表す肩書としてしっくりくるのが社会人0年目といったところなのだろう。

特にこれといったきっかけはないのだが、社会人0年目として細く長く続けることのできる趣味を模索するようになった。
Instagramのストーリーズで、働き始めた同期達がゴルフをしたりキャンプに行ったりしている様子をあげているのをよく目にするようになったこともあり、年齢を重ねても趣味と言えるものがあるとそれが精神的支柱になるのではと考えたのだ。
先日親しい先輩(以下Aさんとする)にそのことを話したところ、私もよく知る先輩の友人(以下Bさんとする)が以前Aさんに話されて腑に落ちたという話をしてくださった。
Bさんは趣味を3つに分類しているらしい。
生産するもの。
消費するもの。
そして、アウトドア。
こうした3つのカテゴリーのバランスを意識されているのだそうだ。
むろんそのカテゴライズの方法がMECEかと言われるとそうとは思わないが、多少クロスオーバーするにせよ漏れることはあまりないのではないだろうか。
例えば自分の場合だと、消費するものとして音楽鑑賞や展覧会巡り、次点として映画鑑賞、読書などが挙げられる。アウトドアについてはこれといったものはないが、意外と音楽を求めてCDショップに行ったり、展覧会や映画館に行ったりと外出するし、その過程で散歩やジョギングをするのである程度は満たしているように思う(もちろんもっと開拓したい想いはある)。

そして生産する趣味があまりないのが自分の足りない点であると前からよく考えていた。
自分の選んだ専門分野というのがどちらかといえば暗記の比重が大きいこと、また昔から自分にクリエイティブの才能がないと感じていることから、自分で言うのもおこがましいが様々な分野・領域でクリエイティビティを発揮されている方々へのリスペクトを常々抱いている。
それに表現方法の引き出しが多ければ多いほど、自分の感情の機微をアウトプットする手段が増えて多角的なアプローチで発信できる。例えば「政治と芸術は切り離すべきだ」という意見が散見されるが、政治を起点にして生じる社会問題を受けて創出される音楽や映画、絵画などに触れてきているからかどうもピンと来ない。あくまで個人の好みの問題だろうが、もはや政治や社会背景から切り離された作品は長い人類の歴史の中で出し尽くされており今更創作したとて無味無臭であるように思う。
むしろ社会から生じる喜怒哀楽が反映された作品がこれまでの歴史を象徴するものとして現在まで伝えられてきたし、これからも生き続けるのではないだろうかと信じている。
そうした時に、日常を生きている中で抱く喜びや怒り、あるいは違和感らを表現しようとして生産する手段として、自分には何があるだろうと感じる。ただ飲みの席で愚痴をこぼしてビールの泡とともに弾けて消えていくのもそれはそれでひとつの美学かも知れないがどこか惜しい気もする。

色々考えた末、まずは「書く」ということから始めてみることにした。
近頃お笑い芸人など異業種によるエッセイが増加しておりどう考えてもレッドオーシャンではあるのだが、もともと書くという行為をあまり厭わない性分であるし、即興性を伴う「話す」より長考して発信できる「書く」の方がどちらかといえば肌に合っている(両方とも得意ではないが)。
ただ、今まで日記と書こうとも三日坊主どころの話で済まないくらい長続きした試しがないし、例えば星野源さんが「仕事にしたら書くことが上手くなるのでは」と考え出版社に掛け合ってエッセイの連載を始めたというエピソードのように出来たらいいのだが今の自分にそこまで働きかける余裕はない。
とりあえず最悪月に一本でもいいから、気が向いた時に何かしら書くという行為を通して思考を整理し自分の心を覆い尽くす霧を払うことができたらと思う。
まずは自己の精神を保つために、細々と。


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