寄稿「山岸さんと遠藤周作」 佐野匠

はじめに

 山岸さんの新曲「神様と東京ウォーク」をyoutubeで3回続けて聴いて、ずっと書きたかったことをまとめようと思い立ちました。山岸さんとは同い年。はじめてウラニーノの曲を聴いたときから不思議な共有感がありました。同じ時間線を生きている感覚。私の一方的な片思いのようなものかもしれませんが、出会ってから二十年近く、それは続いています。山岸さんも大好きな文学を媒体にしながら、私がウラニーノに何を見てきたのか、考えてみようと思います。

1、届かない場所への語りかけ
 ウラニーノの作詞世界は大きく二つに分けられるように思います。寓話的なストーリーテリングの歌と、遠い彼方へと投げかける歌です。今回は特に後者の歌を中心に考えていきたいと思います。
 ウラニーノの歌詞には頻繁に「神様」という言葉が登場します。それはどこの宗教のというような実際的ものではなく、極めてあいまいな存在です。そしてその「神様」はほとんどの場合、沈黙を続ける神様に向かって言葉を投げかける形で登場します。

 神様、あなたは今 何を思うのですか 
 ぼくらのこの思いは あなたに届きますか
 いつかはあなたもまた 僕らを見捨てますか 
 もう一度 もう一度 笑ってくれませんか
(「ぼくのロケット」)

 神様よどこにいる 見てないで降りてこいよ 
 そして僕らを救え 
 そしたらあんたの曲を書いてやる
(「愛してる」)

 どれも修辞を持たない単純で直截な言葉たちです。そして、この語りかけは情報伝達・交換のための、つまり「人間のための言葉」とは少し違っているように思います。目の前の人間や事象の先にあるこの世の向こう、いわば彼岸に向けられた言葉。実際には届かない、届きようのない言葉たちです。
届かないものを届けようとするためには、無駄な言葉をそぎ落とし、言葉の射程をどこまでも広げなければなりません。「神様」というこの世の外にいる遠い、遠い存在に対して言葉を届けようと思うなら、言葉飾りは邪魔になる。まっすぐに飛んでいくロケットのようにシンプルな言葉こそが、天を越え彼岸に到達しうる「祈り」の言葉になり得るのです。ライブ中に山岸さんが神様に向かって語りかけるとき、目の前の観客の向こうにある彼岸に届かんと声を上げるとき、言葉の射程がすっと伸びていくのを感じるのですが、この言葉の射程こそがウラニーノの魅力の一端を担っているように思うのです。

 ところで、このような「神様」への語りかけは、山岸さんがかつて愛読したという遠藤周作の作品を彷彿とさせます。
 遠藤周作は幼い頃両親に連れられカトリックの洗礼を受けました。キリスト教は性に合わないと思いながらも、「親にもらった身の丈に合わない着物をなんとか着こなそうと」思索を続け、生涯キリスト教にまつわる小説を書き続けた作家です。
 代表作と言われる「沈黙」は、江戸時代に主人公であるロドリゴ神父が日本で布教をしようとして様々な迫害や拷問を受けるという作品です。日本人の信者たちや同僚の神父たちが次々と処刑されていくのを目の当たりにしながらも神が介入するのを待ちますが、それでも神は沈黙を続けます。それでもロドリゴ神父は祈るのをやめません。
 ロドリゴ神父による、救わない神への切実な祈りは、他の遠藤文学でも全編を通じて繰り返し語られています。特にそれはイエスの旅立ちから処刑までを描いた「イエスの生涯」において、他ならぬイエス自身による神への、

 主よ 主よ なんぞ我を見捨てたまうや(主よ、どうして私を見捨てるのですか)

という言葉に集約されています。
 僕は、この「主よ 主よ なんぞ我を見捨てたまうや」という沈黙する神への問いかけを山岸さんの「ぼくのロケット」や「愛してる」の中に見るのです。
 初期ウラニーノは「センチメンタル・ヘボ・ロック」を自称しますが、私はこういったものを内包した「ぼくのロケット」には「センチメンタル」でも「ヘボ」でもない、眼差しのまっすぐな強さを感じます。


2、「中年花火」による叙事性と鎮魂
「神様」という言葉自体は出てこないのですが、ウラニーノによる「届かない場所への切実な語りかけ」がテーマとなっている作品がもう一つあります。「中年花火」です。
 今まさに死のうとしている友人のために旧友が集まり花火を打ち上げる歌ですが、この歌を鎮魂歌たらしめているのは、先述した「余計なものをそぎ落とした、引き絞った言葉」の力に他なりません。

 おっさん四人で 花火をする
 おっさん四人で 花火をする
 はげた太ったと罵りあいながら
 おっさん四人で 花火をする

 糸が切れたように 青木が泣き出した
 やめろ泣くなと言いながら 岡本も泣いている
 堰を切ったように みんな泣き出した
 風もないのにロウソクの炎が揺れている

 打ち上げ花火をあげよう 
 なるべく派手なやつを
 まもなく星になる方向音痴の
 あいつのみ道しるべ
(「中年花火」一部抜粋)

 「ぼくのロケット」や「愛してる」と同じようにシンプルで直截な言葉で構成されていますが、「中年花火」はそれに加えて昨今に珍しい叙事詩の形式になっています。出来事そのものを最低限の言葉で語り、心理描写をぎりぎりまで排除しています。その分一つ一つの言葉が強度を持ち、たった一言で物語が展開していくのです。この言葉の強さがさらに言葉の射程を広げ、此岸と彼岸の壁を越える説得力になっています。
「中年花火」は元々ウラニーノの作風としてあった「届かない場所への語りかけ」を徹底して突き詰め、さらに凝縮させて鎮魂歌として昇華させることに成功しています。折口信夫は文学の起源は叙情詩ではなく叙事詩であったと言っていますが、山岸さんの「中年花火」は、文学として、鎮魂歌の正統を歩いているように思います。


「中年花火」のもう一つの文学的特性を説明するために一旦、遠藤周作の「沈黙」に話は戻るのですが、物語の終盤に大きな転換が起こります。ロドリゴ神父は自分が棄教しなければ日本人の信者達が拷問され殺されることに葛藤します。彼は踏み絵を前に苦しみますが、突如としてロドリゴ神父に踏み絵に描かれたイエスが語り出すのです。

 踏むがいい。私はお前に踏まれるためこの世に生まれ、お前たちの痛さを分かつため十字架を背負ったのだ。

 この神の言葉によってロドリゴ神父は踏み絵を踏みます。しかし、それは敗北ではなく、イエスの御心へと到る道筋であったわけです。彼は棄教者として日本で生涯を終えますが、その胸にはいつもイエスの言葉と信仰がありました。
現実にはなかなか起こらないことですが、文学の世界では神や死者などの人ならぬものが語り出すことがままあります。そもそも、「物語」とはかつては「物(人でないもの)が語る」ことの名称でした。イタコが有名ですが、身に死者の魂を宿して、死者に語らせたことが物語の源流です。遺族は死者に「物語」を語らせることで、またそれを聴くことで魂を慰撫しました。
生者は此岸から彼岸に言葉を届けようとし、死者は彼岸から此岸に「物語る」。文学での鎮魂はこの双方向の働きによって成立します。

 青木と岡本と吉野と佐々木が花火をしている
 青木と岡本と吉野と佐々木が花火をしている
 青木と岡本と吉野と佐々木が花火をしている
 青木と岡本と吉野と佐々木が花火をしている
 あれは青木と岡本と吉野と佐々木だ
 あれは青木と岡本と吉野と佐々木だ
 まちがいない 
 あれは青木と岡本と吉野と佐々木だ
 そうだろ 青木と岡本と吉野と佐々木だ

 四人が「花火をしている」という描写が突如として反転し、死にゆく「あいつ」の視点から「青木と岡本と吉野と佐々木」を見つけ、四人と花火を見ることになる。届かないことを知りながらも、みちしるべを作ろうとする生者と、そこにいないはずの死者が邂逅する瞬間です。
 断絶してしまった生者と死者をもう一度つなぎ直すことが鎮魂の「物語」であるなら、「中年花火」はやはり間違いなく鎮魂物語と言えると思えます。


3、「同伴者イエス」と「神様と東京ウォーク」
「沈黙」における突如として語り出すイエスの姿は、神の沈黙への絶望に彩られた作品を書き続けていた遠藤周作自身にも大きな変化をもたらします。後に書かれた「イエスの生涯」では、遠藤は新約聖書に描かれるような奇蹟譚を徹底的に排除することで、「救済者イエス」を否定していきます。そしてその中で浮かび上がってくるのが、「同伴者イエス」という新しいイエス像でした。

彼(筆者注・イエスのこと)は癩者をもとの体にしてやりたかった。盲人の眼も見えるようにしてやりたかった。跛も歩かせてやりたかった。子を失った母親に、子を戻してやりたかった。
 しかし、それが出来なかった時、彼の眼には悲しみの色が浮かんだ。彼は癩者や不具者の手を握り、彼等の苦痛やみじめさを引きうけたいとひたすら願った。彼等の苦しみをわかちあうこと、彼等の連帯者になることはイエスの願いであった。                 
(「イエスの生涯」)

 遠藤の語るイエスは人を救うことは出来ません。自分が救えないことを自覚しながら、救いを求めてくる民衆を悲しみに満ちた眼で見つめることしかできない無力な存在です。奇蹟を求めた民衆は、イエスが結局何も出来ず惨めに十字架にはりつけられ死んでいこうとする姿を見るに至って掌を返し、罵声を浴びせるようになります。
 けれど、イエスの死後、何も理解していなかった弟子たちに、石を投げた民衆に、獄卒に、処刑人にある変化が起こります。彼等の心の中にみすぼらしいイエスの姿が焼き付き、離れられなくなるのです。苦しみ悲しんでいるとき、そこにイエスがいてくれる。無力だけれども、悲しみに満ちた眼で見つめていてくれる。人々の悲しみの連帯者であること。それが遠藤における「同伴者イエス」です。「イエスの生涯」の続編である「キリストの誕生」では、この「同伴者イエス」の視点を獲得した弟子たちがイエスの語った「愛」の実践のため殉教も顧みず教団を作りあげていくことになります。

 山岸さんの最新作「神様と東京ウォーク」は、山岸さんが得意とする「神様」がテーマの歌なのですが、前述した「届かない場所への語りかけ」というまっすぐな投げかけ方とは違い、赤子の口に水を含ませるような穏やかな語りによって紡がれていきます。
 歌詞はキリスト教を信仰する「君」との手紙のやりとりと回想を支柱にしながら、東京に住む「ぼく」のモノローグが語られます。「ぼく」と「君」の立ち位置は、「ぼく」が八百万の神が描かれる「古事記」の現代語訳を読むのに対して、「君」が唯一神を説く聖書を読むことに象徴されます。

 眠る前に聖書を読む君の隣で 
 ぼくは古事記の現代語訳を読みながら
 君んとこの神様は一人でいいね 
 ぼくんとこはたくさんいて
 覚えきれやしないよって 
 そんな話をして笑ってた
(「神様と東京ウォーク」)

 山岸さんの語りかける「神様」は特定の信仰の対象に向けられていないことは冒頭でも書きましたが、今回の歌では、山岸さんの神様像がかなり意識的に示唆されているように思います。まず、「神様」が誰なのかハッキリと明示できるキリスト教に対して、自分は「神様」という言葉ではどの神様を示しているのかわからないという心情が吐露されています。そして現代語訳であるということから、原典にコミットできない、神様に直接コンタクトを取れないことが暗示されています。世の中に神様という言葉はあふれているけれど身近にそれを感じることはできない。ここにあるのは「ぼく」と「神様」の断絶と言えます。繰り返しになりますが、断絶ゆえに、届かないゆえに言葉の射程を伸ばすのが今までのウラニーノでした。この断絶が今までの「祈り」を成立させていました。
 しかし、今回の歌では「神様」をはっきりと提示できるキリスト教徒の「君」を媒介とすることで、「神様」と「ぼく」の関係に新しい局面が生まれています。

 クリスチャンの君に 今日は質問があります 
 この町にも神様はいますか いますか
 東京には慣れたのって 君から手紙が届く 
 神様はいつだって あなたの心の中に 
 雨はあがったみたいだ 
 神様と出かけてみようかな 

 遠い彼岸にあったはずの「神様」が、クリスチャンの「君」によって我が身の中にあることを伝えられ、内包された「神様」との「東京ウォーク」が始まります。そのなかで「ぼく」の視点が変化をしていくのです。
曲の前半では

 いつからだったんだろう 
 ビニール傘を盗むことに 
 罪悪感を 感じなくなってた
 いつからだったんだろう 
 事故渋滞って聞くと 
 舌打ちをしてさ 時計を睨んでた

 あの浮浪者さ 眠ってんのかな 
 死んでんのかな まあ、いっか

 と、他者を客体化しているのに対して、後半では、ビニール傘を返しに「ぼくはこの町に来て初めて神様と一緒に歩いて行く」ことになります。そこで語られるのは

 昨日の事故渋滞 あの事故で 
 誰も死んでないといいな

と、不幸な他者のまなざしに同期しています。元々、山岸さんの詩は他者へのいたわりに満ちたものではあったのですが、今回はその優しさに危うさがなく、深い安定感があります。その心境の根拠は間違いなく、散歩に同伴している「神様」の存在です。遠藤周作による「同伴者イエス」の姿がここにはっきりと確認できるのです。
 山岸さんが遠藤周作をどれくらい読んでいたかを確認していないのですが、「神様」にまつわる詩作の軌跡は遠藤周作の思索のそれと、かなりの部分で重なっているように思います。山岸さんが文学の中で学んできたものと、創作活動の中で発展させてきたものが結びつき、成熟を迎えていることを最新作の中で感じることができたことを本当にうれしく思います。(2021.6.26 佐野匠)



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