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映画『ドライブ・マイ・カー』レビュー

【感情を抑え紡がれることで引っ張られる3時間の終わりに爆ぜる】

 もう30年以上、自分で運転していないから誰かの車に乗っても、運転に違和感を覚えることはないけれど、自分で運転していた一時期、始動から加速から右左折に減速といった運転を、全部自分のタイミングで行っていた影響からか、誰かの車に乗った時に、そうしたタイミングの違いが体に馴染まず、不安を覚えることがあった。

 長く運転していればしているほど、タイミングが完全に自分のものとなって、他人の運転を拒否したくなるものなのか。自分ではもう分からないけれど、濱口竜介監督による村上春樹の小説が原作となった映画『ドライブ・マイ・カー』で、西島秀俊が演じる俳優で演出家の家福悠介が、舞台を作りに行った広島であてがわれたドライバーの運転を、最初は拒絶しようとした気持ちは想像できる。

 20年以上は運転しているサーブ900は、完全に家福の手足となっていたのだろう。車の中でカセットテープに吹き込んだ妻のセリフの間に自分のセリフを喋って、演技も含めて完全に身に入れる習慣があったことも、他人の運転を拒んだ理由だった。ところが、ドライバーとしてあてがわれた三浦透子演じる渡利みさきは、少しでも不安を感じたら拒否してもらって構わないと言って鍵をもらい、運転して家福を納得させる。

 加速も減速もスムースなだけでなく、追い越しや右左折のタイミングでも家福の感覚にそぐうものがあったのだろう。そうしたみさきの感情を抑え主張をしない運転は、感情を抑えた演技を最初に要求する家福の演出方法と重なり、情動を抑えた展開で観る人たちを緊張させずに3時間近い長尺の映画に付き合わせ、最後まで引っ張る滝口監督の映像作法とも重なって、心地よい時間を味わわせてくれた。

 映画は、村上春樹の同名の短編を軸に、同じ短編集に収録された「シェエラザード」や「木野」も折り込んだものとなっている。どれも未読の身なら、あるいは読んでいてもそれぞれが独立した短編の寄せ集めとは思えないくらいに、ひとつのストーリーの中に収斂してひとつのテーマを醸し出す。

 それは、自分の中を見ず、相手の中も見ないで生きることの気楽さと気まずさだ。

 妻を亡くした家福は、不倫をしていた妻を責め立てず妻が打ち明けようとした言葉を聞かずにやり過ごした。結果、波風は立たなかったが永遠に妻を失うことになった。北海道から広島へと来たみさきは、夜の仕事をしている母親を起こさないようにと感情を殺した運転を身に着けたものの、そんな母親への反発が土砂崩れで埋もれた母親を見捨てる行為へと向かわせていた。

 表面的に取り繕って淡々とした日々を繰り返している家福とみさきの、そうした過去が映画の中で打ち明けられる。お互いが知ることによって波風の立たない砂の上のような場所から抜け出すきかっけをそれぞれが得る。

 家福の舞台は、ベケットやチェーホフの戯曲を、俳優たちがそれぞれの自国語で演じ合うというコミュニケーションに背くものとなっている。だからこそ心底からのコミュニケーションが必要となって、舞台の中から浮かび上がってくる。家福やみさきが拒絶していたコミュニケーションの大切さを思い出していく経緯と重なって、口に出して語ることの意味がくっきりと見えてくる。

 そうしたストーリーが、起伏に乏しく抑揚も削がれたセリフによって紡がれていく。恋愛にしても不倫にしても、普通はそれが感情を刺激して心をざわつかせるものだが、誰かが感情を露わにして怒ったり嘆いたりする場面が繰り出されないことで緊張感を抱かせない。そんな狙いが最初のころは感じられた。

 サーブ900によるドライブのシーンも、流れに乗ってスムーズに動いていく車の様子が見ている人の気持ちを整える効果を発揮していた。そこに、セックスであり車でありといったフェティッシュを誘うモチーフが、見ている心を誘ってスクリーンに目を向けさせ続けた。

 幾度となく吸われるたばこも、たばこが本来持っていただろう間延びする時間を埋めて息を整える役割を果たして、安らぎをもたらしたのかもしれない。意図してそういったモチーフを取り入れたのだとしたら、監督は相当に周到だ。そんな映画でひとり、岡田将生が演じる高槻耕史という若い俳優だけが、自分にギラギラとして衝動的で感情的で、場違いな雰囲気を感じさせた。

 それも狙いだったのだろう。彼に絡んだドラマがだんだんと物語の中で膨らんで、死んでいるように生きていた家福でありみさきを刺激して、現実的にも動かざるを得ない状況へと追い込んで、情動が浮かぶクライマックスへと連れて行った。訪れたラストシーンでは、抱擁の場面も演劇の場面も情動があって感情がうかがえて、それが見ている人の感情も揺さぶって、良い物を見た、凄いものを見たという気にさせてくれた。

 明らかに日本と違う場所を、ドライバーが演出家の持ち物だったはずの赤いサーブ900で犬を載せて走る場面が何を意味しているかは意味深だったが、それも含めて開かれた結末で心地よい気分で映画館を出られた。他人の車=思考に乗ることを拒否しがちな人でも観て緊張せず、違和感を覚えないでずっと浸っていられる映画だった。(タニグチリウイチ)

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