【競馬】昭和のアイドルホース「ハイセイコー」と「ウマ娘が歌う理由」について
お久しぶりです。
今回の記事は「ウマ娘」というプロジェクトの根幹を担っているかもしれない、とある競走馬のお話です。
根幹を担っていると言っても、ウマ娘には登場しない可能性も大きいです。(権利関係とか色々あるし)
ですが、ウマ娘になった馬もそうでない馬も、GIを勝った馬もそうでない馬も、皆名馬として語り継がれる権利があります。ウマ娘に出てきていないからこそ、ウマ娘世代が語り継ぐべきなのだと思うのです。
今の日本競馬の土台をつくり、ウマ娘が誕生するきっかけの1つになった偉大なるアイドルホースの物語を、自分なりにまとめさせていただきました。
参考になったら幸いです。
記事の前半はハイセイコーの生涯
後半はハイセイコーとウマ娘の関連性と考察
という感じになってます。後半だけ読みたい方は「ハイセイコーとウマ娘」からどうぞ。
(↓ここで紹介した馬も結構出てくるので読むとより理解が深まります)
(↓関係ないけど年代的には近いので暇なら読んでください)
ハイセイコー物語
怪物誕生
時は1970年。
まだジャパンカップすらなかった頃。
競馬は競艇などの他の公営賭博に比べると遥かに下火で、おっちゃんが煙草吸いながら新聞とにらめっこして罵声飛ばすような治安の悪い場所というイメージが定着してしまっていました。
そんな中、北海道新冠町のとある牧場で、ひときわ目を引く馬が誕生しました。
身体は大きく、脚部も逞しく、ひ弱な所が無かったため、牧場の人は赤飯を炊いて大喜び。
期待の良血馬だっただけに、喜びも大きかったのでしょう。
その馬は、ハイセイコーと名付けられました。
命名理由は明らかになっていませんが、母のハイユウ、兄のハクセイコーから取られたものだと思われます。
この馬が日本競馬の未来を変えることになるとは、この時点では誰も想像していませんでした。
すくすく成長したハイセイコーは、2歳になる頃には「新冠の2歳馬で1番」とすら評価されており、牧場の代表も「日本ダービーに出られる素質がある」と公言していました。
「中央でデビューしないか」とのお誘いやマスコミからの取材もあったものの、一旦は母ハイユウと同じ馬主さん所有で地方デビューさせてみることになりました。
ハイセイコーの父はチャイナロックといい、20世紀の日本競馬を支えた種付け激上手おじさん大種牡馬なのですが、父から遺伝したのかなんなのか、ハイセイコーはちょっと扱いの難しい馬でした。
しかし、それを補って余りある能力の高さが、彼を一気に有名にしました。
未だに南関東公営競馬の最強馬は前回紹介したヒカルタカイのまま。まだやんちゃなハイセイコーが彼を超えられるのかに期待がかかっていました。
迎えたデビュー戦はダート1000m。
当時のレコードはもちろんヒカルタカイのもの。
ダート1000mでレコード出して芝3200を大差勝ちする馬とは。
ハイセイコーは若手騎手が乗ってデビューを迎えたのですが、レースはあまりの加速力にしがみつくのがやっと。バランスを取るのが精一杯で、馬を促すこともなくゴールインしました。
さて、結果は…
レコードを0.8秒更新して8馬身差圧勝でした。
重馬場での記録とはいえさすがに強すぎない?
その後もなんやかんやあったのですが、2着につけた最低着差が7馬身で6連勝。
6連勝目、重賞初挑戦となった青雲賞もすんごい右にヨレながら7馬身差圧勝のレコード勝ちでした。
ちなみにこの時のレースレコードは50年経った今でも未だに破られていません。意味わからん。
この頃になるともう「怪物が現れた」と現場は持ち切り。メディアでも騒がれ始めました。
そして1973年1月、ハイセイコーはついに中央競馬へ移籍したのです。
中央移籍
73年の日本は高度経済成長期の末期。ようやく一般庶民にも娯楽が普及し始め、ドラえもんのアニメが始まったり、セブンイレブンや渋谷パルコが開店したり、今の日本に近付きつつありました。
当然この時代のマスコミの力は絶大で、「地方の怪物、中央競馬へ殴り込み」と報道されまくり、ハイセイコーは凄まじい知名度を得ました。
だって、文字にしたら強すぎますからね。
今まで全戦全勝、平均着差10馬身でぶっちぎり、そして目指すは日本ダービー。
こんなんマスコミが食いつかない方がおかしいです。
これが空前のハイセイコーブームの始まりであり、第1次競馬ブームの発端でした。
(ちなみに2次はオグリキャップ。3次以降は無いけど強いて挙げるならディープインパクトとウマ娘も競馬ブームを引き起こした)
ハイセイコーの中央初戦は弥生賞から。
マスコミが煽りに煽ったため、中山には溢れんばかりの観客が押し寄せていました。
その数、なんと12万3000人。
東京ドームのキャパが5万強、日本最大の音楽フェス、ロックインジャパンの1日の動員数がだいたい7万人です。比較にすらなりません。
競馬で比較すると、オルフェーヴルの引退有馬記念が12万5000人、ワグネリアンの日本ダービーが12万7000人です。
弥生賞ってG1やったんか…?
マスコミの力恐ろしや。
「なんかすごいのがいるらしい」と聞いて集まった12万人の観衆は、あっという間にハイセイコーを圧倒的1番人気にしました。
当然、そんな光景を目の当たりにしてしまった陣営は「負けたらとんでもないことになるんじゃないか」と不安を募らせていました。
だってまだ芝で走らせてないですもんね。そりゃ怖い。
それどころか、スクーリング(走る数日前に馬場を歩かせて環境に慣れさせるやつ)も雨で中止になったため、完全に中山初挑戦。
観客の歓声に反応してテンションが上がり、発汗するハイセイコー。嫌な予感を抱えたまま、レースはスタートしました。
(適当なとこで止めてください)
スタートは上手く出て、道中は3〜4番手を追走。
終盤に差し掛かり、騎手は手綱を動かし始めます。
しかし、ハイセイコーの反応は良くありません。
なんとか口向きを矯正してまっすぐ追わせるものの、ずっと微妙な手応えのままゴールイン。
なんとか1着になれたものの、かわしたのはゴール間際。2着との着差は1と3/4馬身でした。
「怪物と騒がれているが、本当にそこまでの強さなのだろうか」
陣営にそんな疑念が生まれはじめます。
まして主戦の増沢騎手は前年にイシノヒカルという名馬と巡り会っているが故に、それと比較すると余計頼りない印象を受けたことでしょう。
(↓イシノヒカルについてはこちらをどうぞ)
この状態では皐月賞に向かえないと判断した陣営は、スプリングステークス出走を決意。
70年代は連戦連闘も当たり前です。
立て直し(勝ってるけど)を図るべく、もう一度中山で走らせました。
着差は2馬身半。勝ちは勝ちですし、普通なら皐月賞にも期待が持てます。
ただ、土曜日の重賞に10万人集めちゃうくらい人気が先行していて、地方競馬では圧勝レコード勝ち続きだった馬がこんな競馬をしてていいのかと問われると…うーん。
なので勝っても陣営の顔は曇ったままでした。
前に行きたがる気性と胴の短さ。「走れても2000mまで、芝よりダートの方が向いているのでは」となれば、今ならNHKマイルやJDDが待っていてくれますが、当時はダートの大レースもマイルの大レースも中央にはありませんでした。
不退転の覚悟で三冠に挑むしかなかったのです。
迎えた皐月賞。
雨で重馬場となった中山。
このレースがきっかけで、ハイセイコーは伝説になります。
重馬場もなんのその。無敗9連勝でクラシックを制覇。「強さは本物だった」と世間に知らしめる勝利でした。
道中で外に膨れたり、相変わらず操縦性の悪さは見られたものの、3戦を経て徐々に修正。
ゴール版を余裕をもって駆け抜けることができました。
確かに、大井時代と比べるとインパクトには欠ける勝利です。それでも無敗。抜群の安定感。
古参競馬ファンの目には、その走りにシンザンがオーバーラップしていました。
当時は最強馬の物差しがシンザンしかいなかった時代。ルドルフもディープも、TTGだってまだ生まれていません。
肝心のシンザンのレース映像もモノクロ、しかも博物館とかに行かないと見られない。
目の前に無敗9連勝の馬がいたら、それを最強と崇め立ててしまうのは当然のことです。
ハイセイコー陣営のプレッシャーは、日に日に大きくなっていきました。
皐月賞から3週間後。ハイセイコーは東京競馬場にいました。とは言っても日本ダービーではなく、その前哨戦、NHK杯に出走するためです。
NHK杯はNHKマイルカップの前身にあたるレースで、NHKマイルと青葉賞のちょうど中間、東京の2000mで争われるダービートライアルです。
ずっと中2週の連闘続きで苦しいハイセイコーですが、ここはどうしても出ておかなければならない理由がありました。
大井競馬場は右回り。中山競馬場も右回り。
ハイセイコーは今まで一度も左回りのコースを経験したことが無かったのです。
ウマ娘しかやってない方は「そんなに違ってくるもんなの?」とお思いかもしれませんが、右回りと左回り、直線短いコースと長いコース、坂ありと坂なしで求められる能力がまるで違ってきます。
カレーライスとハヤシライス、ユニクロとGU、西武と東武、BUMP OF CHICKENとRADWIMPS、東京喰種とチェンソーマンくらい違います。
例えばグラスワンダーは右回りは世界レベルなのに左になると詰め甘になるし、ウオッカは直線が長いコースでないと末脚を炸裂させられないため宝塚と有馬では大敗してます。
現役馬でもシャフリヤールは直線長いコースが大得意だし、サルサディオーネは右回りだと大敗するくらい苦手です。
左回りでのハイセイコーの動きを確かめるため、陣営はここに出走することを決意したのです。が…
東京競馬場には、16万9000人の観客が押し寄せていました…
なお、コミケの1日の最高来場者数がだいたい19万人、オグリキャップ引退の有馬記念が17万7000人。つまりハイセイコーはほぼコミケでありオグリキャップであるということです。
ここまでハイセイコーが人気を博したのは、「地方の馬が雑草魂で中央のエリートに挑む」ことが団塊世代に響いたからです。誰もがその姿に自分を重ね、応援していました。
(その実情は元から中央入りする前提で地方デビューさせてた期待の良血馬で、当時は地方と中央の馬のレベルはほぼ互角だったので挑戦っていうほどでもないんですけど、それを言っちゃうと無粋ですね)
レースを見てみましょう。
終始インコースに閉じ込められたままのハイセイコー。これは無理かと思われた瞬間に抜群の勝負根性でなんとか1着に。
大型馬で跳び(ストライド)が大きい分、器用な競馬は苦手ですが、一旦加速すると手が付けられない強さを秘めていました。
この勝利でハイセイコーは「どんなレース展開でも勝てる」と神格化され、ダービーの勝利は確定したものと見られていました。
至るところでハイセイコーブームが到来し、ついには週刊少年マガジンで特集が組まれました。行くとこまで行きましたね。
当時のマガジンの文章を引用してみましょう。
色々とツッコミどころ満載ですが、相当にハイセイコーが評価されていたことが伝わる文章ですね。
図らずとも世界タイトルを7回死守したコントレイルの株も上げてくれています。
そしてアイドルへ
話を戻すと、やっぱり陣営はNHK杯のレースっぷりを見て不安を抱いていました。
明らかに右回りの方が得意そうだし、連戦の影響と重馬場皐月賞の反動でパフォーマンスも低下。追い切り(レース直前の調教)ですらヨレてしまうほどに疲れがでてきていました。
「勝てないのではないか」と思うこともありましたが、馬の勝負根性に賭けて出走させてみることにしたそうです。
日本ダービー当日。
NHK杯の混み具合から多くの人が現地観戦を諦め、来場者数は13万人になりました。それでも13万。
ハイセイコーの単勝が飛ぶように売れ、誰もが「ハイセイコーが勝つ瞬間」を観に来ていました。
記者も報道陣もハイセイコー以外には目もくれません。
ある騎手が言いました。「ハイセイコーが4本脚ならこっちだって4本脚だよ」と。勝機はあると。
適当にあしらわれたその言葉の真意を、誰も分かろうとしませんでした。
レースは27頭立て。
「ダービーは最も運のいい馬が勝つ」の起源は、多頭数で紛れが起こりやすすぎたから。
コーナーに入るまでにいいポジションにいないと、ずっと外を回されるか詰まって垂れて終わり。それがダービーというレースだったのです。
ハイセイコーは5番枠。良い枠です。
誰もが彼の勝利を願い、レースはスタートしました。
ハイセイコーは序盤の位置取りが上手くいかず、後方から。これに焦りを覚えた騎手は向こう正面で馬群の外に出して位置を上げに行きます。
他馬も進出を開始して、レースは猛烈なハイペースに。
前半の1000mが59.6。2005年、ディープインパクトの日本ダービーより0.3秒速いです。
お分かりの通り、73年と05年では芝の状態が全く違います。
この年のダービーはレコード勝ちで2:27.8。
ディープの年は2:23.3。
この年は極端に前半だけ速いため、飛ばした馬から沈んでいく展開になりました。
ハイセイコーは直線に入ってすぐ先頭に立ち、粘りに粘りました。しかし東京の直線はあまりに長く…
最後方から強襲した伏兵、タケホープに差されてしまいました。
どよめきが起こる東京競馬場。絶望の瞬間。
ここでハイセイコーの無敗伝説は終わりを告げます。
観客の視線の先には、ガッツポーズを見せるタケホープの嶋田騎手ではなく、ハイセイコーがいました。
ハイセイコーが敗けたという事実だけが、満員の東京競馬場に残りました。
しかし、この敗北がファンの心を掴んだのでした。
“怪物”改め“怪物くん”。
ハイセイコーはスターホースからアイドルホースへ変貌していきます。
元祖アイドルホース
ハイセイコー
父 チャイナロック 母父 カリム
22戦13勝[13-4-2-3]
主な勝ち鞍
皐月賞 宝塚記念 高松宮杯 中山記念
NHK杯 スプリングS 青雲賞
主な産駒
カツラノハイセイコ ハクタイセイ サンドピアリス
キングハイセイコー アウトランセイコー
ダービー直後、「あのハイセイコーが負けるわけがない」「何かの間違いだ」「あれはハイセイコーに瓜二つの馬でハイセイコーじゃない」という旨のファンの現実逃避が街を賑わせ、「不敗神話崩壊」「怪物がただの馬になった」などといった見出しが新聞の一面を飾りました。
でも、本当にそうでしょうか。
個人的には、このダービーは「騎乗ミスの産物」だと思っています。もっとも、こんだけの人気を背負って走るなんて普通じゃ有り得ないため、このミスも致し方ないものだと思っています。
常識的に考えて、東京2400のコースでこのハイセイコーの乗り方で勝てる馬はいません。(レイデオロは超スローで折り合い付けられたから勝てただけで)
レース中盤で外に出して脚を使って前に進出し、後半600mくらいに渡りずっとスパートをかけてました。
圧倒的1番人気なので奇襲もできずいいポジションを取りに行くしかできない中での走り。
当時の荒れた馬場で極端な前傾ラップに耐え、先行馬総崩れの中3着に粘るのは非凡です。普通に世代最強です。
「負けて強し」。今ならそういう考えもできる人が多いと思うんですが、当時はネットもなく競馬メディアも限られていた時代。「負けた」という事実だけが残ります。
「ハイセイコーでもダービーに負ける」。今まで無敗で走ってきた馬が味わった最大の挫折。
判官贔屓な日本人は彼に愛着を覚えたり、自分の経験と重ねたりしたのでしょう。
夏を経て最後の一冠へ。
トライアルの京都新聞杯では初の輸送と長期休養明けが祟り、2着に甘んじてしまったハイセイコー。
それでも人気は消えないままでした。
菊花賞本番。
稍重馬場の京都競馬場。
ダービー馬タケホープは嶋田騎手が骨折のため、前年にロングエースでダービージョッキーになった武邦彦騎手(武豊の父親で後のバンブーメモリーの調教師)に乗り替わりとなりました。武ホープですね
逃げ馬が出遅れたため、レースはゴリッゴリのスローペース。
最内の久保騎手の馬が極端にペースを落ち着けたため、後方馬群は掛かり地獄になりました。
前半1000mが1:05.2。現代なら遅すぎて吐き気催すレベルです。(21年は1分ジャストでした)
それでも誰も競りかけてこないため、中盤で更にペースを落としにかかります。
2000m通過タイムが2:13.1。現代なら遅すぎて意識飛んでます。
(21年のステイヤーズS(3600m)ですら2000m通過は2:10.2です)
そんなペースで楽に2番手を追走したため、脚が溜まってるどころかピンピンしてるハイセイコー。
終盤で掛かる素振りを見せてしまった&先頭の馬の手応えがもう無いため、少しずつ手綱を緩めて先頭へ。そして直線向いた瞬間に早めのスパートで抜け出します。
ギリギリまで粘り続けるハイセイコー。
しかし外から強襲するのはタケホープ。
ハイセイコーとタケホープ。2頭の追い比べは写真判定に持ち込まれ…
タケホープが二冠馬の称号を手にしました。
まぐれ勝ちだと思われていたダービー馬が、ようやくその存在を認知された瞬間でした。
好敵手
タケホープ
父 インディアナ 母 ハヤフブキ 半姉 タケフブキ
19戦7勝[7-0-3-9]
主な勝ち鞍 日本ダービー 菊花賞 天皇賞(春)
(名馬のライバルあるある:名馬自身はいい画像たくさんあるけどライバルは検索しても全然出てこない)
タケホープ陣営には秘策がありました。
オグリキャップ、テイエムオペラオー、直近ならラヴズオンリーユーなど、歴史に名を刻む名馬は、他馬に馬体を併せられると驚異的な根性を発揮します。
ハイセイコーにもその力があることは、NHK杯のレースっぷりで分かっていました。
なので武さんはあえて外に持ち出し、馬体を離して差し切ったのです。完全にしてやられた騎乗でした。
ハイセイコーは道中もプレッシャー無く進み、実力を出し切ってこれ。距離の壁とタケホープに負けたということです。むしろ2着は立派でした。
タケホープは消耗していたので年内休養。
一方で怪物くんは有馬記念へ出走しました。
上位人気はこの秋重賞3勝、本格化した二冠馬の弟、「花の72年組」代表タニノチカラ。
そして昨年の天皇賞馬で、タニノチカラを破った経験もあるベルワイド。
この2頭とハイセイコーの三つ巴とされていました。
しかし…
あまりにも意識しすぎました。タニノチカラとの睨み合いがずっと続いて、気付いたら前にいた馬に追い付けないままゴール。
勝ったのはタニノチカラと同期のストロングエイト。
ラッキーな勝利でしたが、この後も活躍する馬です。
ということで、年度代表馬は順当に八大競走2勝のタケホープが受賞することに。
ですが、ハイセイコーも間違いなく一年の顔として相応しい馬でした。
ファンを湧かせたことを称え、ハイセイコーには「大衆賞」という賞が授与されることになりました。
もちろんこんな事は未だかつて無く、ハイセイコーだけの特例でした。
後にこの賞は「特別賞」となり、サイレンススズカやステイゴールド、モーリス、クロノジェネシスなど、記録や記憶に残る活躍をしたけど年度代表馬にはなれないような馬に特別に授与されることになりました。
ラブライブがアニメへの認識を変えたように、米津玄師がボカロ含むアングラ文化を牽引したように、「大衆賞」の名が示す通り、ハイセイコーがきっかけで競馬のイメージが変わりました。
冒頭でも触れましたが、ハイセイコー以前は「競馬が趣味」というのは憚られる世間でした。しかしハイセイコーが出てきたことで競馬の面白さが世に伝わり、それを胸を張って言える世の中になったのです。
ファン層がガラッと変わったため、老人から少年まで、家族連れで競馬観戦に行くことだってたやすくなりました。
このハイセイコーの固めた地盤がTTG、シービーとルドルフ、オグリキャップ、武豊、ダビスタのブームへと繋がったのです。
アイドルの矜持
たかだか世間の見る目を変えたくらいで、ハイセイコーの競走馬生活は終わりませんでした。
翌74年、アメリカJCC(当時は2400m)で復帰しタケホープと相見えるも肺出血の影響で大敗したハイセイコー。
調子を立て直して挑んだ中山記念。
不良馬場の中距離戦で、彼は衝撃の強さを見せます。
これがハイセイコーの本質です。
くっっっっそ強いんですよ。ハイセイコーって。
思えば、南関東時代の圧勝は全てスプリント〜マイルの距離だった彼。
中央で2000以上の距離で折り合う競馬を心がけたためか距離適性がちょっと伸び、1800mでもご覧の通り余裕の圧勝劇を魅せることが可能になりました。
もちろん大差勝ちです。
普通にしてたら強い彼ですが、そんな彼を苦しめたのは時代でした。
今なら適性に合ったレースプラン、現役馬でいうならサリオスやヒシイグアスみたいなマイル〜中距離ローテを組むか、あるいはアグネスデジタルみたいに芝ダート二刀流を目指してもいいです。
当時、古馬になった馬に残されたGI級大競走は
春秋天皇賞(どっちも3200m)
有馬記念(2500m)
だけでした。
スプリント、マイル、中距離、そしてダートにGI級のレースはなく、かろうじて宝塚記念だけがほぼGI級扱いされていただけでした。
菊花賞で掛かる仕草を見せたハイセイコーには厳しい時代です。
時代が味方していたのは天性の長距離馬タケホープ。
それに立ち向かう風雲児ハイセイコー。
天皇賞(春)で両者はぶつかりますが、どちらに風が吹いているかは火を見るより明らかなものでした。
昨年の菊花賞と違い平均的なペースを追走し、最後の直線に差し掛かります。
先頭グループはストロングエイトとクリオンワードが粘る中、ハイセイコーはまた掛かり、もう脚が残っておらず伸びません。
この2頭で決まるかと思われた時に、大外を突いて上がってきたのがタケホープ。クビ差を付けてゴールイン。八大競走3勝目を挙げました。
ハイセイコーのライバルとしてしか見られていなかったタケホープも、この勝利を期に評価が変わります。
八大競走時代のダービー、菊花賞、天皇賞の3つを制した馬はシンザン以来、史上2頭目。
八大競走を3勝した馬もセントライト、ダイナナホウシュウ、メイヂヒカリ、ハクチカラ、コダマ、シンザン、スピードシンボリ以来、史上8頭目。
以降もトウショウボーイ、グリーングラス、ミスターシービーを合わせ11頭しかいません。
そんな選ばれし馬となったタケホープ。
しかし激走の反動は大きく、秋まで休養となりました。
6月、タケホープのいない宝塚記念。
ここである変化が起きます。
デビュー以来何があってもずっと1番人気だったハイセイコーが、ついに2番人気になってしまったのです。
むしろハイセイコーの得意な中距離なのになぜ…と思った方は、自分が競馬を始めた時のことを思い出して見てください。
前走、しかもGIで大敗した馬はなんか怖くて買えなかったはず。どんなに応援してても「負けそう…」って思ってしまったはず。あるいは冷めて買わなくなったりとか。
ブームから一年、ついにそういう時期が来ました。
デビューから引退までずっと1番人気の馬なんてディープインパクトくらいしかいませんからね。仕方ないです。
でもそこはハイセイコーなので…
もちろん勝ちます。5馬身差、レコード勝ち。
大舞台で見せた「強いハイセイコー」。仁川は歓喜の渦に。
1番人気のストロングエイトは沈みました。
勢いを付けたい陣営は、月末の高松宮杯へ。
別定戦のため他馬が55kgのところを61kgとかなりのハンデを背負わされましたが、難なく勝利。
左回りでも戦えることを証明しました。
中距離ならハイセイコー、長距離ならタケホープ。
その構図がようやく定着した4歳春でした。
秋になり、ハイセイコーは悲願の天皇賞制覇に向けて京都大賞典から始動しました。休養明けと斤量に負け4着でしたが、このレースでハイセイコーの獲得賞金が2億円を超えました。
日本競馬史上初の2億円ホース誕生の瞬間でした。
(なお、それ以前の獲得賞金1位は天皇賞馬メジロアサマ。20年後には孫のメジロマックイーンが史上初の10億円超え。インフレがすごいです)
その後は順調に来ていたハイセイコーですが、オープン戦2着のあと、鼻出血が判明。
レース中の馬の鼻血は生死に関わるため、ルール上発症から1ヶ月後はレースに出すことができません。
ハイセイコーは天皇賞を諦めなければならなくなりました。
時は流れ、有馬記念。
ハイセイコー、タケホープともに年内の引退を表明しており、これがラストレース。
馬券はタケホープが1番人気、タニノチカラが2番人気。ハイセイコーはほんの少し離された3番人気。
それでも、観衆の目にはハイセイコーがきらりと光っていました。
3コーナーを回って、ペースを緩めることもなく余裕の手応えで先頭を進むタニノチカラ、それに付いていくハイセイコー。
直線に入ってもむしろ差が広がる一方で、勝負は決したようなものでした。
なのに、観客のボルテージは最高潮に達していました。
ハイセイコーの内から、タケホープが猛追してきたからです。
タニノチカラの5馬身うしろの攻防。
ハイセイコーかタケホープか。
当時の競馬ファンが夢に見た光景がそこにはありました。
結果はアタマ差でハイセイコーの先着。
2400m以上のレースは苦手なハイセイコーがはじめてタケホープに長距離で先着した瞬間でした。
競馬ブームの功罪というべきか、観客も、実況も、誰も彼もが2着争いの結果に注目し、フジテレビに至ってはタニノチカラそっちのけでハイセイコーにカメラを寄せていたとか。
それが良いか悪いかは別として、その結果ハイセイコーは今もなお名馬として語り継がれるだけの伝説的地位を確立したのでした。
長距離では少し苦戦したハイセイコーでしたが、2000mまでなら15戦13勝2着2回。
これは驚異的な強さです。
マイル〜2000mで強くて、位置取りもある程度融通が利いて、乗り方次第では有馬記念くらいまでなら距離こなせて、道悪適正があって、産駒が芝だけじゃなくダートにも強くて、適距離でなら抜群の安定感を発揮する…
本格化してからのジャスタウェイ(GI3勝、ドバイGI6馬身差レコード勝ち、年間レート世界1位)とほぼ同じなんですよね。
過大評価でもなんでもなく、それくらいの力を持っていたと思います。
引退後、中山競馬場にはハイセイコー像が作られました。
大井競馬場にもハイセイコー像が作られ、彼が最後に制した重賞レース「青雲賞」は「ハイセイコー記念」となり、今では地方GI全日本2歳優駿のトライアルレースとなっています。
種牡馬としては、自身が勝てなかったダービーと天皇賞を勝利した孝行息子カツラノハイセイコや、アイネスフウジン、メジロライアンらとクラシックで激闘を繰り広げた芦毛の皐月賞馬ハクタイセイ、GIを最低人気で1着になったサンドピアリス。
そして地方ダートでは南関東二冠馬、キングハイセイコーとアウトランセイコーを輩出し、大成功と言っていい活躍をしました。
ハイセイコーとウマ娘
さらばハイセイコー
ハイセイコーは競馬の枠を超えて社会現象になりました。ハイセイコーきっかけで競馬関係の仕事に就く人がいたり、次の時代の名馬を応援する人が増え、競馬が以前より遥かに市民権を得ました。
そんなハイセイコーの記憶をより強く刻み付けたのが、「歌」でした。
実はハイセイコー主戦の増沢騎手がとても歌が上手く「増沢に歌わせたら売れるんじゃないか」と思っていた関係者がおり、引退のタイミングでレコードをリリースすることに相成ったのです。
タイトルは「さらばハイセイコー」。
プロ顔負けの歌唱力ですね。
タニノチカラが勝った有馬記念。
ゴール後のスタンドでは、これが流れていたそうです。(もっとも、タニノチカラの騎手はキレてたそう。当然っちゃ当然)
そして、ハイセイコーの引退式で、増沢騎手は「感謝を込めて」この歌を生で披露しました。
これが、競馬と歌がはじめて交わった瞬間でした。
そして、競馬とハイセイコーの大ファンであった歌人の寺山修司さんも、こんな詩を綴っています。
良い作品なので引用させてもらいました。
つまりハイセイコーとは生活の一部で、希望で、人々の拠り所だったのだと、そんな想いが映像と共に見えてきます。
グランドライブとハイセイコー
突然ですが。
皆さんはウマ娘をやられておりますでしょうか。
ウマ娘と歌は切っても切れない関係性にあります。
レースに勝つたび、ウマ娘が歌う。
「それいる?」と言われ続け約4年。
ようやく、それに対する答えが出されました。
それがこの間追加された新育成シナリオ、グランドライブなんですが、ネタバレをある程度回避して語っていきます。
グランドライブとは、かつてウマ娘たちが自主的にファンに感謝を伝えるため行っていたライブ活動のこと。次第にウイニングライブ(普段のアレ)に取って代わられ、今は風化しました。
それに憧憬を抱いていた「ライトハロー」というウマ娘が再始動させようとして…というのが今回の育成シナリオです。
このライトハローというオリジナルウマ娘が、シナリオ内で「すごいウマ娘の孫だった」「母のようにGIを勝ちたかった」「1度もライブでは歌えなかった」「中山レース場は思い出の場所」と語っています。
このウマ娘はオリジナルウマ娘ですが、元ネタが明確に存在します。
語ると長くなるので省略しますが、これらの特徴や誕生日、シナリオ内に隠されたヒントに符号する競走馬が1頭だけいます。
それがこの馬。未勝利だし、世間的にも全く有名では無い馬です。
しかし
①ハイセイコーという馬が歌と深い繋がりがあること
②ハイセイコーの引退式で「さらばハイセイコー」が歌われた(≒ファンへの感謝を込めたライブ)
ということから、ウマ娘が歌う起源となった存在がハイセイコーという幻のウマ娘である可能性が高いのです。
「グランドライブというシナリオはアプリリース1周年で追加される予定だった」
という噂をご存知でしょうか。
ウマ娘を育成すると称号がもらえますが、メニューの称号欄からみてみると、
URA→アオハル杯→グランドライブ→メイクラ
の順で表示されています。
(あんまり良くないことだけどデータ解析でもシナリオのIDがグランドライブは3、メイクラは4になっているらしい)
ナリタトップロードの勝負服が未だに無く、実況で名前も呼ばれなかったり、シナリオのバランス調整を失敗して炎上してたりと、色々と予定が狂ったことは考えられますね。このご時世ですから仕方ないですね。
そんな1周年の目玉となったウマ娘はキタサンブラックでした。
キタサンブラックもまた、競馬と歌を繋いだ競走馬。
彼がGIで「勝つと」馬主の北島三郎さんが「まつり」を歌いました。
ハイセイコーの増沢騎手は、引退式に感謝を込めてさらばハイセイコーを歌いました。
キタサンブラックのサブちゃんは、彼が勝つたびにまつりを歌いました。
↑これってまんまグランドライブとウイニングライブの二項対立じゃないでしょうか。
ハイセイコーからキタサンブラックへ。
長い歴史の中で、競馬と歌を繋いだたった2頭の競走馬。
それをグランドライブ実装時に出したかったと運営が考えていたことは想像に難くないでしょう。
では、歌の方はどうか。
トウカイテイオーを主人公にしたアニメの主題歌に「ユメヲカケル!」ってタイトル付けてくる制作陣なら、なにか仕掛けてるはず。
(トウカイテイオーの写真集のタイトルが「夢を駆ける」)
色々考えた結果、ちょっと引っかかる曲がありました。
「Never Looking Back」という、アプリのハーフアニバーサリーで追加された楽曲です。
メロディだけ聴けば1周年記念のWe are DREAMERS!!や、GIRLS' LEGEND Uに比べると大人しい(?)曲なのですが、歌詞が猛烈に熱いです。
所々英語で誤魔化してますが、うまぴょい伝説やその他楽曲には見られない「言葉の重み」を感じます。
特に「持ち続ける者だけが〜」の部分。
「こういうイメージでお願いします」ではなく、何か明確な意図をもって作られた曲だと感じました。
そしてこのタイトル。「振り向かず未来へ」という歌詞。デジャヴを感じます。
振り向くな、後ろには夢がない。
前だけを見て、迷わずに僕は進む。
…ややこじつけ気味ではありますが、Never Looking Backとは寺山修司氏の詩のインスパイアソングであり、ウマ娘世界線でのアンサーソングなのではないでしょうか。
もともとグランドライブシナリオと並行して制作されたものの、「GIRLS' LEGEND U」という曲に大きな意味を持たせたかったこともあり、ひっそりとハーフアニバーサリーで追加された、という可能性も考えられます。
ウマ娘プロジェクトは1度プロデューサーが降板し、そこから再始動を図って今があります。
アニメ&シングレのプロデューサーの伊藤さんは生粋の競馬人で、アニメ1期の際に「98世代なら絶対にキングヘイローを出さないとダメだ」と思い立ち、サイゲに掛け合ったり、シングレでは「この馬のことを覚えていて欲しかった」と、笠松の名馬フェートノーザンをモチーフにしたウマ娘を登場させたり、かなり競馬愛の深い方です。
仮に「競馬と擬人化くっつけたら売れんじゃね?」と前任プロデューサーが考えて動き出したプロジェクトだったとして、伊藤Pが「競馬と音楽をどう結び付けるか」を長考した結果、「ハイセイコーとキタサンブラック」に行き着き、このシナリオが生まれたとするのなら、もう脱帽どころの騒ぎではありません。
いずれにしても、「ウマ娘 プリティダービー」の起源はハイセイコーにある気がしてならないのです。
あとがき
以上がハイセイコーの生涯とウマ娘との関連性の考察です。拙文でしたが新たな気付きを得られたなら幸いです。
またこういう小ネタが公式から投下されたら記事にしたいと思いますので、その時はよろしくお願いします。
それではまた。