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【競馬】ウマ娘だけじゃ学べない!昭和後期の名馬たち

こんにちは。
ウマ娘にダート馬が続々実装され、それきっかけで色んな馬を調べだしたら名馬ばかりで学びを得ると同時にホクホクしているマツウラです。

(このシリーズの)前回、トキノミノルとかセントライトなど、映像も残ってないような昭和の名馬を紹介しました。
映像無いのですごい読みずらかったと思います。

今回はシンザンとキーストン、タニノムーティエを中心に、1960〜1972年の昭和の名馬を取り上げていきます。ちゃんと映像あります。


安心してください。前回と比べるとボリュームが段違いに薄いです。
誰もあんな長ったらしい記事読みたくないし書きたくないんですよ!!(書きたくない方が大きい)
↑これを真っ先に書いて執筆を続けた結果、前回とほぼ同じ文章量になりました。無念。


それでは早速解説入ります。

1960―63 天下無双の黄金世代

コダマ、メジロドーベル、ファレノプシス。そしてミスターシービー、ジェンティルドンナ。これらの馬は自身の置かれた立場が似ています。

「自身が二冠馬(三冠馬)でありながら、同期が強い&キャラが濃すぎるおかげで存在感がちょっと薄まってしまっている」という立ち位置です。


1960年、コダマはダービーの後の不調でやや低迷。
その裏でとんでもないことをやってのけた同期がいました。

この年の有馬記念、勝ったのは3歳馬。
史上唯一の有馬記念勝ち3歳牝馬スターロッチ
偉大なる名牝です。

オークス、有馬、京成杯AHを制して4歳で引退。繁殖牝馬に。
その血を引く子孫にはハードバージ、サクラユタカオー、サクラスターオー、ウイニングチケット、レイパパレ、キタサンブラックなど名馬が多数。
日本競馬が続く限り、血統図を辿ればどっかに必ずいる偉大な馬となりました。

残念な点は、その有馬の映像はネットを探してもどこにもないこと。テレビ局に直接問い合わせないと無理そう。



翌年から復帰したコダマは重賞を2連勝するのですが、一頓挫あって長期休養に入ります。
それが61年春の天皇賞の前の事でした。

コダマのぶんも思いも背負ったのかどうなのか、春の盾を制したのは昨年ダービーで2着だったヤマニンモアーでした。しかも2着は同ダービー3着のシーザー
ほぼダービーの再演で60世代のワンツーを果たしたのでした。

それにしても、この時代からヤマニン冠の馬がいるんですね。22年現在も条件戦ですがヤマニンサンパが強い勝ち方してました。GIIIも出てたはず。


ヤマニンモアーはデカいとこ勝てたので即引退。

シーザーはこの後阪急杯、鳴尾記念、宝塚記念を連勝し秋に備えます。(しれっと凄いことやってる)
しかし夏負けしたのか秋はやや不調に。
実力あるんだけど八大競走になると勝てない、今でいうディープボンドみたいな詰め甘キャラとして愛される道を歩んでしまうのでした。


時を戻して1959年。コダマが2歳最強に名乗りを上げるのと時を同じくして、“こちら”でも最強の2歳馬が生まれました。

川崎競馬場、全日本3歳優駿
今でいう地方GI全日本2歳優駿。

勝ったのはオンスロート
2着以下に15馬身差を付けねじ伏せました。
これで12戦11勝、2着1回。

その後は若干調子を崩しつつも現東京ダービー2着、現東京大賞典1着と好走し、中央移籍の話が持ち上がります。


そうして61年11月に中央デビュー。
初めての中央重賞挑戦が天皇賞(秋)

日経賞など重賞を多数勝っているホマレボシが1番人気。オンスロートはあまり注目されていませんでした。
しかし、レースは意外な展開で…

2着にまで詰め寄ったオンスロート。
その半馬身先でゴール板を駆け抜けたのは、オンスロートが昔ボコボコに叩きのめした相手でした。


勝った馬はタカマガハラ
オンスロート同様、南関東競馬でデビューし、全日本3歳優駿3着のあと、3歳春に中央移籍。経験を積んできた馬でした。

2年の時を超え、痛烈な反撃。
続く有馬記念でも…

ホマレボシにこそ負けはしましたが、2着タカマガハラ、3着オンスロート。
形勢逆転の瞬間でした。

そして、どっちのレースでもシーザーは4着。
この頃になると、ジリジリとしか差を詰められず、で馬名がシーザーなので「ジリ脚シーザー」とネタにされていました。ジュリアス・シーザーって事ですね。
ここから60年後、我々はプボプボ言いながら有馬を見ていました。人って変わらんなあ…


さて、お気づきになったでしょうか。
この年のデカい古馬重賞を全て4歳馬が上位独占で駆け抜けたことに。

この頃になるとホマレボシ、タカマガハラ、オンスロート、シーザーで四強とされていました。もはや無敵の軍勢。



もちろん翌年5歳になり、ホマレボシが引退しても勢いは止まりません。

AJCCをタカマガハラが、スワンステークスと目黒記念をシーザーが、中山金杯と日経賞をオンスロートが制覇。
しかもこのうちAJCC、目黒、日経賞はワンツーフィニッシュ。もう付け入る隙がないです。


この頃の天皇賞は、「1回勝つと春秋共に出走不可」の勝ち抜けシステムを採用していたため、まだ勝ててないオンスロートとシーザーだけが春の天皇賞に出ることになります。

その結果がこれ。

オンスロートとシーザーの叩き合いに誰も付いて来られず、2着以下は大差をつけてゴール。

オンスロート騎乗の山岡騎手は他の騎手と比べて騎乗フォームがアメリカ寄り。近代の日本と遜色ないレベルです。
20世紀が全盛期の騎手でここまでフォームが綺麗なのって多分この人と福永洋一さんと田原成貴さんくらいじゃないですかね。
うち2人が闇に手を染め競馬界から追放され、1人が事故で乗れなくなってしまったんですけども。なんでなんマジで。



てことで現役で天皇賞勝ててないのはシーザーのみ。
秋の天皇賞、ほぼ後輩だらけの中で1番人気に支持され…

5着に敗れました…


気を取り直して有馬記念。
(シーザーは出ませんでした)
リベンジはかくもあっさりと。

勝ったのはオンスロート。タカマガハラは2着に敗れました。

実はオンスロートは脚元の弱い馬でした。
地方時代は強い調教をできる時の方が少なく、満足のいく仕上がりで出せたのは全日本3歳優駿と秋の鞍(東京大賞典)の時だけだったとのこと。

だいたいの馬は5歳くらいでようやく身体が完成し、さらに強い負荷にも耐えられるようになります。

ここでオンスロートが良化したということは、これが彼の本気。今まで本気出せてなかっただけ。

なんかこう書くとタカマガハラが不憫に思えてきますが、彼もなんやかんや僅差の2着ですからね。成長力は圧倒的でした。


こうして60世代はみな引退。オンスロートは中央と地方の年度代表馬を同時受賞しました。
しかし四強のどれも種牡馬としては恵まれず、今日には名前を残せていません。



1964―65 神の馬

時は1964年。ついに東京五輪が開催され、オリンピック景気で国内が活気に満ち満ちていた頃。
前年には三冠間違いなしとされたメイズイが菊花賞で鞍上がガッチガチに緊張してしまい敗北という悲しい結末を迎えていましたが、待ちに待ったその時はやってきます。



その馬は、デビュー前は全く期待されていませんでした。ずんぐりむっくりな馬体は、牧場関係者や厩舎の人も「平凡だなあ」という印象しか抱いていませんでした。

ミスオンワードやコダマを管理した武田文吾調教師は、その馬を見て「トウルヌソルに似た特徴があるし、骨格も悪くはない」と思ったそう。さほど期待はしてなかったそうですが。
トウルヌソルというのはこの馬の母母父で、前回紹介したクモハタ様の父にあたる世紀の大種牡馬でした。

オンワード牧場もこの馬の購入を検討していると聞き、武田師はその場で購入。知り合いの馬主に馬を紹介したのでした。

その馬主というのが、あの「走れマキバオー」の曲の元ネタ、「走れコウタロー」の「コウタロー(阪神3歳S勝ち馬)」を所有していた人。
(そもそも原曲がマキバオーだと思ってる人も多そう。僕もウマ娘にハマってこういうのを書き始めてから知りました)



馬主さんは武田師に馬の命名を依頼しました。
武田師は孫の伸一さんの名前から一文字もじり、こんな名前を付けました。

神馬

シンザン

JRA顕彰馬

1964クラシック世代

父 ヒンドスタン 母 ハヤノボリ

19戦15勝[15-4-0-0]

主な勝ち鞍 三冠春秋グランプリ、天皇賞(秋)

主な産駒 ミホシンザン、ミナガワマンナ
母父としての主な産駒 ハシハーミット


伸山」として始まった彼の競走馬生活。
しかし、物語の終わりには彼は「神賛」として偉大なる功績を残したのでした。


コダマで二冠を手にした栗田勝騎手を背にデビュー戦(1200m)を4馬身差で快勝すると、200m距離延長した2戦目も楽に勝利。
後のGIレース、阪神3歳Sに出すこともできたんですが、同じ厩舎の期待馬が2頭出るためここを回避。
もちろん武田厩舎の馬が勝ちました。

シンザンは同条件のオープン戦に出て圧勝。
ここでシンザンを大一番に出さないあたり、「さほど期待されてない感」が伝わってきますね。
でも、担当厩務員さんと栗田騎手だけはこの馬の凄さを見抜いていて、栗田騎手は「こいつ、コダマより上かもしれない」と厩務員さんに告げていたらしいです。


その後も連勝記録を4に伸ばしましたが、3月に初の遠征。当時はクラシックの一大登竜門(今でいう弥生賞と共同通信杯合わせたみたいな)だったスプリングステークスに出走しました。

タイテエムの時の記事でも軽く触れましたが、80年代くらいまでは関東馬>>>関西馬の図式が崩れることはありませんでした。(その後も崩れたというより反転したんですけども)

シンザンは有力馬と戦ってないことから弱く見られ、6番人気と低評価になってしまいます。
1番人気は当時は中山開催だった朝日杯勝ち馬で、今世代最大の有力馬とされていたウメノチカラでした。
ウメノチカラはシンザンの終生のライバルとなります。



もちろんレースはシンザンが勝ち、一躍世代トップに。このあたりから武田調教師もシンザンの可能性に期待を抱き始めます。

そんな状況を見過ごさなかったのが、ホウシュウの馬主さんでした。
彼はシンザンの馬主さんにトレードを迫りました。もちろんそれなりの大金をチラつかせたでしょう。
しかしシンザンの馬主さんが一応武田師に相談したところ、「売るなら俺を殺してからにしてくれ」と説得。結局話は流れるのですが…1年後に事件は起こります…



話を戻します。
もちろんシンザンは皐月賞を快勝。

こちらがレース映像ですが正直よく見えません。
なんもわからん。


そしてダービーもウメノチカラを競り負かし勝利。

当時のダービーは27頭とか平気で出てくるため、1つでも位置取りをミスると終わり。故に二冠馬なんて神の領域なのであります。
ですが、そんなダービーの舞台でも底を見せないその強さ。ゴール前ではほとんど追ってません。余裕の走りです。


しかし、菊花賞トライアルの京都杯でシンザンは2着に甘んじてしまいました。
これきっかけで菊花賞では2番人気に。

負けた理由は2つ。
1つは「手を抜かせた」からです。

武田調教師はプロ中のプロなので、馬を本番で勝たせる最適なレースローテと馬体の作り方がわかっていました。
ですが、シンザンは聡い馬なため、無駄な動きは一切しませんでした。調教ではあまり走ろうとしません。いくら促しても。
でもレースに出すと走る。武田師は「こいつはゼニがかかってる時しか走らんのだな」と納得。

その上で出した答えは、「レースを調教代わりに使う」ということでした。

今と違って坂路調教すらなかった当時の競馬。
本番に向けて馬体を作り上げるといっても、本気で走らせなきゃなかなか仕上がりませんでした。

なので京都杯を走らせ、京都のコースに慣れさせつつ、菊花賞に向けてしっかり馬体重を絞って本番に挑んだんだと思うんです。
当時はそれが批判されましたが、馬券は自己責任ですからね。


そしてもう1つは「猛暑による夏バテ」の影響が大きいと思います。当時は栗東トレセンが無かったので、シンザンは京都競馬場の馬房で暮らしていました。

皆さんは夏の京都を経験したことがあるでしょうか。経験してない人は死ぬまで経験しない方がいいです。夏の京都はただの地獄なので。
盆地なので湿気がすごくてむせ返る暑さです。
ほんと頭おかしい暑さなので祇園祭とか観にくる時は覚悟した方がいいっすよ。
京都と大津で体感温度は5℃変わってきます。それくらい暑いです。

1960年代ってことは馬房にミストとかも飛ばせないですし、体調を崩すのは当たり前です。
まして猛暑となれば菊花賞前までバテててもおかしくないです。僕含め人間もバテますから。

10月になり暑さも体調も落ち着いてきたところで、本番を迎えます。


菊花賞はハイレベルなレースになりました。シンザンとウメノチカラの頂上決戦なのはもちろんのこと、二冠牝馬カネケヤキが出走を決意したからです。

残念ながらこの時代は牝馬の三冠目がありません
というのも、日本のクラシックの元になったイギリスの五大クラシックがそうだったからです。

そのため、牝馬もセントレジャーステークス(菊花賞)に挑むのですが、牝馬と牡馬の格差が日本ほどないイギリスに比べ、日本で牡馬が牝馬を負かすなんてことは考えられないことでした。
まして、当時の日本は長距離こそ正義で、長距離で勝つために牡馬が走っていた時代です。

それでもカネケヤキ陣営は決死の賭けに出ました。
シンザンという強大な壁に立ち向かったカネケヤキとウメノチカラの勇姿をご覧下さい。

カネケヤキは大逃げを打ちました。こうでもしないと勝てないと思ったのでしょう。
最後の直線まで粘り抜いたカネケヤキ。
後ろから追い詰めるウメノチカラ。

それらを堂々とした走りで抜かし、シンザンは二代目三冠馬の称号を手にしたのでした。


この激闘から6年後、1970年に牝馬限定の三冠目「ビクトリアカップ」が創設されました。
恐らくフランスの牝馬三冠目「ヴェルメイユ賞」から着想を得てるはずで、距離は2400m。後に「エリザベス女王杯」に名前を変え、オークスとの差別化のため、「秋華賞」として2000mに生まれ変わりました。

こうした取り組みが行われたのも、カネケヤキが果敢に戦ったからかもしれませんね。



セントライト以来の偉大なる名誉を手にしたシンザン。稍重菊花賞の疲れが抜けず有馬に出なかった彼は年明け大阪杯→天皇賞(春)のローテを予定していたんですが、蹄の状態が良くなく腰痛もあったため、当分の目標を宝塚記念に定めました。

オープン戦2連勝で挑んだ宝塚。
不良馬場が不安視されましたが…

59kgを背負って勝利。


何とか夏を乗り越え、秋は目黒記念を63kg背負って勝利。続く天皇賞(秋)でも…

(レース単体の動画が無かった)(適当な時に一時停止してほしい)
もちろん勝利。そのまま有馬記念へ向かいます。


有馬記念がシンザンの引退の舞台でした。
もちろんハクチカラ同様海外遠征も可能だったのですが、「名馬は名馬であるうちに引退させるべきだ」と考える武田師は、晩年を汚さないようここで区切りを打ったのでした。

これがかの有名な「シンザンが消えた!!」です。



ミハルカスに騎乗していた闘将、加賀武見騎手はどうにかしてシンザンを倒そうと策を練っていました。
当日の中山は稍重開催。といっても内ラチ沿いは不良馬場並に荒れていて、映像を見てわかる通り、みんな内を避けて走ってます。金沢や佐賀とかの地方競馬場のダートみたいですね。(わかる人にはわかる)

ミハルカスはシンザンを引き付け、4コーナーで大きく外に膨れました。これはシンザンに無理やりにでも内側のコースを走らせ、自分は外のいい馬場で走るため。言うなれば外ラチ沿いは加速レーンでした。

ミハルカスはギリギリ距離ロスでも走り切れるくらいに外に膨れ、そのままスパートをかけました。
するとなんと、シンザンがさらに外から追い抜いてきたのです。

観客席、テレビ映像ではフェンスに遮られ見えなくなったシンザン。しかし数秒後、外ラチスレッスレのゾーンを駆け抜けて、シンザンが登場。その上2馬身近く離してゴール。

この日、栗田騎手は不祥事で乗り替わりになってました。乗ったのはコウタロー主戦の松本騎手。
下馬した後、「ありゃ誰が乗っても勝てる」と呟いたそうです。



というわけで、無敵の強さを誇って引退したシンザン。当時の牡馬が挑めた特大レース、クラシック三冠と天皇賞、有馬記念を全て制覇し、宝塚記念と目黒記念も制覇。勝ててないレースは今でいうGII級のレースしかなかったため、今の感覚でいえばオペラオー並かそれ以上にすごいことをやってることになります。


ところで、シンザンは「五冠馬」と呼ばれます。
今の感覚なら「三冠と宝塚、秋天、有馬で六冠やろがい!」ですが、当時は宝塚の格がそこまで高くありませんでした。
五大クラシックと春秋天皇賞と有馬記念で八大競走と呼ばれてたため、宝塚は今でいう金鯱賞や札幌記念同様「メンバーも凄いし盛り上がるけどGII」みたいな役割を果たしてたんじゃないでしょうか。
先述のシーザーが善戦マン扱いされたのもそういう所からきてます。

それでもシンザン関係者の中には「六冠馬やろがい!」と主張する人はいたらしいです。気持ちはとてもわかる。


シンザンは種牡馬になりGI馬や重賞馬を多数輩出しましたが、直系子孫を現代まで繋ぐことは叶わず。それでも彼が生きた証は今でもなお色濃く残っています。

京都競馬場入ってすぐ左側にあるシンザン像

これは京都競馬場のシンザン像。(撮影日が微妙な天候だったため見栄え悪)
右にあるのは蹄鉄ですが、シンザンは脚力がズバ抜けており並の蹄鉄じゃすぐダメになったため、オリジナルの蹄鉄「シンザン鉄」を使用していたらしいのです。この発明が後の蹄鉄の進化を加速させたとか。

阪神のなんか噴水があるとこの前らへんにあるやつ

阪神競馬場の名馬の蹄跡が飾ってあるスポットに行くとわかりやすいです。マックやオグリ、マヤノらに囲まれたシンザンだけ異質な形をしてます。


シンザンの馬主さんの親族は今も馬主活動を続けており、もちろんシンザンと同じ勝負服で、「シンザンクラブ」名義で馬を所有しています。
現役の馬で強いのは21年東海S3着のメモリーコウ。今は地方ダートの交流重賞によく出てます。
見かけたら「シンザンはこの勝負服で走っていたんだなあ」と思いを馳せてみてください。



1965 府中に咲き、仁川に散る

65年。シンザンが古馬になったころ。
ダービーを巡って大問題が発生していました。
まずはダービーまでのクラシック戦線の流れから解説していきます。

クラシック登竜門、スプリングステークス。
この年は有力馬が2頭いました。
弥生賞を勝ち、6戦無敗での臨戦となる三冠馬候補筆頭、関西の星キーストン
きさらぎ賞からの出走となる6戦5勝の優駿ダイコーター
後の年度代表馬コレヒデの姿もありましたが、この時はまだ才覚を現していなかったころ。

圧倒的人気だったキーストンでしたが、ダイコーターに差され2着に。


そして皐月賞では大幅な馬体重減から大敗。
勝ったのはダイコーター…ではなく8番人気の穴馬チトセオー。3連勝からの快進撃。22年皐月賞でいうならビーアストニッシドと同じような立ち位置の馬でした。
ちなみに天皇賞馬サクラチトセオーとはミリも関係ないです。


その後ダイコーターとキーストンは共に1度叩いて1着。ダービーへの準備を着々と進めていました。

そして事件は起こります。


シンザンの馬主さんが所有していたダイコーターが、ダービー4日前に、調教師に無断でホウシュウの馬主さんにトレードされ、同時に転厩しました。取引金額はダービー1着賞金の2〜3倍だったとか。

金で夢を買う暴挙。これにはもちろんマスコミからの批難が殺到。
(こういうことしてるからダイナナホウシュウが顕彰入りできなかったのでは…?)



ダービー当日。
雨によりレースは不良馬場での開催となりました。

皐月賞馬チトセオーはダービートライアルのNHK杯レース中に鼻出血を発症し大敗。その流れで今回も出走を取り止めたため、2強対決のムード。

ダイコーターはもちろん1番人気。
理由は「鞍上がシンザンとコダマでダービーを勝っている栗田勝」「血統的に不良馬場が得意そう」「キーストンに距離不安がある」の3点。

2番人気キーストンは鞍上の山本騎手がダービー初騎乗。そして1800m以上での勝ち鞍なし。ダイコーターを買収した理由も頷けます。

しかし、ダービーの女神はそう簡単には微笑まないのが現実です。

キーストンは逃げました。
不良馬場なので誰も競りかけてきません。

脚をとられるダイコーターと、先頭で楽に逃げるキーストン。「最後の1マイルだけ全力で出し切る」と決めていたぶん、豪胆な騎乗が出来たのです。


こうして第32代のダービー馬が誕生したのでした。

淀の超特急

キーストン

1965クラシック世代

父 ソロナウェー 母父 ミゴリ

25戦18勝[18-3-0-4]

主な勝ち鞍
日本ダービー 弥生賞 京都杯 金杯(西)


ダービーは金では買えぬ」。
そんな金言を根付かせた一戦でした。

その後ダイコーターは菊花賞を制覇。
クラシック終了後に栗田騎手から乗り替わりになった後は嘘みたいに成績が急降下。平地で勝てなくなったから障害転向までさせられます。

散々人のエゴに振り回されながら引退したダイコーター。それでも種牡馬としては成功し、00年代前半までは彼の血を引く牝馬はちらほらいました。



問題はキーストンです。
ここまで読んでる方の大半はご存知でしょう。
彼の最期を。

※ショッキングな映像が流れます。見たくない方は自衛をお願いします

年の瀬の阪神大賞典。
文字通り死ぬほど痛いはずなのに、真っ先に山本騎手の元へ駆け寄ったキーストン。
山本騎手は脳震盪でふらつきながらも「ごめんな、ごめんな」と顔を撫でて呟いたそうです。
そしてまた意識がふっと途切れ、再び目が覚めた時にはキーストンはもう亡くなっていました。


起こって欲しくなかった死。
自身の生涯を述懐し、山本騎手はこう語ります。

「あの日の事故で、不幸をキーストンがひとりで背負ったが、人の心に僕のことも印象づけてくれた。それが調教師になったあとの僕をどれほど後押ししてくれたか分からない。馬主からの救援や依頼が絶えないのも、本当にあの子のおかげだと心から感謝している」

山本騎手は調教師に転向してから、様々な馬をGIに勝たせました。
有名どころでいうと、地方ダート戦線を盛り上げたカネツフルーヴとレギュラーメンバー、そして牝馬で天皇賞を制覇したヘヴンリーロマンス。

そして、馬だけでなく騎手も育てました。ヘヴンリーで天皇賞を制覇した松永幹夫騎手は山本厩舎所属。

松永幹夫さんは今調教師として大活躍中。
ラッキーライラックやレッドディザイアなどの名馬を管理しています。
そして、ヘヴンリーロマンスの産駒で海外GIIを制覇しました。
それがあのラニです。ドラマは続いています。
ラニは種牡馬として現役馬リメイクなんかも出していますし、山本さんとキーストンが残したものは脈々と受け継がれています。

山本さんはもうこの世にいません。ラニがUAEダービーを制覇した年の瀬に亡くなられました。
「あの世に行ったら真っ先にキーストンに会いたい」と言っていた山本さん。会えていたらいいな。



1966―70 切り拓く者たち

コダマを発端にして高まりつつあった競馬の熱。
顧客層を超えて全国に波及するまではまだ少しの時間を要しますが、シンザン以降の5年間は今までの競馬の“壁”を取っ払う名馬たちに溢れていました。

元祖怪物

タケシバオー

JRA顕彰馬

1968クラシック世代

父 チャイナロック 母父ヤシママンナ

29戦16勝[16-10-1-2]

主な勝ち鞍
天皇賞 朝日杯 現スプリンターズS
毎日王冠 京都記念 東京新聞杯 現共同通信杯


とりあえずこの動画をどうぞ。

ダート短距離長距離その全てで重賞を制覇したのがタケシバオーです。しかもレコード勝ちの連続。ダートのレコードは40年近く破られなかったとか。

もちろん、60年代の競馬は今と比較したら月とすっぽんのようなタイム差で、何もかもが違うためそもそも比べることすら困難です。

そんな中ではありますが、いかなる条件下でも果敢に挑戦し、結果を出したことにタケシバオーの鬼畜ローテの意味があります。

海外を除けば3着以下取ったことない馬って、いつの時代でも名馬に違いないですからね。コントレイルのようなものです。

本来、顕彰馬とはせめて八大競走を2勝していないと選出されないものなのですが、マルゼンスキーとタケシバオーだけは特例で顕彰入りしてます。



そしてもう1頭、未だに記録に残っている名馬がいます。まずはこちらをどうぞ。

南関東競馬初代三冠馬にして、天皇賞と宝塚記念を強い勝ち方で制覇したヒカルタカイ

以下に衝撃だったか、天皇賞のレース映像をご覧下さい。

あまりにも差を広げすぎてカメラアングルがおかしなってもうてますわ。およそ17〜8馬身差
南関東から東京の厩舎に転厩して京都に遠征してこれですからね。恐ろしい。で、宝塚はレコード勝ちと。

全力出しすぎて脚部不安に陥り、その後は怪物っぷりも鳴りを潜めましたが、強い馬だった事に変わりはありません。

引退し、種牡馬としてもそこそこ活躍したため、未だに彼の血を引く馬が中央や地方で走っています。


ちなみに、初代南関東三冠がヒカルタカイ、三代目がタケシバオー産駒ハツシバオー。
ヒカルタカイの祖父はウォーアドミラル。海外で話題になったノンフィクション競馬映画『シービスケット』でライバルとして登場する馬です。暇があったら見てね。



さらにもう一頭。名馬のあり方を変えた馬がいます。

老雄

スピードシンボリ

JRA顕彰馬

クラシック1966世代

父 ロイヤルチャレンヂャー 母 スイートイン

主な勝ち鞍
有馬記念連覇(春秋グランプリ3連覇)、天皇賞(春)

母父としての主な産駒 シンボリルドルフ

彼がした事は、言うなれば“治験”のようなものでした。
一代目のシンボリのオーナーは海外遠征への執念が凄まじく、それ故に大きな弊害も色々と引き起こしました。ルドルフが遠征先で故障し引退したり、ダービー勝った後イケイケだったシリウスが長期滞在で連敗し疲れ果てて帰国したり。
クリスエスを管理してた二代目オーナーはそれを反面教師にして、絶対に海外遠征はさせなかったり。
シンボリと海外遠征は切っても切り離せません。

動画の通り、並の馬なら死んでる出走ローテです。
そもそも当時の海外遠征はデカいコンテナに詰め込まれて揺られ続ける地獄だったので、それを3回経験してケロッとしてるスピードシンボリは異常。
しかもキングジョージで5着。22年にシャフリヤールが5頭立てで4着だったので、彼がいかに偉大だったか痛感しました。

上の動画では触れられませんでしたが、宝塚記念での勝ちっぷりが気持ちいいのでご紹介。

力が違いすぎますね。これで春秋グランプリ制覇。
ヒカルタカイの出したレコードをさらに塗り替えました。

ちなみにこのレース、1着の騎手が後のルドルフ、2着がマックイーン、ステイゴールド、ディープインパクト、5着がメイショウサムソン、7着がバンブーメモリーの調教師です。そう考えると豪華対決。


そしてこれが高画質版引退レース。

当時7歳。前年は菊花賞を制覇したばかりのアカネテンリュウをハナ差退けて掴んだ勝利。この年はクビ差に着差を広げて粘り切りました。すごい胆力。

5年間に渡って有馬記念に挑戦し続けて、4着、3着、4着、1着、1着。中々できないことです。

この頑張りがシンボリルドルフ、トウカイテイオーを作ったのですね。



同時期にはメジロマックイーンの祖父メジロアサマも天皇賞を制覇。徐々に我々の知ってる時代の基礎が作られ始めます。


1970 消えた三冠

ウマ娘の影響で我々が知ってる有名な冠名はメジロをはじめ沢山ありますが、70年代から徐々にそういった馬が増えていきます。

1970年、クラシック戦線は世紀の東西対決に沸いていました。

今は距離適性ごとに朝日杯かホープフルどっちかに出て、弥生賞か共同通信杯から皐月賞に挑むか、あるいは直行というのが主流ですが、当時は違います。

朝日杯3歳Sで関東No.1、阪神3歳Sで関西No.1を決め、皐月賞臨戦過程で関西馬が東上し、そこで初めて東西がぶつかる。
今よりも対抗意識が生まれやすいですし、甲子園感覚で見てた人も多いと思います。(今は甲子園も競馬も西が強すぎますけどね)


この世代の東の王者はアローエクスプレス
筋骨隆々の良血馬で、先行から抜け出して勝つ、王道の競馬が得意な馬でした。後のマチカネタンホイザの母の父になる馬です。
鞍上は後にイナリワンやウイニングチケットで競馬界を牽引する事になる柴田政人騎手。この時はまだ新人でした。

西の王者はタニノムーティエ
血統面では見劣りする所がありましたが、「鍛えて馬を強くする」という馬主の谷水さんの意向により、スパルタ調教とハイペース出走で馬を鍛え上げていました。
スパルタといえばミホノブルボンですが、谷水さんはブルボン調教師戸山さんと麻雀仲間で、ムーティエに乗る安田騎手は戸山さんが推薦した若手騎手でした。
安田騎手は後のメイショウドトウの調教師です。

その2頭が顔を合わせたのはやっぱりスプリングS。
それは、圧巻のレースでした。

アローが抜け出して勝ったと思ったら、劇的なスピードで追い込んでくるムーティエ。
勝ったのは西の王者、タニノムーティエでした。

当時の芝ってほぼダートのようなもので、今みたいにふっかふかではなく、映像見たまんまの、馬が走れば砂塵が舞うような環境でした。
そこで出した上がり3ハロンが34秒台
これは驚異的な数字です。今で言うなら31〜2秒台くらいの価値があるんじゃないかな。


当然関東の人もタニノムーティエの走りに衝撃を受け、皐月賞では彼が1番人気に支持されます。

対するアローエクスプレスは、柴田騎手から加賀騎手に乗り替わり。

これに納得のいかなかった柴田騎手は調教師の高松先生の元へ行き、涙ながらに問い詰めました。
すると、「誰よりも自分が乗せてやりたいが、馬主もファンも許さない。アローは日本一になれる馬だから、日本一の騎手を乗せる。悔しかったら加賀武見を超える騎手になれ」と、高松先生も涙ながらに答えたのだそうです。
この悔しさが柴田騎手を強くしました。ミホシンザンでの二冠、ウイニングチケットでのダービー制覇に繋がるのです。

そんな事は置いといて本番。
熱い一戦が幕を開けました。

第3コーナーまでは両馬ともに概ね順調。
しかし突如としてアローが失速します。

これは外から早仕掛けの馬に突っかかられた時に行くか抑えるかを悩んで、下手に抑えて失速させてしまったとのこと。ベテランでもミスはしますよね。

そこから執念で食らいつくもロスなく運んだムーティエが勝利。悔しい結果になりました。


ダービートライアルのNHK杯では脚の不調と仕掛けどころを間違えたことでムーティエが2着。アローが1着。これで二冠目はわからなくなりました。


そして日本ダービー当日。
ムーティエは絶好調。これ以上ない仕上がりっぷりでした。
対してアローは仕上げすぎてイレ込みまくっていました。ただでさえ血統が中距離向きな馬。どうなるかはもう明白で…

コーナーで外からまくりをかけて、直線手前で馬場の真ん中に出し、そこから伸びて粘り切る。

グランアレグリアやオルフェーヴルのような能力にモノを言わせた暴力的な直線一気ではなく、ギリギリまで距離ロスを無くして、直線からは先行馬のような伸び。

安心して見られる追い込み馬というか、だからこそ強さが伝わるというか。
特殊な強さを持った馬だと思います。



これで二冠達成のムーティエ。もちろんここから目指すは三冠&シンザン超え。
しかし、思わぬ事態からその目標は夢と消えます。

喘鳴症を発症してしまったのです。

俗に“喉鳴り”と呼ばれるその病気は、何らかの要因によって呼吸が苦しくなり、レースパフォーマンスに悪い影響を及ぼします。
喉元から「ヒュー、ヒュー」と音が聞こえるからこう呼ばれます。

重度の喉鳴りを発症した馬で有名なのは、ハーツクライ、ダイワメジャー、ワグネリアン。
そして現役馬のジオグリフも喉からかなりデカい音が聞こえるらしく、ディープインパクトも末期は呼吸器関係で苦しんでた噂もあり、馬にとってはメジャーな病です。

これらに明確な発症の原因は無いのですが、ムーティエの場合は「これじゃない?」と思しきものがあるので紹介します。

島崎はタニノムーティエの夏場の予定について、北海道へ放牧に出すか、厩舎に置いておくかのどちらかを考えていた。しかし谷水が自分で設営した大津市の放牧場へ連れていくと主張し、厩舎関係者全員での反対にもかかわらず、同地への放牧が強行された。放牧中、島崎と安田と一緒に様子を見に行った際、ムーティエは降雨で寒い中に屋根も何もない場所で裸足のまま立っていたという。こうした環境によるものか、または谷水が土壌改良のために撒いた石灰を吸い込んだことが原因とする説もあるが、いずれにせよムーティエはこの放牧中に喘鳴症を発症する。

wikiより

wiki引用ですが、その引用元がかなり信頼できる競馬評論家の方の著書なので紹介させてもらいます。
シンボリもタニノも初代はかなりのワンマン社長体質で、これが喉鳴りに直結したかどうかは分からないにしろ、結果こういうことになりました。



秋復帰後、ムーティエは2戦連続で大敗。喉鳴りも公表されました。調教師はここで引退を決めていましたが、馬主が菊花賞出走を強行。
引退の餞として、ムーティエの単勝馬券はそこそこ売れました。

最後の直線。ムーティエが先頭に立ち、湧き上がる歓声。しかし間もなくズルズルと後退。
京都3000はムーティエのようなまくり戦法が1番刺さる舞台。完調だったら間違いなく…

これが幻の三冠馬、タニノムーティエの生涯でした。

幻の三冠馬

タニノムーティエ

クラシック1970世代

父 ムーティエ 母 タニノチエリ 半弟 タニノチカラ

18戦12勝[12-2-0-4]

主な勝ち鞍
日本ダービー 皐月賞 スプリングS 弥生賞 きさらぎ賞
阪神3歳S デイリー杯3歳S


こうして戦績を振り返って思うのは、「やっぱどう考えても走りすぎだろ」ってことです。
3歳秋までしか走ってないのに出走数がルドルフやトウショウボーイより多いですからね。


少しでも無理を避け、ちゃんとした環境で彼が過ごせていれば、「栗毛の三冠馬」といえばオルフェーヴルよりムーティエが出てくるような世界線もあったのかもしれません。



1972 花の47年組

ムーティエの2つ下の世代は、関西三強とイシノヒカル、スピードシンボリのレコードを塗り替え宝塚記念を勝利したハマノパレードなど色々あった1972世代。

ウマ娘化が切望されるタイテエムや、タニノムーティエの弟かつ最強馬のタニノチカラの活躍が著しい世代です。

ムーティエもタニノチカラのような古馬時代を過ごせてた可能性もあったと考えると、運命って残酷ですね。

詳しくはこちらをご覧下さい。


次回は昭和末期の名馬。カブラヤオー〜ロッキータイガー、ダイナガリバーまで。
天才ジョッキー福永洋一や、秋川理事ちょ…ノーザンテーストの話を絡めつつ紹介していきます。

ハイセイコー、TTGの話は上の72年組の記事みたいな感じで別枠で紹介しますね。



今回はここまでなのであとは余談です。

余談①
1972年、前回紹介したオンワードの馬主さんが海外の馬を買収し、フランスダービー勝っちゃったっていう「ハードツービート事件」がありました。
ダービーを金で買えてしまったという。

でもオンワード牧場は後に閉鎖。今は本業もかなりヤバい状況に陥ってるらしいです。


海外ダービーを制覇した個人馬主で今も上手くいってるのはトーセンの島川さんだけです。
島川さんの勝ったダービーはパートII国イタリアのなので、言い方は悪いですが「勝てるダービー」です。

2022年は東京ダービーに自分の馬を4頭出しして力技で優勝させてましたね。堅実に勝てるダービーを狙いに行くことが一流馬主の処世術なのかもしれません。


余談②
あとは60年代の名馬には、牝馬ながら朝日杯と函館記念を制し、後にメジロのほとんどの馬の先祖になったメジロボサツがいました。
モーリス産駒はみんなボサツの血を引いてます。

余談③
ムーティエの同期には日本競馬史上さいかわ美少女タマミちゃんなる馬がいました。桜花賞馬です。
こういう馬こそウマ娘化してほしいですね。

以上余談でした。

あとがき

なんとか12年を1万5000字に圧縮しました。
あれ?なかなかまとめられてるのでは?
(普段1年を1万5000字で書いてるから感覚麻痺してる)


この記事とかダートのアレで弊noteを知ってくれた方は、ウマ娘で学ぶ競馬史シリーズを何とぞよろしくお願いします。文字数多いけど。お願いします。

それではまたハイセイコー編でお会いしましょう。


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