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“茶道と禅” #3 重要人物(鎌倉~室町)

栄西→鎌倉幕府3代将軍源実朝へ
栄西が鎌倉寿福寺(じゅふくじ)の住職であった1214年に、二日酔いで悩んでいた源実朝に、良薬として一服の茶と「喫茶養生記」を献上したところ、すっきりと回復した、という出来事から関東地方へも伝播してきました。

※栄西は実は禅僧ではなく、天台密教の僧だそうです。宋に渡って禅宗を学びましたが、天台宗内における兼教として禅を学んだということなのだそうです。

栄西は、高山寺(京都栂尾)の明恵(みょうえ)という僧にも茶を贈っており、その栂尾産の茶を「本茶」として”利き茶”をする「闘茶」が大変流行しました。
栄西は、苦い抹茶を服用すること、そのことが大切であるとしていましたが、意図に反してその後武士の間では、装飾品や唐物の茶道具、社交の場としての茶会にどんどん関心が寄せられていったのです。

室町幕府→能阿弥・芸阿弥・相阿弥→一休宗純→珠光
室町幕府の将軍や大名たちは、「大名物(東山御物)」と呼ばれる貴重な墨蹟、茶道具などを飾り付けて鑑賞しながら茶を中心とした宴会を行うようになりました。
将軍の身近に仕え、座敷飾りや茶会を担当する「同朋衆」と呼ばれる役割が誕生しました。彼らは茶道具のランク分けをしたり、茶道具の扱い方、置き方、しまい方を定めたり、作法を定めたりして現代の茶道へ通ずる礎を書物によって残しています。
君台観左右帳記」・・・同朋衆一族であった能阿弥・芸阿弥・相阿弥が記したもの

8代将軍足利義教は、風流を愛し静かな趣味の世界を好みました。そして能阿弥の紹介で茶の湯をたしなむ”わび茶の祖”である珠光と出会います。
珠光は室町時代中期の茶人で、
茶の湯、和漢連句、能、花などの一流文化を能阿弥から、
禅における「何事にもこだわらず」「本質を求める」こころを一休宗純から、
学んだのです。
そして「冷え枯れる」の精神を以て、唐物ばかりでなく、備前や信楽といった素朴な焼き物を用いるなどわび茶を確立させたのです。
そのわび茶の精神は、花の名人である竹蔵屋紹滴、京都の茶人である十四屋宗吾の他、古市澄胤、宋珠、引拙、大富善好らに引き継がれていきます。

武野紹鴎
堺の豪商の家に生まれ、在京中に
三条西実隆から歌論や和歌を学び、
十四屋宗吾から茶を学び、
堺に戻ってからは家業の傍ら茶の宗匠として活動したそうです。
堺の南宗院の僧、大林宗套(だいりんそうとう)について禅の修行をし、「紹鷗」の称号を得ました。

※千利休、今井宋久らも大林宗套に帰依(教えを請いその道を守って生きていく)しており、これが茶道と禅の結びつきをより強固にしたものと考えられています。=”茶禅一味”の高掲へと繋がる

武野紹鴎がなぜ茶道史にこれほど大きな影響を与えたのかというと、
堺の茶の湯文化をリードする文化人であったことでしょうか。
「現在の幾千万の茶道具は、全て紹鴎が見いだされた」
「引拙の時代までは珠光の風情であった。紹鴎の時代になって全てが改まった」(山上宋二記より)
と言わせしめるほどに、由緒正しい名物を用いる大変な目利き、センス、また今までは唐物の墨蹟や画賛が掛物の中心であった茶会において、藤原定家の和歌が書かれた色紙を掛物に用いるなど、見立てにより新しく和物の風を吹き込むといった影響力の大きさが功績と言えるでしょう。

そして華々しい織豊時代(しょくほうじだい、安土桃山時代)の茶道史へと移ります・・・