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「パンドラ」(元にした作品:『野菊の墓』伊藤左千夫)

「別れて欲しい」
 夫に恋人が居るのは知っていた。 
「随分急ね」
 私は冷静に答えた。将棋の一手で歩を動かすように。
 私が慌てないので夫は気付いたようだ。
「もしかして知っていたのか?」
「同窓会でしょ」
 私の返事に夫は安堵の表情を隠す。嘘だ。夫は結婚前から恋をしていた。
 夫は嘘を重ねる。
「そうなんだ。久しぶりの再会で盛り上がって。でも言っておくが体の関係はない。50も過ぎてそんながっついた真似はしない。ただその、年が年だけに、お互い老後のことを考えて」
 思わせぶりに言葉を区切る。
「死ぬ時は一緒に居たいねって話になったんだ・・・」
 言葉の余韻に浸っている。二人の間のお茶が冷めていく。リビングのテーブルは六人掛け。一人息子が巣立った後、夫婦二人では広すぎる。
(子どもは三人は欲しいって言ってたんだったわ)
 結婚前の夫は家庭的アピールがしたかったのか無知だったのか、そんなことを言っていた。信じて息子を産んでみれば夫は仕事を言い訳に育児に関わろうとしなかった。
(あの時、この人は口だけって気付いたのよね)
 例えば花が好きな人に、花を飾るのが好きな人と育てるのが好きな人がいるとしたら、夫は前者だ。
「お相手の方のお家は大丈夫なの?」
「向こうのご主人は去年亡くなったんだ。娘ももう成人している」
 さも、自分たちの恋に障碍はないように話す。
(確かに成人はしているけど、独り立ちはしていない筈。知らないのかしら?)
 夫の恋人のことは調査済みだ。まるで会ったことがあるかのように、顔もよく知っている。
「薄々勘付いてはいたけれど、いざ口に出されると戸惑うわ。少し考えさせて。二、三日でいいの」
「わかった」
「ちゃんと話が済むまでは和人に言わないでね。言う時は私から言うわ」
「ああ」
 私は自分の湯呑みを流しへ運び、さっと洗って自室へ向かった。
 夫の湯呑みは置いてけぼりだ。夫には目の前の冷め切ったお茶が私のように映るのだろう。息子が生まれた時、夜泣きで眠れないからと夫は寝室を別にした。物置代わりの小部屋にソファベッドを置き、プチ書斎として使っている。以来、夫が私の寝室を訪ねることは無かった。夜泣きは言い訳に過ぎない。
 
(余儀ない結婚)
 この言葉を幾度反芻しただろう。
 夫の実家で宴会があった時、夫と義家族は私たち夫婦の結婚をこう呼んで笑っていた。私は隣の部屋で授乳しながら聞いていた。息子の吸う乳房が心地良くも痛かった。 
 夫と私は見合いだ。実家は互いに商売をしており、結婚当時義実家の経営は芳しくなかった。向こうとしては、大事な息子を金と引き換えに差し出した気持ちらしい。一緒に酒を飲んでいた姑は息子を人身御供と言い、舅は気の毒と言った。私の器量はあまり良くない。
「暗い所で目を瞑ってりゃどんな女も一緒だ」
「生まれたのが男でよかったなぁ。嫁に似た娘だったら可哀想だ」
 襖一枚隔てて私がいるのによく言えたものだ。息子も生まれ、夫婦の絆は盤石だと思い気が大きくなったのだろう。
 酔った夫はある女性の話を始めた。
「そう言えばさ、里英って今何してんの。まだあっち?」
「従姉妹の里英ちゃんねぇ。海外留学してそのまま向こうで結婚しちゃうなんてね」
「やっぱり美人の顔は世界で通用するんだなぁ、ワハハ」
「ちっちゃい頃から可愛かったもんね。アンタまだ気にしてんの?」
「いや、ただどうしてるかって」
「向こうじゃない?流石にこっちに帰って来たら連絡位来るでしょ」
「ふーん」 

 その名前は私の記憶に刻み込まれた。その後、夫のアルバムを見る機会があった私は写真の中の人物の名前を一人一人聞いていった。
「この子は?」
「お袋の姉さんの子。里英。高校まで一緒だった」
 写真の中の少女は可憐な蕾のようだ。
「綺麗な子ね。モテたでしょう」
「そりゃあなぁ。俺の従姉妹だって言うと、周りが紹介しろってうるさくてな。心配した伯母さんが一緒に登下校してくれって俺に頼んで、行きも帰りも一緒だったから、彼氏に間違われて因縁つけられたこともあったな」
 アルバムの中の里英は成長していく。小作りながら整った顔立ちで、体つきは華奢だが出る所は出ている。男の庇護欲をそそるだろう。中学の頃には、既に自らの魅力を自覚した笑みを浮かべていた。
「いいわね、こんな顔に生まれたかったわ」
 私のお世辞を夫は鼻で笑った。

 その数年後、義実家と電話をしていた私は姑から伝言を頼まれた。
『ああ、ついでに吉嗣に伝えておいてちょうだい。里英ちゃんがこっちに帰ってくるから、何か相談されたら手伝ってやってって。じゃ、お願いね』
 帰ってきた夫は素っ気ない態度で伝言を聞いたが
「それで、里英の連絡先は?」
「そこまでは聞いてないわ」
「なんだ、気が利かないな」
 夫は早速実家に電話をして聞いていた。
 思えばその時からカウントダウンは始まっていたのだ。 
 
(あれから20年)
 里英は夫と娘の三人で帰国した筈だが、奇妙というか、夫の作為か、私と会う機会はなかった。
 結婚後の夫は家庭を顧みずに仕事に邁進した。付き合いと称して頻繁に朝帰りや外泊を繰り返し、夫婦の関係は事務的なものになった。父親が不在がちな家庭内を補うように、息子はしっかりと成長し母親を支えてくれた。
 大学生になると。
「悪いけど父さんの仕事は先細りになっていくと思う。俺は跡を継がずに他の会社に就職するよ」
 英断だった。実家が経営する会社で働いている私には、義実家の経営状態も耳に入る。夫の頑張りで一時期の傾きからは持ち直したが、将来性がない。息子が跡を継げば苦労は目に見えている。
 家族の進む道は3本に分かれようとしていた。息子が離脱し、今度は夫婦の番だ。二、三日の猶予を申し出ながら、私は翌日の晩には夫へ離婚届を差し出した。
「一緒に書きましょう。私が明日出しておくわ」
「ありがとう。財産分与は・・」
「私、難しいことは分からないから後は弁護士さんを頼むわ。あなたも私とグダグダ話すより、その方がいいでしょう。明日の朝役所に届けを出して、和人には夜にでも電話しておくわね」
「あの子は大人だ。分かってくれるよな」
「そうね」 
 私たちの離婚は至極呆気なかった。

 翌朝。
「良かったわね。余儀ない結婚を終わりに出来て」 
 出勤する夫を見送りながら私は言った。
 夫は怪訝な顔をした。それが彼の顔を見た最後だ。
 
 後の話は芝居の台本のように決まりきった流れだ。 
 この20年の間、私は定期的に興信所に依頼して夫の行動を調査していた。
 不貞の証拠はゴロゴロ出てきた。相手は無論、従姉妹の里英だ。
 夫の方から連絡を取り始め、始めは親切に、時折は貢ぎつつ、里英の観心を得ていった。里英も、幼い頃から変わらずに崇めてくる夫を憎からず思ったようだった。無垢な関係というのは嘘っぱちで、体の関係もあった。夫は出張と称して観光地への旅行を組み、何度も里英を誘っていた。里英の夫にバレたこともあったが夫が金を払い、里英が拝み倒して離婚には至らなかった。だが二人はその後もこっそりと関係を続けていた。昨年死んだ里英の夫は不倫の継続を知っていたかどうか。それとも匙を投げていたのかも知れない。余儀ない結婚に誰もが縛られていた。 
 
 十年以上に及ぶ不貞の証拠はちょっとした書類ファイルの厚さになり弁護士を苦笑させた。慰謝料の交渉に役立つだろう。別れ話の際に夫が肉体関係を否定していたのは、その有無が慰謝料に関わるからだが、そんな嘘は木っ端微塵に粉砕出来る。

(幸せでしょうよ。ずっと好きだった人と結婚できるのだから)

 もっと早くに切り出せばよかったと周りの人は言うだろう。
 だが私は、息子が独り立ちしてから離婚することを決めていた。
 息子が幼い頃に離婚すれば夫が養育費を払うことになる。
 子育てに全く参加しなかった夫が、養育費という名目の金銭で、育児の代償を払ったかのように錯覚するのが嫌だった。 
 
(まぁ、あなたはこれから嫌でも育児に参加するのよ) 
 
 私は、里英の成人した娘がいまだに親の脛を齧っていることを知っている。齧る脛の数が増えて結構なことだ。元夫と女の老後資金まで齧り尽くして欲しい。
 亡くなった里英の夫が借金を残したのも知っている。周到な里英は元夫と入籍した後で打ち明けるに違いない。それでも彼は嬉々として払うのだろうか。 

 いつ気づくだろう。清らかな初恋を、自ら汚してしまったことに。
 
 曲がりなりにも夫婦として暮らしたから分かる。夫は本来臆病な性質だ。
 若い頃に本気で里英を口説かなかったのは、失恋という傷を負いたくなかったからだ。私との余儀ない結婚を受け入れつつ、初恋を清らかな檻で保存していた。
(この結婚は嘘っぱちだ、本当の俺の女は他にいる)
 内心でそんな虚勢をうそぶいていたことだろう。
 檻の中に手を伸ばしたのは、年を重ねて欲が出たからだろうか。
 里英は決して夫を手放さないだろう。借金と無職の娘を抱えた50過ぎの女にあとは無い。
 彼が愛しているのは初恋の幻影だ。
 そんな虚像を愛されていることに相手の里英は気づいているのか。
 知りながら利用しているのか。おそらく後者だろう。
 
(それでも彼が愛を全う出来たら、心の底からお祝いしてあげる)   
 
 夫との結婚に元から愛は無い。だがたとえ政略結婚でも、共に暮らせば互いに情も湧くだろうと思っていた。子どもが産まれて、小さな幸せを重ねていければと・・しかし夫は、何一つ自分と重ねようとはしなかった。初恋の思い出を大事に抱えて夢を見ていた。
 彼は箱を開けてしまったのだ。
 
(私にはそんな相手はいないけど、もしいたとしたら) 

 箱を開けたりはしない。大事に、そっと、そっと抱えて、開けぬまま生涯を終える。

 初恋というフレッシュな果実は、叶えても破れても、その場で収穫するから意味がある。それが出来ないなら木守きもりの一果のように残して自然に捧げよ。欲をかいて全てを喰らうなど愚行だ。 
 
 それでも尚、最後の果実に手を伸ばした夫を、蔑むべきか羨むべきか。
 どちらとも言えないと思いながら、私は新しい暮らしへと歩み始めた。
 

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