「しんしんと。」(原作:三好達治『雪』 BOOK SHORTS 日本傳12月期掲載)
判明したのは肝臓の癌でした。
枯れ葉が地面に落ちる瞬間を見て、自分は死ぬのだと思いました。
日記を整理しておりますと若い頃が偲ばれます。時の端切れを繋ぎ合わせるパッチワークのような、他の誰の役にも立たない作業に残りの人生を捧げております。
今日も端切れを拾います。
「天鵞絨のようだ」
雪原を見てあの人は言ったのでした。
私とあの人は学生の頃に知り合いました。
同じ学部で集まった居酒屋で、あの人は賑わいの中心で盛り上がり、私は片隅で少しずつ酒を舐めていました。
「俺、布団のように積もった雪の上に飛び込んでみたいなぁ」
陽気なあの人に
「やめた方がいいよ。綺麗に見えても、下に何が埋まっているか分からない」
私は冷たく言い放ちました。周囲がしんとしました。
(やってしまった)
空気を読まない私は失言を恥じ入りましたが、
「あっはっは、分かったやめとく。高橋ってどこの出身?」
南国生まれのあの人は果実のような笑顔で言いました。
私は北国の生まれ。
私たちは結婚し、夫の故郷へと移り住みました。
言葉も道ゆく人の顔立ちも違う異国のような土地で、夫だけを頼りに暮らしました。
北海道でも本州でも、四国でも沖縄でもなく、九州には男児という言葉がよく似合う。
陽気で朗らかなあの人は、単純で短気な亭主関白になりました。
夫の実家は酒蔵で、酒と女の付き合いが多くありました。夫が他の女を温める一方で私の心身は冷えました。それでも私は、陽だまりを待つことには慣れていました。
北国の生まれなので。
旧い土地では、子どもの出来ぬ私は責められ、宴席で酔った親族などは、外で作って来いと夫を囃し立てました。そんな境遇の中で優しかったのが夫の弟です。
「今どきそんな事言うなよ。女の人は、子どもを作る道具じゃないんだから」
穏やかで地味な人でしたが、考えは田舎に似合わず新しいものを持っていて、その為に周囲から少し浮いている人でしたが、その事にも私は惹かれました。
「清次さん、ありがとう」
小さな声でお礼を言う私の肩を、そっと抱いてくれました。
私たちの仲は密かに深まりました。このままこの道を行きたいと思った頃に、夫が病で倒れたのです。
あんなに頑健な人が気弱になっていき。大人しくなっていき。
「とうとう、お前の国の雪景色を見られなかったなぁ」
萎れた声で言いました。
私と夫は病室のベッドの上で、タブレットの画面に頬を寄せながら、人工の雪景色を眺めました。画面の中の山の名を教え、この先に母校があるのだと、動画を見せながら無理に笑いました。
「元気になったら行こうよ」
などと嘘はつけずに。
瀬戸際で感情が蘇り、私の雪女のような体で夫を温められたらいいのにと、切に望みました。夫は洞穴を落ちるように死んでいき、体をつん裂く悲しみに、心が吠えました。
酒蔵は清次さんが継ぎました。
私は婚家を追われ、清次さんは引き留める素振りを見せましたけれど、周囲の圧力に勝てる程強くはありませんでした。
私も留まる気はありませんでした。
あの人が心と体の一部を持っていき、空いた穴に清次さんの入る隙はなかったのです。
夫が居たから清次さんを好きになったのだと、初めて気づきました。
夫に似た体と声に抱かれたかっただけだと。
その逆はなかっただろうとも、気づいたのでした。
私が愛したのは夫。でも、愛してくれたのはどちらだったのでしょう。
体を顧みず好きな酒を飲んで、他の女にも果実のような笑顔を向けたあの人と。
煙草も酒も嗜まず、ただ穏やかに寄り添ってくれた清次さんと。
私の脳は蕩けてしまい、もう分からない。
「高橋さん、お部屋に戻りますか?」
誰を呼んだの?若い女の声。夫の浮気相手かしら。返事なんてするものですか。
夫・・夫の名前は何て云ったかしら。
「聞こえてないのかしらね」
「まだちょっと時間があるから、後でまた声を掛けて」
「分かりました」
五月蝿いわねぇ、雀の噂話。私はもう、タカハシじゃないわ。私は・・・
誰だったかしら。
「高橋さん、明日ご家族と面会があります」
「了解です」
「普段のご様子を聞きたいそうだから、担当の山上さん、10時からね。面談室が空いてないからサンルーム使って」
「面談の間ご本人はどちらへ」
「一緒にサンルームでいいでしょう。日なたぼっこでもしてもらって、面談は隅に椅子を用意するので。ええと、他の入居者については・・」
翌日、一人の女性が施設を訪れた。スタッフがサンルームへ案内する。
高齢の女性が車椅子に掛けていた。
「高橋さん、ご家族がお見えですよ」
スタッフが声を掛けるが目は虚だ。
挨拶を交わし、二人は隅の椅子に掛ける。スタッフは入居者の健康状態や普段の様子を報告する。
「日に依って違う所はありますね。体調の良い時はたくさんお話して下さいます。先日は日記を本にして出版したいから、清書をして欲しいと仰いまして」
「本?」
「私的な内容だからと一旦お断りしたんですけど、活字になった状態を見たいということでお引き受けしました。ご主人との恋愛事情も書いてありますから、出版前には娘さんにも承諾を得た方が、と申し上げたのですが。お聞きですか?」
女性はキョトン、と一瞬言葉を失った。
「あの、私姪です。確かに叔母の若い頃には似てると言われますけど」
「あら。失礼しました」
「それに叔母はずっと独身でしたが・・・」
「え?」
「叔母は、私の父の妹です。私は結婚してますけど、たまたま相手が同じ苗字だったので高橋のままで。紛らわしいですよね、すみません」
スタッフが一冊のノートを取り出す。
「でも日記に。ご主人がどんな方で、どこへ引っ越してとか、具体的に」
「それ・・多分創作ノートです。同じデザインのものが何冊もあります。叔母は、小説を書く人で」
「創作?」
「ちょっと失礼」
姪の女性がノートに手を伸ばした。
「叔母は小学校の教師をしてました」
ページを捲りながら女性が話し始める。
「学校ってブラックでしょう。体を壊して休職している間に同居の母親が認知症になり、介護生活になったそうです」
悔やむ顔をする。
「私の父は早くに亡くなっていて。私も遠方に嫁いだので、叔母の手助けをしてやれなかった。ヘルパーさんも頼んでいたようですが、大変だったと思います。結婚どころか恋愛も・・あ、でも」
顔を上げる。
「一度、断捨離するからって片付けを手伝ったんですけど、その中に男物の厚手のコートがあって。最初は祖父のものかと思ったのですが、随分と大きくて。祖父は小柄な人だったんですよ」
姪はノートに視線を落とす。
「・・・少なくとも、恋はしたのでしょうか。結婚はしなかったとしても」
スタッフが呟く。
「『あの人は死ぬまで、雪の美しさを信じていた』」
「『雪の怖さも残酷さも知らないまま、あの人は逝った』・・・高橋さんの言葉です」
二人はチラリと、車椅子を見る。
「よくご主人の事を話して下さいました。私、本当の話だと信じてました」
「創作ノートだと思いますけど。日記にしては仕事のことが全然書いてありませんし。それとも、辛いことは書きたくなかったのか・・」
あの人は本当に居たのか。その生まれ在所へ行ったのか。
恋の縺れがあったのか。
車椅子の中の虚な意識に答えはあるのだろうか。
「叔母は一人で祖母と、その後祖父を看取りました。外出もままならぬ生活の中で唯一の趣味が、小説や詩を書くことだったようです。応募した短歌が新聞に載ったことがありましてね。切り抜きを送ってくれました。たった一行をとても喜んでました」
姪が顔を上げる。
「叔母に恋をする自由があったとしたら、学生の頃か、両親を看取った後。あのコートは何時買った、誰の物なのでしょう・・・」
車椅子の後ろから白髪頭と細い手足が、置かれた人形のように伸びている。
手には何かを持っている。
老婆は夢を見ていた。誰かが、何処かへ行こうと手を伸ばしている。
(誰・・・?)
唇が僅かに微笑んだ。
しんしんと 想い出が降る。
やわらかく こころで融ける。
恋心は脆く儚く。そして時に、根雪のように消えはしない。物悲しい程に。
まっしろな雪の下は、虚構か現実か。
指の隙間から一葉の写真が落ちた。枯れた腕が床へ垂れる。
恋心よ
しずかに
眠れ。
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