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コトバアソビ集「せんせいの繊細な先妻」

「前の妻は繊細な人でね」
 私の好きな人はほろ苦く笑う。
 私の好き、には一切気づかない。
 
 カルチャーセンターの文学講座で知り合ったその人を、私は
「せんせい」
と呼ぶ。彼は大学の講師。私は、たまたま聴きに行っただけの会社員。つまらない毎日に彩りが欲しくて講座に参加した私は、内容よりも彼に惹かれてしまった。落ち着いた雰囲気と柔らかな物腰、シャイな笑顔。60代かなと見当をつけていたらまだ40代で驚いた。顔はよく見ると年相応だが、白髪が多く、何よりも雰囲気が老成していた。
 参加者の中に呑助の賑やかしが居て、最終日にみんなで飲みに行くことになった。私は酔ったせんせいと連絡先を交換し、怯えた野良猫を手なづけるようにそろそろと、せんせいとの距離を縮めた。
 時折会って一緒に本屋さんに行ったり、喫茶店で話をしたり。
 でもせんせいはなかなか私の手中に落ちてはくれなかった。せんせいから見たら私は10歳は若いし、見た目もそう悪くないと自負している。さりげなく体に触れたり、意味深な目でじっと見たり、それなりにアピールをするのだけれど。 
 ある日やっとせんせいをお洒落なバーに呼び出した私は、今夜こそと密かに意気込んだが、聞かされたのは別れた奥さんとの惚気話だった。
 
「傷つきやすい、ガラス細工のような人でね。ちょっとしたことですぐ泣いて。ほっとけない感じだった。風にも耐えぬ花のような。僕は、そんな彼女を守ってやりたいと思って結婚したんだ」 
 惚れた男から惚気話を聞くことのアホらしさ。
 私は口の端が引き攣りそうになるのを必死に耐えた。 
 聞けば聞くほど、せんせいの先妻は厄介な女性だったらしい。
 嫌われるのが怖いと言って人付き合いをしない。
 当然、働きにも出ない。
 せんせいの母、つまり義母に冷たくされたと思い込みせんせいを責める。
 悲しいことがあると家事をしない。
 かといってせんせいが家事をするといじけて泣く。
(うわ、めんどくさい女)
 そうとしか思えないのだが、せんせいはそんな先妻に庇護欲を掻き立てられたのだろう。
 1日の二十四時間中、二十三時間五十九分位はメソメソしていた彼女が、ほんの少し微笑んだり機嫌良く笑ったりすると、それだけでせんせいは幸せになったそうだ。
(アホらし)
 私がせんせいに向けていた微笑みは鏡を見て練習したものなのに、全く効果が無かったということか。 
 せんせいへの恋心は次第に冷めていった。
 
「僕は、そんな彼女を一生守ってあげたかったんだけど・・・」
(へーへー、この話まだ続くの?)
 先生は叙情たっぷりにグラスの氷をくるりと回す。さっさと話せ。
「彼女には、こんな僕が頼りなかったみたいでね。他に恋人が出来て去ってしまったよ・・・」
(結局不倫かい!)
 心で突っ込む。
 私のせんせいに対する気持ちは絶対零度に冷め切った。私は適当な理由をつけてバーを後にした。最後に見たせんせいは、まだ意味深にグラスの氷を回していた。
 
「はぁ・・コンビニでアイス買って帰ろ」
 マンションに帰った私は、奮発した高級アイスにスプーンをぶっ刺しながらため息を吐く。
「いるんだよねー、繊細ぶって周りを巻き込むオンナ」
 以前、困ったチャンな新入社員が居たことを思い出す。周りの女子社員に迷惑を掛けまくった挙句、何故かイケメンの先輩社員をゲットして寿退社して行った。
「ああいうタイプに引っ掛かるオトコも、一定数居るってことか」
 
 せんせいの先妻さんがどの程度繊細な人だったのか。もしかしたら通院が必要な程心が弱かったのかも知れないし、それは当事者じゃないから分からない。
 ただ、今までの経験からすると、繊細な人間は周囲に対しては鈍感だ。自分自身の心の襞を捲ることに夢中で、周りに迷惑を掛けようが、周りを傷つけようが無頓着だ。
「本当に繊細な人って、周りにも優しい気がするんだけどなぁ」

 ああ美味しかった、高級バニラアイス。
「よっしゃ2個目!レッツ抹茶ぁ〜♫」
 3個買って良かった。最後の一個は季節限定だもんね。
(せんせいはいつまで繊細な先妻さんに囚われてるんだろう)
 別れたのは10年前と聞いた。
 もし、先妻さんみたいな面倒くさいタイプの女性に会ったら惹かれたりするのかな。
「すみませんねぇ、単純なオンナで。あ、お腹が冷えちゃうかな」
 温かい紅茶を淹れてゆっくりと飲む。
 お腹の中で高級アイスと、始まりもしなかった淡い恋が、ふわふわと溶けていった。

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