珍しく素直な話

 控えめにドアをノックする音がする。
 瞼の裏でなんとなく感じていた光が、太陽が昇ったからだったということを認めざるを得ないだろう。
 嗚呼、今日も眠れなかった。
「ニア」
「レティ……。おかえり……」
 部屋のドアが開く音を聞いて、瞼を開く。ベッドに転がした自分の体は、シーツに包まったままだ。
「今日はベッドに入ってたのね。寝てたの? 」
「横になってただけ。レティは大丈夫だった? 」
 小さく息を吐く。あなたが居ないといつまでも寝れない体ですよ、というアピールも兼ねて。
 それから、自分の長い前髪をくしゃりと握り潰しながら、人のことよりも自分を心配しなさいと言外に示した。
「気になる? 」
 つ、と視線が逸らされる。それを追うようにして、視線を床に投げた。
「気にしない方が、君は嬉しいか」
「いいえ」
「じゃあ、……腕見せて」
 床から腕へ、それから顔へと、伺うように見つめてみれば、少し驚いたように目が開いた。
 誤魔化すように小さく笑うのが愛おしい。
「あら、よく分かったわね」
「それくらいなら。……縛られたのか」
 差し出された彼女の手首にはきつく縛られたのか、赤黒い縄の跡が、痛々しいほどくっきりと残っていた。
 これならばおそらく、足首にもついているのだろう。
 仕事とはいえ、こうも乱暴に扱われているのは面白くない。眉間に皺が寄ってしまうのも、しょうがないことだろう。
 そんなことを考えながら、潜り込んでいたシーツの中から、手を伸ばす。
 すると、レティが何を思ったのか、手を引っ込めようとしたので半身を起こし、少々強引に掴んで傍に引き寄せれば。
「―――っ! 」
 レティが息を呑む。
 思わず手を離しそうになった。
 そこで、右手まで呪いが侵食していたことに、やっと気がついたのだから。
 レティの手を握ったことで、少しずつ少しずつ呪いが引いていくのを見て、彼女がいないと私はすぐにでも死んでしまうのだな、と他人事のように思った。
「知らない間にこんなに」
 小さく呟くと、まだ少し逃げようと力の入る腕とは違って、私から彼女の自由な視線が逃げた。
「知らない間に……っていうより、わたしのせい、かしら」
「根拠のない自虐は嫌いなんだが」
「この縄の跡見た瞬間に貴女の顔に、その……、ヤドリギ? の模様が広がるの見たのよ」
「徹夜続きのせいか、随分呪いが感情の指針になってるのだな。まったく厄介な」
「そうね」
 そうしてレティは息をついた。
 私はいたわるように、するりと彼女の手首を撫でる。
「くすぐったいわよ」
「そうかい、治してあげるからもう少しこちらに」
 ベッドに座り直して手招きをする。
「何故?このままでも貴女ならできるでしょう? 」
「いいから」
「……わかったわ」
 怪訝そうにしながらも、彼女がベッドに腰掛けたのを見届けてから、左手の人差し指を立てて軽く振る。
 自身の左脚の膝上から下に、義足が構築されていくのを目のはしに確認。それから、レティが体の横に置いていた左手の上に自分の右手を重ねて、ベッドから降り、彼女の左膝頭にキスをした。
 明らかに動揺して逃げようとするのを、足の裏に左手を添え、膝頭に口付けた唇をそのままゆっくり下へと滑らせつつ、目だけを彼女に向け、制す。
「ニア、ちょっと……! 」
 抗議の声を無視して、足首へ。
 足首にもやはり縄の跡。こちらの方が手首のよりも濃い色をしてるような気がする。
 視認すると同時に、確かにちりちりと呪いが進行している時、特有の痛みを感じた。
 ……先程は気づかなかったが。
 嗚呼、本当に面白くない。
「黙ってて。」
 目を閉じ、唇を強めに足首へ押し付ける。
 少し目を開け縄の跡が無くなっているのを確認し、ゆっくり口を開けて、噛み付いた。
「……っ、ニア、貴女今日、おかしいわ。普段ならこんなこと、しないじゃない」
「普段と違うから、って答え、出てるじゃないか」
「そう、だけど、そうじゃなくて! 」
 応えるかわりにもうひと噛みして、口を離した。
 薄く歯形がついていたのを見て、心にじわりと満足感が広がっていく。
 流石に残すのは躊躇われて、キスを落とし歯形を消す。
 そして顔を上げて、目を合わせた。
「レティは、囲われて囚われて逃げられないくらいにまで堕ちてしまいたい、と思ったことはある? 」
「貴女は? 」
「あるよ。」
 立ち上がって、レティの肩を押す。
 抵抗なくベッドに横たわる彼女の目は、いつもと違う私への不信感を滲ませていた。
「こんなに縄の跡がくっきり残ってたんだ、しばらく休みもらったんだろう?」
「え、ええ……、跡が無くなるまでは、って。それがいったい――」
「私、かれこれ二週間ほど寝てないんだよ。だから、今すぐにでも寝てしまいたいくらい。でも、」
「でも、何?それならもう寝ましょう?わたしももう疲れたから一緒に、」
「それじゃあ駄目。私は今、とても機嫌が悪いんだ」
「徹夜続きだからよ」
「今日くらい、私に付き合いなさいな、chrysalis(クリサリス)」
 顔の横に手をつき、覆い被さる。
 彼女は大きく目を見開いて、それから口を真一文字に引き結んだ。
「さっきの質問を繰り返すよ、ボルボレッタ。囲われて囚われて逃げられないくらいにまで堕ちてしまいたい、と思ったことはある? 」
 ぐっと目を細めて、ボルボレッタは私から目をそらす。
 小さくため息をこぼしつつ体を起こし、縄の跡が残る彼女の右脚に指を滑らせる。いきなり触られたことで彼女の脚がびくり、と震えたのを無視して、足首へと指を這わせ、忌々しいその跡を消す。
 そして、まるで夜の帳のように美しく広がった彼女の髪を、ひと房掬い上げて口づけを。
「私は、ボルボレッタ、他でもない"貴女"に、囲われて囚われて逃げられないくらいにまで堕ちてしまいたいと思ってるのに。私のこと。ボルボレッタはそうは思ってくれないの? 」
 縋るように見つめる。卑怯な人間だ、私は。
「そんなの、」
 こんな、出会った頃とは、呪いのせいで、変わってしまった私に。
 ――私よりももっと、君に相応しい人がいる。だから、私のことは、忘れてしまいなさいな。ね、レティ――なんて、ことあるごとにほざいていた私に。
 ずっと、ずっと、愛をもって接してくれていた、そんな人が、
「わかりきってるでしょう……? 」
そう、思ってないわけ、ないじゃないか……!
「ああ、分かっているよ。分かっているとも! 分からないなんて言えるわけない。ずっと、ずっと! 自分の気持ちも分からないまま君を探し続けた日も、再会して気持ちに気づいたときも! 想ってたんだ、焦がれていたんだ……! やっと、ボルボレッタ、君に会えたのに、傍にいるのに、こんな醜い、呪いまみれの化け物じゃ、君の傍に居られないって、触れてはいけないんだって、ほかの生き物の生命を奪って生きてた化け物の私なんかじゃ、君を幸せにはできないんだって! それでも、君がいないと呪いで死ぬ上に寝ることもできない私は、自分から離れることもできなくて……。言葉で態度で君を遠ざけようとした。そうしなくちゃいけないんだ、それが最善なんだ、そう思ってた、のに。君が、どんなときも傍に居てくれるから、もう、我慢できなくなってしまったよ。クリサリス。ボルボレッタ。名前が変わっても、顔の右側火傷してしまっていても、好き、だよ。君がいないと、いや、だ」
 涙が零れる感覚と、焼けるような痛みがぞわりぞわりと這い上がってきているような感覚。
 後者は感情が高ぶったからだろう。
 でも今は、それすらも愛おしい。
 これはもはや、私を彼女へ繋ぐ鎖だ。愛の証だ。彼女に触れて呪いが弱まるうちは、愛されていると実感できる、便利な指針だ。
 あいしてほしい、ずっと、死ぬまで、死んでもなお。
「いまさらすぎるのよ」
 頬を包まれ、親指で涙を拭われる。
「わたしがいないと、だめなことも死んでしまうことも、ましてやわたしのこと好きでいてくれたこと、全部知ってたわ。それに、どんなわたしも好きだってことも」
 夢なら早く覚めて欲しい。こんな幸せなことが、夢ならば、死んでしまいたいから。
「そうか、そう、か」
「もっと嬉しそうにできないの?ほら、笑って」
「笑い方がわか、らない」
「泣き方はわかるのに?」
「泣きたくて泣いて、いるわけでは、」
「知ってるわ」
 彼女はくすくすと至極おかしそうにしながら、私の頬を撫で続けている。
 少し冷たい手が心地いい。
「レティ」
「なあに」
 慈しむような眼差しを真正面から見てしまった。
 また泣き出しそう。
「君を私に教えて欲しい。何もかも、心も体も全部」
 あの喧嘩別れしてしまったあの日から、再会するまでの君を。
 私の頬を撫でていた手が、するりと首の後ろへ滑っていく。それから、強く引き寄せられた。
「じゃあ、手始めに、イイコトしましょう?」
 ごくり、と思わず喉を鳴らしたのを聞かれていないことを、切に願う。
 嗚呼、本当に面白くない。
 (こんな負け戦があってたまるか)

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