駅に居たあの人

 アルバイトで、朝現場に向かう途中、最寄りの駅の改札を抜けたあたりで背後から静かな声が聞こえた。思わず振り返りその声の主を見てしまった。その人は、二十代半ばの女性で両耳にイヤホンをつけて、パンツスーツで歩いていた。曲名は知らないが、最近よく有線で聴く、失恋ソング(と僕は捉えている)を歌っていた。「朝から失恋ソングかぁ」と思いながらも、向かう道が一緒らしく、しばらく後ろから静かに歌声が聞こえていた。これぞBGMなんてくだらないことを考えながらも歩いて、現場まで向かった。気がついたら曲がり角で別れたようで聞こえなくなったが、あれは彼女の今の気持ちだったのか、それとも(僕の家にはテレビがないのでドラマなどはわからないが)好きな番組の主題歌なのかは全く不明だ。それでも彼女は、誰か(ほとんど僕だが)に振り向かれ、さらには聞かれながらも、歌い続ける心情であったこと、その曲を聴き続ける心情であったことは確かで、僕はそれを背中で聴き続ける心情であったのだ。
 
 お互いのその心情も曲も、名前は知らない。鼻歌検索なんてものを誰かが発明して普及して便利に探したり知れたりできるようになったが、今はこれを知らない方が美しい、そんな気がする。

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