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『PERFECT DAYS 』が孕む危うさについて


(ネタバレです)

途中までは、気分のいい映画だと思ってみていた。軽快なジャズからはじまる「丁寧な生活」。「幸せってお金じゃないよね」的美徳。

彼が口角を少しあげてにこっと笑うあのキュートな仕草に、つられてこちらも笑顔になる。

でも、彼が現像した写真をアルミ缶にいれて押入れに仕舞い込む場面で、思わずぞっとしてしまった。

あまりに几帳面すぎると思った。

それらを単に綺麗に並べているだけではなくて、ひとつひとつのアルミ缶はすべて同じ種類で同じ色、あげくそれぞれの缶にはご丁寧に撮影した年月まで記入している。

そんなに写真が好きなのかとも思ったけれど、作中では、写真を撮る場面こそあれど、それを見返す場面は一度もない。

よく撮れているものはアルミ缶へ、そうでないものは破り捨てるという形式的な判別作業ののち、丁寧に日付を書いてしまいこみ、二度と見返すことはない。

まるで、「丁寧に仕舞い込む」ためだけに写真が現像されているようだと思った。

こうした「丁寧な生活」に対するうっすらとした疑念は、最後の場面において確信に変わる。

あの涙。最初は泣いていることすらわからない、あのひっそりとした涙が、彼の今抱えているものを、否応なく我々に想起させる。

低賃金。やる気のない同僚、孤独、ぼろぼろの賃貸、無理やり引き剥がされた幼子の手。綺麗になっていく浅草駅。からっぽの財布。解体され忘却される古い家屋。「どうしてずっとこのままでいられないのかしらね」 というママの言葉。父親への反発。

「ホームに会いにいってあげてね、もう前みたいじゃないから」という実姉?妹?に対する頑なな拒絶と、嫉妬や羨望をふくんだ涙。
そう、彼は泣いていたのだった、と我々は思い出す。ドライバー付きの高級車で姪を奪いにきたあの女が「こんなところ」と言い放ったあの夜に。

それに気がついたときにようやく、この「丁寧な生活」が、決して自然に成立しているのではなく、彼の強い意志と誇りによって、ぎりぎりのところで成り立っていたにすぎないのだと知る。

裕福な家庭に生まれ、父親に反発するようにして家を出て、ぼろぼろの家で暮らし、社会的地位の高いとは言いがたい仕事でその日を生きるための金を手に入れる。

その、普通の人ならば耐えられないであろう生活を、彼は彼の誇りのために続けなくてはいけなかった。しかもそれは誰がみても"幸せな暮らし"であるのがわかる仕方で。
そうしなければ、彼の父への報復は成立しえないから。

にこっと笑うような日々をいつまでも続けることが彼には必要だったのだと思った。

「こんなところ」と言われて、初めてぼろぼろと泣いてしまったあの日の翌朝でさえ、彼は微笑むことを諦めない、口角を上げることをやめることができない。

それはもはや呪縛だとすら思う。
一度それを諦めてしまえば、崩れ落ちてしまう生活が彼にはあったのかもしれない。

最後の場面、彼は涙をなかったことにしようと無理やりに口角を上げつづける。

不安や絶望、孤独を打ち消して"PERFECT"が続いていくこと、そしてそれを自分に強制することの狂気とその限界とが最後の異質な表情に表れているのではないか。

彼にとっては、たったひとつの"PERFECT DAY"だけではだめなのだ。"PERFECT DAYS"でなくてはいけない。

そのことを毎朝毎朝、莫大な金をかけて作られた立派なスカイツリーを見上げて対抗心を燃やしながら、自分自身に強制し続けることの異常さ。
そうした仄暗い部分が本映画にはあるように感じた。

追記

もちろん、彼の何気ない幸福はたしかにそこに存在しているのだと思う。

「耳が本体で自分はおまけなんすよ」と語る同僚、行きつけの居酒屋のママの素敵な歌声や、金髪の女の子がくれる不意のキス。そういうものに自然に口角が上がることもあるだろう。

ただわたしが言いたいのは、その笑顔の奥底にあるものが目一杯の幸福だけではないのではないかということだ。

彼にも、一生懸命に口角を上げて、幸せはそこにあるのだと自分を鼓舞しながら起きなければいけない朝があるということ。そこに、わたしは焦点を当てたかった。

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