いずれどうにかなる僕らへ。
文中に一文字も色についての記述がないのに、なぜその表現から夏の青空を想起するのだろう。
ただ一音もかすっていないのに、それどころか成立する言葉は一切の温度を含まないはずなのに、冬の朝を感じるのはなぜだろう。
前にふと、写真加工が好きだけれどこの加工の後に出す色味を文章で書こうとするとどうしてもできない、という話を書こうと思って書いた記憶がなくて多分、ボツにした。
君よ、恐れるな。
表現とは、それそのものにはなんの制約もなくて、それを通した結果の棘が、あるいは丸みが、あるいは何かが、あるいは印象が、どういう波紋を起こすかだ。
表現とはそれそのものに、なんの制約もないはずだ。本来なら。
なにをどうやったって、吐いた息が喉を震わせたその振動は声となるのだから、なにものをも傷つけない表現とはつまり呼吸の停止かもしれない。
音の全ては振動で、それが伝われば伝わってしまうから、そうなれば一切の振動と鳴動をやめてしまえばなにものをも傷つけない。
そうなるまでの過程の中で、いずれどうにかなる僕ら。
美しさを、恐れるな。
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