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故郷にて⑦

 私は宗教が嫌いです。神も仏もいないと思っているから。
でも、あると信じる人たちが作り上げてきた文化や芸術は好きです。それは人間の営みの一部だから。

 モスクワで、結構「宗教」と接する機会がありました。最も仲良くしてくれたロシア人がルーテル派のキリスト教徒でしたし、インド人は当然イスラム教でした。韓国人の友人もクリスチャンでした。もちろん、無宗教の人もたくさんいました。ただ、日本よりもこういった「宗教」に触れる機会が多かったように感じます。

 仲のいいロシア人(ルーテル派キリスト教徒)には、しょっちゅう「私は神様を信じていない」と伝えていました。もし神様がいるとしても、人間を愛してなどいないと思う、ともよく話していました。彼は「神様は人間を愛しているし、あなたのことも愛していると思う」と言っていましたが、そのたびに私はこう問うていました。「それならなぜ、神様はこの世の理不尽をお許しになるのか?」と。彼はこう答えていました。「わからない。でも神様が望まれたことではないと思う」。

 私はこの世の理不尽が許せないし、生まれた場所によって不平等が生じていることも許せないし、自分が無条件に愛されることもまた許せないのだと思います。だから神様がいると信じられないし、神様はいると言って回る人たちが信じられないし、信じるという行為自体も理解ができないのだと思います。なぜ救ってくれない神様を、あなたのことを救っても他の誰かを救わない神様を、そんなに真っ直ぐに信じられるのですか?

 神を信じる人を否定したくはありません。私は神はいないと思うけれど、信じるのは個人の自由だと思います。それで気持ちが楽になるなら、むしろそうしてほしいと思います。わざわざ地獄に戻ってくる必要はありません。頼るものがあれば楽だろうし、どんなときでも神様が見守ってくれていると思える方が楽だろう、ということは理解ができます。だから、それを取り上げるようなことを私はしたくない。もちろん、押し付けられれば話は別ですが…。

 私の友人には、旧統一教会を信奉している人がいました。でも私は彼のことが普通に友人として好きでした。彼は決して私に信仰を押し付けようとしなかったから。殺人事件が起こって以来、連絡を取っていないのですが元気かな…元気だといいな。彼がそれで救われたなら、幸せなら、私がわざわざそれを「宗教を信じるなんて愚かだねえ、神様なんていやしないんだよ」と取り上げることは残酷でしょう。彼が幸せになるために選んだ道なのだから、私にはそれを安易に否定できないし、否定していいはずもない、と思います(もちろん、「押し付けられた」子どもたちは別です)。

 しかし、救ってくれない神様をなぜこうも信じ続け、それに殉教さえできるのでしょうか。私には不思議でなりません。私は全員を平等に愛さない神様ならいらないと思っています。ロシア人の彼が言う通り私が神に愛されているなら、私はいつか神に愛されなくなるでしょう。誰かを選ぶ神なら、私だっていつか選ばれなくなる可能性がある。そんな恐ろしさのある神様なら私はいりません。死後に世界が存在するかもしれませんが、それは死後の私に考えてもらおうと思います。私は神よりも人間を信じたいし、死んだ後よりもいまを変えたいと思っています。救われるなら死後ではなくいまがいい。

 大学、社会人と、「信仰」が知りたくて何冊もキリスト教の本を読みました(宗教学の先生はプロテスタントの牧師さんで、私は先生が大好きでした。先生が好きすぎて一時期プロテスタントになろうかと考えたくらいです笑)。でも、結局今に至るまで理解ができないままでいます。なぜこんなにも矛盾だらけで、理不尽を放置し、「統治者にとって都合のいい」理論をとうとうと述べる「宗教」を信じられるのだろうか?そんなにも強く?

 とはいえ、私は「文化としての宗教」は好きです。讃美歌も、教会も、神楽も大好きです。人が祈りを捧げるその切実さ、多様さが好きです。結局、私は「人間」が好きなのかもしれません。神よりも、何よりも。

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