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故郷にて⑥

 モスクワに留学してすぐのころ、友人に赤さんが生まれた。
今日、初めてその子に会ってきた。

 赤さんはかわいい。泣いていても、とてもかわいい。
今日、気が付いたら5時間も友人の家で赤さんと触れ合っていた。もちろん、途中寝ていた時間もあったけれども、彼女はよく泣いて、よく笑って、お腹いっぱいになったら眠っていた。本当にかわいかった。手も、足も、全部が小さくて暖かくて柔らかくて尊かった。

 まだうまく動かせない両手両足を使って懸命に動こうとしていたし(うつ伏せから動けなくなっては泣いていた)、言葉にならない声で何かを訴えていた(訴えているのはわかったが、もちろん言葉ではないので理解はできない)。私は「命は偉大だ…」と感心しきりだった。

 元気に育ってほしい。せっかく世に生まれたのだから、存分に生き抜いてほしい。できれば幸福に、閉じこもることなく開けた世界へ出て、存分に生を謳歌してほしい。大丈夫、あなたのお母さんは素晴らしい人だから、あなたはきっと幸せになれる。いまはまだ自由に動けないだろうけれど、すぐに歩き回れるようになる。いまはまだうまく意思を伝えられないけれど、すぐに言葉を話して、意思を伝える努力ができるようになる。いまよりももっと遠くへ、あなたは進んでいくことができる。

 私には母親がいない。5歳の頃、ダブル不倫をしたあげく出て行って、それきり一度も会ったことがない。別に会いたいとも思わない。ただ、そのせいで、私は母親というものがよくわからない。理解もできない。母代わりに祖母が育ててくれたけれど、あの人は決して「母」ではない。

 だからだろうか、友人が大切に大切に赤さんを抱く姿を見て、とても尊く思った。私が得られなかった幸せを、この子は得てほしいと切実に思った。そして、私の友人が母親でいる限り、それは絶対にかなえられる。

 子どもの成長をずっと見守っていたい。でも、私は子どもを産みたいとは思えない。自分に子どもが生まれて育てるイメージがどんなに頑張ってもわかない。彼女の子どもを腕に抱えても、私は少しもそのイメージを抱くことができなかった。ただただ、この子をうっかり殺してしまわないか、けがをさせてしまわないか、それだけが恐ろしかった。私はおそらく母親に向かないのだろう。母親がいない、母親に捨てられた私がうまく子育てできるとも思えない。

 目下私にできることは、祈ることだけだ。この子の健やかな成長を願って、自分の人生を生きることくらいしかできない。いつか、自分の子をなしたいと思える日が来るのだろうか。それとも、永遠に来ないのだろうか。どちらでもいいけれど、もし子どもが私のところに来てくれるのなら、せめてめいっぱいの愛情で迎え入れたいと心から思う。望まれない子どもだった自分への、供養の気持ちも込めて。

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