見出し画像

ひとり空間の都市論 読了

臭って賞味期限を判断するため、冷蔵庫の中は、常に最小限のものしかない。習慣になっていたミニマムな生活スタイルが、コロナ禍で一変した。スリッパで行ける距離の近所のスーパーは、安定した食料の供給は約束してくれず、巣篭もりを推奨してきた。スーパーを中心に構成された地域の共同体は、各家庭に小分けされ、「ひとり」を強く意識するきっかけになった。
本書内で紹介される「TOKYO STYLE」に写っているの誰かの部屋は、風景以上には見えなかった。良く出来たドラマのセットと小道具に映利、程よく、カタログ的に冷えていた。簡単なプロフィールを読んでちょっと温度が上がってくる。それでも、色とりどりの、誰だか知らない「おひとりさま」のオンパレードだ。好きなものに囲まれた個人の部屋には、他者が口出し出来ないルールがある。無秩序に見えても、あるべきところにモノが在り、住人の自意識が空間を支配している。凸凹に並ぶ本の順番の理由も、本棚の上に並んだ小物の配置図も説明が可能だ。プライベートな空間では、寝ぼけながらでも明かりがなくてもオートマチックに生活が出来る。個別カスタマイズされたコックピットは、心地よい。
「ひとり」という言葉の響きには、謳歌する自由と断固たる排他性があるが、「ひとり空間」との付き合いが長いと、外界との境界はひどく曖昧になる。学業を疎かにした学生時代は、一人暮らしの部屋は寝るための空間で、友達同士の溜まり場になっていた部室や半日いても怒られない喫茶店などが生活の中心になった。自分の居場所を街の中に求めれば、物理的な部屋の広さよりも、活動するうえでの移動のしやすさの方が優先順位は高い。狭い街では、持ち金全部を飲んだ後に、歩いても帰れる距離にある部屋が重要だ。暮らしに必要な店を結ぶ平面の全部が、住居として機能していた。学生時代の4年に限った生活空間は、身軽である方が好ましかった。

社会人の一年目は、相部屋の独身寮での生活だった。10畳の個室では、先輩の生活空間の空いたスペースに転がり込んだ「お邪魔しています」感が強かった。職場が別だったので、仕事の話をするでもなく、映画や音楽の趣味も違ったため、たわいもない世間話しか憶えていない。そのため、生活の中心は共有スペースの食堂になり、誰か見つけて捕まえては、だべって時間を潰していた。独身寮は地方出身者しかいないため、夜中も休日も誰かがいた。スマホどころか携帯電話もない時代は、寮外の世界との繋がりは薄く、文字通りの同じ釜の飯を食う共同体での生活だった。後輩も同期も関係なく結束は強く、二年目にひとり部屋を獲得すると、居心地は最高になった。飯付き、風呂付き、遊び仲間付きだ。外で飲みすぎてフラフラになるまで酔っても、誰かが連れて帰ってくれる、お互い様だ。意識を無くすまで飲み潰れた後輩に背中にゲロをかけられ、一発頭を叩いて、文句を言いながらまた背負って連れ帰った。誰もいない食堂で本を読んでいても、孤独ではなく、「ひとり」を感じる事は無かった。視界に入る扉の一枚むこうで、誰かが大音量で音楽をかけていた。食堂の付けっぱなしのテレビや、読みかけで散乱した新聞が、一つ屋根の下の人の気配を感じさせた。
ひとりではあっても孤独では無い。それを可能に思えたのは距離感だった。独身寮では、会社での関係とプライベートな関係の境が曖昧だった。中間に存在する柔らかな場所にいた。半分閉じて半分開かれた生活の、心地よさの理由は気配だった。それは「ひとり」という精神的にも空間的にも中間な状態で強く感じる。家族よりは遠く、仕事仲間より近い、友達未満のゆるい距離の関係は心地よい。お金を貸すほど親しくは無いが、隣にいても危害は無いと安心できる。必要以上に干渉してこない距離を保ってくれる。それぞれ勝手に生活をし、必要な時だけ互いの時間をシェアする。

物理的に距離が遠くてもSNSで繋がっているから寂しく無い、世界は空でつながっているから一人では無いと、勇しく言える人もいるだろう。だが、SNS内に住んでいるのではないかと思えるほど精神的な距離が詰まると、存在が半ばボット化してどんどん風景に近づく。いざというときに駆けつけることが出来るという生活空間の距離を大切に思うのは、アナログで時代遅れな感覚だろうか。重ねた言葉の数だけが、繋がりを強化することが出来るのだろうか。振り向かなくても気配を感じる中間的な距離の関係の人とのつながりの糸の本数が、都市での「ひとり空間」を豊かにしてくれる気がする。姿が見えなくてもすぐに返事が来なくても、いつも半分つながっていると感じられる安心と信頼感が、「ひとり」の気持ちを支える。zoom越しでは半分もつながっていると感じられない身体性の不足が、あと半分の気配を求めて街に繰り出す。

#PS2021

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?