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猫はできるけど、私にはできないこと

少し前、否だいぶ前、「メンタリスト」さんの発言がけしからんという事で、いわゆるエンジョウしていた。

まあぁ、確かに個人的価値観による発言だとしても世の中的には許されるものではない内容なのだろうことは、誰の目にも明白に思える。大方の部分では、私も「これは、まずいだろう」という気持ちになった。

しかし彼の失言に対して、私は大きな声で彼を非難することはできない。
何故なら、私の心の中には彼の意見に「ある意味共感できる気持ちがある」ことを少なからず自覚しているからだ

「メンタリスト」さんがどれほどの高額納税者かは知らない。しかし、彼の言葉を借りれば相当な額の納税をしているとか。
それに比して私は低所得者であり、更に、昨年からは障害者年金受給者になった。
もちろん、健康時には定められた額の納税義務は果たしていた。しかしながら、恥ずかしい事に自分が納めた税金がいかように使われているかという事をさほど気にしないで生きていた。
それが今、他者の税金で日本国民生活を享受している自分という立場になり、自分の存在にチョット違和感を感じている。

つまり、「メンタリスト」さんの価値観に批准すると、私はどちらかというと無くてもいい存在に近い。ましてや、他人を癒したりすることもできないので、この存在は、正に猫より劣るのかもしれない。

こんなふうに自虐的に自分の事を書くと、結局は彼の昔のエンジョウを揶揄しているんじゃんと言われそうだが、まあまあ、そういう事ではないのだ。

私は。自身の身体に障害が生じた時から、どんどん不自由になっていく自分自身が無価値になっていくと感じている自分を自覚している。

これは、今話しているのは自分自身についての事だけだが、結局、私の心の奥には「何もできない人なんて、生きている価値なんてないんじゃない」という価値観をずっと持っていたことが見え隠れする。

朝起きて、洗濯をして朝食と家族のお弁当を作る。もうそれだけで疲れてしまい横になる。昼から夕方まで、調子が良ければ散歩や野菜の収穫をして、調子が悪ければ終日横になり、日が暮れるのを待つ。夕食を作り、片付けながら「やっと今日も終わった」と思う。そして、明日の体調はどんなだろうかと思いを巡らせる。就眠するまではハッピー・アワーだ。明日こそは買い物に行こう、外食に行こうという気持ちになれる。朝起きたら、また同じように動かない身体があるんだけど。



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